癒しの心『逃げるは恥とは限らない』

癒しの心 カウンセリング

役に立つ逃げると役に立たない逃げるがある!

あなたは、逃げる事は恥だと思いますか
本当に自分が危険だと思う状況であれば、誰もが逃げる事を選択するのだと思います
あるテレビを見ていた時に、自分を守る能力が一番ある人は、足が速い人だと言っていました
それは、自分を確実に守れる最強の方法は逃げる事で、相手より足が速ければ逃げる事ができるからというのが理由でした
自分を守ることを考えたら、逃げる事が一番確実な方法なのかもしれません
であるなら、逃げる事が恥になるとは限らないように思います
誰もが逃げる必要があると思える状況であれば、逃げる事を恥ずかしいと思う人はいないと思います
ここで問題なのは、逃げる必要があると思う状況が人によって違うという事です
自分の中では逃げる必要がある危険度があっても、周りにそう思わない人がいる場合もあるのだと思います
そんな時、なぜ逃げているかという理由は無視され、ただ逃げるという行動だけで恥だと思わされてしまっているように思うのです
自分では危険から自分を守るために逃げているので恥ではない事はわかっていても、周りにそう思わない人がいる事で恥だと思ってしまうのだと思います
しかし、逃げる必要がある状況は個々によって違うのだと思います
であるなら、いくら他の人が逃げる必要がないと思っているからといって、自分が逃げる必要があると思って逃げた事を恥だと思うことはないように思うのです
他の人が逃げていない事から逃げる事が恥ずかしいわけではなく、自分が逃げてはいけない事から逃げるのが恥ずかしいのだと思います
その事から逃げる必要があるかどうかは、自分にしかわかりません
逃げる必要がある状況かどうかは、自分にしか決める事ができないのだと思います
だからと言って、何でもかんでも危険だとして逃げてばかりいるのは恥どころか論外だと思います
逃げた事が恥かどうかは、自分の心に正直でいれば、自分が一番わかるはずです
たまたま逃げていないからといって、逃げている人を恥だと非難する事は、誰にもできないのだと思います

逃げるには、逃避と逃亡があるように思います
逃避は、避けるという字が含まれ、逃げる事で危険を避ける事を意味するので恥でないと思います
逃亡は、亡くすという字が含まれ、自分が逃げた事自体を亡くそうとしているので恥だと思います
逃避は、恥ではなく役に立ちますが、逃亡は恥で役に立たない行動だと思います
もしあなたが、今の自分ではどう頑張ってもできない事に遭遇したらどう対応しますか
今の自分ではできない事を認めて「できません」と言いますか
それとも、できない事を認めたくないので「できます」と言いますか
人には、こんな選択に迫られる事があるのだと思います
「できない」と言うことは、逃げるので恥になると思うかもしれません
「できる」と言うことは、逃げていないので恥にならないと思うかもしれません
できない事を「できない」と言うのは「逃避」ですが、できない事を「できる」と言うのは逃亡になります
逃避は逃げている事が誰からもわかりますが、逃亡は逃げている事を周りに隠してしまいます
その事で何もなければ、逃亡は逃げた事にならないと思うかもしれません
しかし、自分の責任を放棄して、できない事をできるとして何も問題が起こらないわけがありません
大抵の場合は、初めから「できない」と言っていた時と比べものにならない損害を周りに与えるものです
その時に、できない事を認められればまだ良いのですが、逃亡した人の多くは、自分は悪くないと責任転換を周りにしてくるのです
やろうと思ったけど他のせいでできなかったと言ったり、挙句の果てには、できませんと言えなかったと、頼んだ方に非があるように言って、自分が逃げている事を亡くそうとしていくのです
誰でもできないと思われるのは嫌な事だとは思います
しかし、頑張らなければいけないとわかっていても、できない時はあるのだと思います
そんな時に「できません」という事は決して恥ずかしい事ではありません
確かに、その事で周りに迷惑を掛け、非難される事もあるかもしれません
しかし、自分ではできないと思っている事を無理に行う事の方が、もっと周りに迷惑を掛けてしまう事になるのです
しかも、自分で頑張れなと思っているのに、周りの目を気にして無理やり行ってしまうと、頑張れない自分にやらせた周りが悪いと、自分の心の中で周りのせいにしてしまうのです
その瞬間、逃避する事が逃亡する事に変わってしまうのだと思います
逃避は危険からは逃げますが責任からは逃げません、逃亡は危険から逃げませんが責任からは逃げます
最近は、危険からは「逃避」しないけど、責任からは「逃亡」する人が多いような気がします

人生において、逃げてばかりいては何もできません
しかし、時には逃げる事があっても良いのだと思います
まずは、逃げる事で自分を守る必要がある事を自分が知る
もし、自分を守るために逃げたなら、その事を自分が認め、受け入れる
そして、どうしたら逃げずに自分を守れるかを考えれば良いのだと思いますあなたは、逃げる事を恥ずかしいと思いますか
もし思うなら、それは自分から逃亡しているからでないでしょうか
逃げない勇気があるなら
逃げる勇気もあるのだと思います
逃げる勇気がない人の逃げない勇気は
ただ無謀なだけで、周りに迷惑を掛ける無責任な行動なのだと思います

逃げたい時は逃げましょう
そして、逃げた事を恥じるのではなく役に立てましょう
どうしたら、逃げなくて良いのか考えてみるのです
自分が逃げたいと思う事には自分を成長させる課題があります
その課題には、逃げる勇気がある人しか気づく事ができません
課題をクリアする事で、逃げない勇気が手にできるのです

今のあなたに逃げたい事があったらチャンスです
逃げる勇気を持ってその課題をクリアしましょう
そしたら、どんな事でも対応できる
逃げない勇気が持てるようになるはずです

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癒しの心『自分は悪くない』

癒しの心 カウンセリング

「自分は悪くない」は恥だが役に立つ

「自分は悪くない」と思ってしまう事はありませんか
心に余裕がある時はできるが、心に余裕がなくてやらなかったことがあった時、そう思ってしまうのではないでしょうか
「こうした方が良かったのに」と思えることを、できなかった時ではなく、やらなかった時に思うのだと思います
できなかった理由を探して「やろうと思ったけどできなかったので自分は悪くない」として、やらなかった事実を隠そうとしているのだと思います
自分の利己的な思いからやらなかっただけなのに、「自分は悪くない」と自分に言い訳している事は自分に対して恥なのだと思います
しかし、「自分は悪くない」と思ってしまう事は恥かもしれませんが役に立つのだと思います
私も恥ずかしながら「自分は悪くない」と思ってしまう事があります
そんな時「自分は悪くない」は恥だが役に立つと考えて、その事を今後の自分の成長につなげていこうと考えています
「自分は悪くない」と思ってしまった行動の中に、自分が成長できるヒントがたくさんあるからです
人は、何でも完璧にできるわけではありません
心に余裕があればできる事が、余裕のない時にはやれない事もあるのだと思います
「何でやらない」と、余裕がない自分の心に鞭打っても、心のストレスがただ大きくなるだけです
「自分は悪くない」と思ってしまう行動のどこかに、できるのにやらない行動が隠れているように思うのです
できるけどやらない行動を、どんな時でもできる行動にしていくにはどうしたら良いのか
そう考える事で「自分は悪くない」という恥ずかしい思いが、「自分を良くする」という成長する思いに変わっていくのだと思います

「自分は悪くない」と思ってしまう事の恥を責めて、思ってしまう自分の心がいけないとするのはやめましょう
心の中で思ってしまう事自体をいけないとしてしまうのは、自分で自分の心を否定する事になります
自分の心を否定してしまうと自分に自信がなくなり、自分にできる事がわからなくなってしまいます
そうなってくると、自分は何もできないと思い、周りに依存していくようになっていきます
周りに依存してしまっては、自分を成長させていく事はできないのだと思います
大切なのは、「自分は悪くない」と思ってしまう自分を否定するのではなく
「自分は悪くない」と思ってしまった行動には、できるのにやらなかった自分の心の弱さが隠されている事に気づいてあげる事だと思います
心の弱さには「もっと良くできたのにやらなかった」という自分なりの後悔があるのだと思います
私個人的には、後悔する気持ちはあった方が良いと思っています
後悔を引きずる事は良くないですが、後悔することで今後の自分を良くしていくために必要な事に気づくことができるからです
後悔するのは良くないとされる考え方が、「自分は悪くない」と思ってはいけないと否定する心につながっているのではないでしょうか
どんな事でも思ってしまう事を無視したり否定していては、自分で自分を信じる事ができなくなるのだと思います
思ってしまった事の中にある成長のためのヒントを、どのように活用していくかが大切なのだと思います
「こうすれば良かった」と気づいているのに、「~があったからできなかった」とやれない理由を探して、やらなかった事を正当化していてはいけないのだと思います
「こうすれば良かった」と思う行動を、いつでもできるようになるにはどうしたら良いかを考える事が必要なのだと思います

「自分は悪くない」と思った恥ずかしさに耐え切れず、「自分は悪くない」という事を周りに言い続ける事は、もっとやめましょう
周りに「そうだね」と同調してもらって、恥ずかしさを紛らわしていても、自分の行動は良くなっていかないからです
「自分が悪くない」と思った行動の中には、自分でも良くないと思える行動があるからそう思ったのだと思います
確かに「自分は悪くない」と思う事は、自分だけが悪かったというわけではないかもしれません
しかし同時に、自分の行動が良かったと言えるかというと、そういうわけでもないのだと思います
「自分は悪くない」と思うのは、悪い行動だったとは思わないが、良くない行動ではあった思うときに思うのだと思います
「悪くない」と「良くない」は言葉は違うかもしれませんが、言葉に込められた意味は同じだと思います
どちらも「良い」と同じ意味になる事はありません
「悪くない」行動も「良くない」行動もどちらも、良い行動にしていく必要がある行動だと思います
自分の良くなかった行動を悪くないと主張して、自分が良くない事を認めなければ良いと思う考え方は間違いです
そんな考え方では、周りの役に立つ事はありませんし、自分の役に立つ事もないのだと思います
自分の良くなかったところは無かった事にして、自分は悪くないと自分の心に嘘をついていてはいけません
最初はちょっとした嘘なので、心の中の違和感はあまりないかもしれません
しかし、自分の良くなかった事を無かった事にして「自分は悪くない」と主張して嘘を重ねていくと、心は歪んできてしまうのだと思います
自分の心に嘘をつくのはやめましょう
悪くないと思っているという事は、良かったとも思っていないという事に気づきましょう
悪くないけど、良くもない
であるなら、自分の心の恥を認めて、良いと思える行動は何であったかを考える必要があるのだと思います
自分は悪くない事を主張していても、心の中にフラストレーションが溜まって行くだけだと思います
最悪な場合は、周りに自分勝手な人だと思われる事もあるかも知れません
「自分は悪くない」と思ってしまったら、「自分は悪くない」と周りに主張する前に、ひと呼吸おいて落ち着きましょう
そして、自分は悪くはないかもしれないが、良くもない事に気づきましょう
自分が悪くない理由をいっぱい並べて、周りに同調してもらうのではなく
「こうすれば良かったかもしれない」という事を考えていくのです
「自分は悪くない」と思い続ける心と、「もっとこうすれば良かった」と思う心とでは、自分にとってどちらが良いでしょうか
人はいつでも、自分が良いと思う事ができているわけではないかもしれません
しかしいつでも、こうした方が良いと思えることを考えていく思考になる事はできるのだと思います
そんな思考になる事で「自分は悪くない」と思ってしまう事も役に立つのだと思います

何か良いことをしたいと思うなら
「自分は悪くない」と思った事にそのヒントが隠れているかもしれません
そんな時は、もっと良い行動が何であったかを考えてみて下さい
そんな思考癖になれば、マイナスな思いこそ、自分を成長させるヒントになるのだと思います
「自分は悪くない」と思う事はありますか
もし、あるならば、その時が自分を成長させるチャンスです
どうしたら良くなるかを考えてみましょう
「自分は悪くない」は恥だが役に立つ!
そこに、あなたが幸せになるヒントがあるはずです

癒しの心『マイルールにご用心』

癒しの心 カウンセリング

マイルールによる正義

自分が良いと思う事を人に伝えたい
それは、いい事だと思います
しかし、自分が良いと思う事を伝えた相手がそれを行うかどうかは、それを聞いた相手が判断することだと思います
自分がどんなに良いと思っても、共通のルールで決められたものでなければ、その事を良いと思うかどうかは個人の自由です
共通のルールによって決められていない物事の良し悪しを決めているのは、人それぞれのマイルールによるものだと思います
どんなに自分が絶対良い事だと思っていても、相手の意志による同意を得ずに押し切ってしまったら、それはただの強要でしかありません
いくらその人に「yes」と言わせても、それは、あなたのマイルールをその人に押し付けただけなのだと思います
人には、それぞれのマイルールがあると思います
同じようなルールの人もいれば、全く違うルールを持っている人もいるのだと思います
どのルールが正しいかは、その状況やどんな人たちの中で適用するかで全く変わってくるのだと思いますそこで、どんな世界にもマイルールとは別である共通のルールがあります
社会には法律があり、会社や学校には規則があります
スポーツにもそれぞれの競技ルールがあります
共通ルールがあるから人は、共通の「正しい」という判断ができるのだと思います
どんなにアウトローの人達でも、その人達の共通ルールは存在します
人が集まるところには、マイルールではない、何かしらの共通ルールが存在しているものだと思います
人が集団を形成している中では、共通のルールが必ず必要なのだと思います

人の社会における共通ルールは法律です
法律がなければ社会は成り立ちません
もし、法律がなければどうなるでしょうか
物事の善し悪しを決める判断が個人のマイルールに委ねられてしまい、全く不公平な歪んだ社会になってしまうのだと思います
実際に、国が違えば法律も違います
日本人が特に問題にしない事でも、他の国に行けば法律違反になることもあります
よく「正義」という言葉が使われますが、それはお互いの「正義」に関する共通観念がある時だけ使える言葉だと思います
共通観念がない人達が「これが正しい」「いやあれが正しい」と言っても、何も決まりません
正しいを判断する共通観念がなければ、何が正しいのかを決める基準が同じになる事はないからです
「絶対こうした方が良い」そう思う事はあるかもしれません
ただ思うだけではなく、筋の通った理由もちゃんと説明できるかもしれません
「それは正しい」と同意してくれ人もいるかもしれません
しかし、その物事が、これが正しいですという共通したルールをもとにしていなければ、その物事は、ただのマイルールによる意見に過ぎないのだと思います
どんなに同じ意見の人がいても、共通のルールではないマイルールのままでは、一個人の意見となんら変わりがないのだと思います
しかし残念ながら、何の共通ルールにもなっていないマイルールが、他の人もそうだと言っているという事で共通ルールのように用いられることがあります(実際には他の人はそうは思っていない事が多いのですが)
また、他の人がそうだと言っていても、その他の人のほとんどが、本当にその事が良いかどうかわからない、或いは、判断すらしようとしていない事もあるようにも思います

時に差別は、このマイルールによっておこるのだと思います
差別は、自分と違う事を受け入れられない、マイルールに原因があるのではないでしょうか
自分と違う事を受け入れられない人が、自分を守るためにその事を拒絶しているのだと思います(もちろん、そんな事をしても自分を守る事はできませんが)
誰もが、人を罵倒する事を良い事だとは思っていません
どんな悪人であっても、それが良い事だとは思っていません(だからといって、しないというわけではありませんが)
何かに対応できない「不安」から自分を守るために、差別という行動に出るのではないでしょうか
そこには常に正しい事する「正義」という観念が、間違った解釈をされている事が大きく関係しているように思うのです
正義は自分に対して問うもので、他の人に対して問うものではないのだと思います
もし他の人に正義を問うのであれば、自分のマイルールを基準にするのではなく、社会全体のルールを基準にするものだと思います
それが、漠然とした「不安」から自分を守りたいという気持ちだけが前に出てしまうと、マイルールが基準になってしまうように思うのです
自分のマイルールによる正義の基準を社会に押し付けてしまうのだと思います
何かしら大義という名目を掲げ、ただのマイルールを社会の共通ルールのようにしてしまうのです
人は、正義や大義という言葉に弱いのか、ただの保身によるマイルールを社会ルールのように惑わせているように思います

個人は、常にマイルールを基準に物事を判断にしているのだと思います
その事自体は何の問題もないと思いますし、それが無くなってしまったら大変だと思います
マイルールがない人は、周りが言う事に振り回されているただの烏合の衆にすぎなくなります
マイルールは、自分がどう生きて行きたいかを見つけていく上で絶対必要なものだと思います
しかし、マイルールはあくまでもマイルール
自分の心の中でしか使う事ができません
自分の心の中でしか使えないマイルールを基準に、世の中を判断してしまうのはとても危険です
あなたが何が正しいと思うかはマイルールが必要です
しかし、世の中で何が正しいかをマイルールだけで判断してはいけないのだと思います
本当のマイルールは、世の中の事を考えた上で基準が設けられたルールの事です
社会全体のことを考えてマイルールを決めている人は、決して自分の意見を押し通そうとはしません
しっかり自己主張はしても、最終判断はその人に委ねます
どんなに自分のマイルールが正しいと思っても、それを強要しようとはしません
なぜなら、マイルールはあくまでも、自分だけのルールだからです

あなたにはマイルールがありますか
そのルールは正しいですか
もし、正しいと思うことがあるなら
そのマイルールをもう一度見直しましょう
本当に社会全体の事を基準に置いたマイルールなのか見直しましょう
そうすれば、言葉ではなく、行動に出てきます
こうする、あーするという言葉で人を動かそうとはせず
自分が行動する事で周りに気づかせる事ができるはずです

あなたの最も良いマイルールは何ですか
日々、そのマイルールに従って行動していますか
もっと良くなると思うことを自分がする
そんなマイルールが『癒しの心』につながります!

癒しの心『自分を否定しない』

癒しの心 カウンセリング

自分にできる事を知る!
できない自分が嫌なんです!
カウンセリングでそんな事を聞く事があります
できない自分が許せなくて、自分で自分を否定しているのだと思います
確かにできない自分を否定する事で、一時的な心の非難にはなっているのかもしれません
しかし、自分を否定して心を非難させる事は、その後の事を考えるとリスクが高いように思います
自分を否定する事は痛み止めのモルヒネみたいなもので、どうしても心の痛みが我慢できない時に使う事があるかもしれません
しかし、それでは心の状態は何も解決しない事も同時に理解しなければなりません
そうでなければ、できない事をできるようになりたい、でもできない負のジレンマに陥ってしまいます
確かに、できないよりはできる方が良いかもしれません
でも、何でもできる人って世の中にいるのでしょうか?
そう問いかけてみると、ほとんどの人が「いない」と答えるのだと思います
ではなぜ人は、できない自分が許せないのでしょうか
何でもできる人間はこの世に存在しない
であるならば、自分にできない事だってあるのは当たり前なはずです
しかし、自分にできない事があると嫌な気持ちになる
とても不思議なことかもいしれません
人は、誰かに認められたいという思いがあります
できる自分は認められ、できない自分は認められない、そんな風に考えてしまうのかもしれません
しかし、必ずしもできる人が認められていて、できない人が認められていないとは限りません
できすぎる事が仇になり誰もが認めたくないと思う事もあれば、できない事が幸いして誰もが認めてあげたくなる事もあります

できない自分が嫌なのは、できない事で認められなかったらどうしようという「不安」がそうさせているのだと思います

できない自分が周りからどう思われているかは、自分ではわかりません
仮に、周りがあなたの事をできないと思っていたとしても、あなたの事を認めていないとは限りません
大抵の場合は、特に何とも思っていない事が多いのだと思います(他の人にとってはどちらでも良い事なので)
できない自分が嫌なのはあなた自身が勝手に思っている事なので、物事ができるできないに関わらず、自分の中で解決するしか方法がありません
もし、あなたが周りから認められていないと感じるなら、それは、あなたにできない事があるからではなく、あなたのできる事が周りにわかってもらっていないからだと思います
あなたに何ができるかがわかれば、周りはあなたを認めてくれます
あなたが、できない自分が嫌になるのは、自分にできる事を自分自身が知らないからではないでしょうか
自分にできる事は、物事をもっとより良くしていけると思える事です
その物事をもっとより良くしていけると思える事は、その物事が何のために必要かがわかっているかで決まります
物事ができるようになるには、まずはそれが何のために必要かを知ることなのだと思います
何のために必要かがわからない事をいくら頑張っても、できるようにはなりません
こなす事はできるかもしれませんが、それは本当にその事ができた事になりません
物事の本質が理解できておらず、できていたと思っていたことが、ただこなしていただけで、実は何もできていなかった事に気づかされるだけだと思います
何も知らない人同士が何もわからないまま行っている、ある特定のルールにとらわれて間違った解釈のもとに行われている
そんな場面を会社勤めの頃はよく見かけたものでした
他の人と比べるのではなく、今の自分自身と比べて、どうなりたいかではないでしょうか
自分は何がしたいのか、そして、何ができるのか
そこに、できない自分から打破できる鍵があるのだと思います

今の生活の中で、周りの人より自分ができると思えれば満足ですか?
もしそうであるならば、あなたの心は疲れているかもしれません
身近な誰かよりできていればいい、自分が一番下でなければいい
いつから、私たちは何に対しても順位をつけることに違和感がなくなってしまったのでしょうか
世の中で一番人気があるものが、自分にとって一番人気のものでなくても、何も困りません
自分ができない事があっても、それ以上にできる事があれば、人は認めてくれます
できない事に目を向けるよりも、できる事に目を向けた方が楽しい人生になるのだと思います
そして、楽しい事は決して「楽」ではないのだと思います
同じ「楽」という字を使いますが、この字を「らく」と呼んでいるうちは、本当に楽しい事が行えているとは言えないのだと思います
「楽」する事を楽しい事だと思い込むことで、自分を誤魔化しているだけなのかもしれません
できる事を見つけることは、自分が興味ある事をみつけること
「誰かに喜んでもらいたい」そんな気持ちで考えてみれば、誰でも興味ある事が見つかります
周りと比べること無く、順位など関係ない
人気No1のスイーツではなく、全く人気がないスイーツが美味しいと思う人もいます(私は意外とそうです、ちょっと天邪鬼なのかもしれませんが…)
誰かを喜ばしたいと思って物事を行っていれば、必ずそれが必要な人に巡り合うのだと思います

自分ができる事をしていきましょう
自分ができる事は、あなたが興味あることです
こうしたらもっと良くなるかもと思える事です
自分ができる事を積極的にしていると
自分ができない事が減ってきます
自分ができる事に意識向けて全力で行っていると
不思議と、できない事を頼まれることがなくなります

もし今、できない自分が嫌であるならば
できる事を積極的にしていきましょう
誰かに言われるのではなく
自分から「これ出来ます」と言ってみましょう
それが『癒しの心』なのです

癒しの心『人生の方向音痴』

癒しの心

他人まかせにしない

理由がわからないまま、何かをしていることはありますか
昔「これ何のためいやってるの」と聞いた時に、「わかりません」という答えが返ってきたことがありました
もちろん、何をするかはわかっているのですが、何のためにその行動をするのがわからないまま行動していたのです
言われたから、そうしなければいけないから、皆がやっているからなどという発言は、その行動が何のために必要であるかを知ることを拒否しているかのようにも思えるのです
何のためにその行動をするのかがわからないという事は、どの場所に行くかがわからないまま行動しているのと同じだと思います
人生には必ず目的があります
自分にはないと思っていても、気づいていないだけで、誰の心の中にも人生の目的はありますあなたの人生の目的は何ですか?
人は時に、人生の目的に対して方向音痴になってしまうことがあるのかもしれません
自分が今どこにいるのかわからなくなる時があるのだと思います
今の自分の行動は何のためにしたのだろう
この疑問に対する答えが「そう言われたから」「何かに書いてあったから」「皆がそうだから」「そうしないといけないから」などだったら、あなたは人生の方向音痴になっているかもしれません
人生の方向音痴になってしまうと自分が行きたい場所には行けません
自分では行っているつもりなのかもしれませんが、方向音痴なので、まったく違う方向に進んでしまいます

人の意見を聞きすぎて、人生の方向音痴になってしまっている人が多いような気がします
どんなに他の人が良いと言っても、どんなに他の人の行動が良く見えても、最終的にどこに行きたいかは自分の心の中にしかありません
他の人に意見を聞く事は構いませんが、自分の意志がないまま、他の人の進む方向に乗っかってしまうのは危険だと思います
どんなに他の人の人生が良く見えたとしても、それは他の人の人生であって、あなたの人生ではありません
他の人の方向性が自分とあっているときは良いですが、他の人の方向性が自分とぴったり合う事は皆無だと思います
もちろん参考にはなりますが、それをそのまま活用していては、方向音痴になってもしかたがありません
人生の方向性だけは、自分で選ぶしかないのです
あなたが進みたい方向は、あなたの心の中にしかないのです
もし今の人生にちょっとでも「んっ」といった小さな疑問があるならば、少し立ち止まって周りを見渡してみましょう
見えている景色に違和感があるようだったら、人生の方向音痴によって道に迷っているのかもしれません

人生の方向音痴になっている人は、気がついたら、何か行動する事自体が目的になってしまっているのだと思います
本来は、目的を達成するために行う行動が、本来の目的はどこかに行ってしまい、行動する事自体が目的なってしまっているのだと思います
それでは、人生の目的が達成される事はありません
どんなにその行動が素晴らしいものだとしても、人生の目的に向かわないものであるなら意味がありません
例えば、京都に行きたいという目的があったとします
京都に行くには、新幹線で行くのが一番良い方法なので新幹線で行くことにします
しかし、新幹線にも、東海道新幹線、上越新幹線、東北新幹線などいくつか種類があります
目的がちゃんとわかっている人は、もちろん東海道新幹線に乗ります
しかし、人生の方向音痴になっている人は、いつの間にか京都に行くという目的から、その手段でしかない新幹線に乗ること自体が目的になってしまいます
そうすると、京都に行くための新幹線を選ぶのではなく、自分が乗りたい新幹線を選んでしまうのです
誰かから、東北新幹線のグランクラスが快適で良かったと聞いたからといって、東北新幹線に乗っていては京都につく事はありません
仙台についた時に、言われた通りに新幹線に乗ったのになんで京都につかないんだといって、JRや周りのせいにしていてもどうにもなりません
言われた通りに新幹線に乗ったとして、自分が悪くないことを周りに認めさせても、目的地に着かない事実は変わりません
京都に行くには新幹線に乗ればいいと聞いたからといって、とりあえ新幹線に乗りますではいけないのです
人生の方向性を見失っている人ほど、どうでもいい事は良く知っているのに、肝心のことに関しては他人まかせな事が多いような気がします

人生の目的は自分にしかわかりません
他の人の意見を聞いたとしても
何を目的にしていきたいかは、自分の心の中にしかありません
今のあなたは何がしたいですか
今のあなたの行動は何のためにしていますか
もしわからず、人生の方向音痴になっていたなら
一旦立ち止まりましょう
そして、誰が喜ぶと自分は一番うれしいか思い浮かべてみて下さい
そのとき、自分が何をしたらその人が喜ぶかを考えてみて下さい
そこに、あなたの人生の目的があるはずです
それが『癒しの心』につながっていきます

癒しの心『悩みは成長の種』

癒しの心

悩み事を考え事にしていく

いま、何か悩み事はありますか
仕事の悩み、人間関係の悩み、自分自身に関する悩みなど、悩み事は尽きないかもしれません
人はなぜ悩むのでしょうか
自分の思い通りにならないから悩むのでしょうか
確かに、何事も自分の思った通りになるのであれば、悩む事はないかもしれません
ではどうしたら、人生は自分の思い通りになるのでしょうか
誰もが自分の言う事を聞いてくれることが、自分の思い通りになることなのでしょうか
そこには、「自分の思った通り」という言葉の解釈に答えがあるように思います

物事が自分の思った通りになるのは、自分の行動を周りの人が納得してくれる必要があると思います
いくら自分だけが思っても、周りの人が納得してくれなくては物事は進みません
周りの納得が、「それいいね」なのか「しょうがないな」なのかでも、意味合いは違ってくるのだと思います
周りが納得せずに自分の思った通りに行動しているのは、ただのわがままですし、地位や権力で強引に自分の思い通りにしているのは、ただの暴挙です
そのような人は、何事も人に押し付ける事で自分をごまかしている、自分の人生からただ逃げている人なのかもしれません
多くの人は、無理やり周りの人を納得させようとはしません(そんな事ないと思う人は、自分の人生から逃げているかもしれません)
だから、人は悩むのだと思います
人が悩むのは、誰もが納得できる「正しい」答えを求めているからだと思います

私たちは、何か納得してもらいたい時に、自然と正しい答えを求めようとしているのかもしれません
誰もが「正しい」と思う、一つしかない答えを求めてしまっているような気がします
学校で勉強してきた問題の答えは常に一つでした
その影響なのか、問題に対しての「正しい」答えは、いつも一つであると思ってしまっているのかもしれません
学校教育が悪いというわけではなく、現実としてそういう弊害があるのだと思います
問題に対して、正しい答えが一つだと思い込んでいると、人は悩むのではないでしょうか
人生の答えは、人それぞれだと思います
同じ仕事、同じ家柄、同じ年齢、同じような容姿をしていても、同じ人生にはなりません
まったく同じ人生を歩む人間がこの世に存在しないのに、人生における正しい答えが一つしかないというのは、少し不自然ではないかと思うのです
人生における問題の正しい答えは、人の数だけあるのだと思います
心の中ではそう思っていても、現実は、周りの人と違う答えではいけないと悩んでいるのかもしれません

何が「正しい」で考えるから人は悩むのではないでしょうか
誰もが正しいと思える事は、法律やルールで決まっているから「正しい」と言えるのだと思います
それ以外の正しい、正しくないは、それぞれ個人の主観によるマイルールによるものだと思います
マイルールの中での、正しい、正しくないは、人によって違うのだと思います
同じ人もいるかもしれませんが、マイルールである以上は、そのルールが適用されるのは本人以外はいないからです
スポーツでも、反則をしない事は誰もが「正しい」と思いますが、反則まで行かないプレーに関しては意見が分かれるのだと思います
勝負だから多少のラフプレイをすることを正しいと考える人もいれば、それはフェアじゃないから正しくないと考える人もいると思います
法律やルールの適用外に関しては、何が正しいか正しくないかで判断していても何にも解決しないのだと思います
ただ、どっちかのマイルールを押し通そうとする水掛け論があるだけなのだと思います
それなのに人は、法律やルールにある「正しい」というお墨付きを、マイルールにも求めてしまうのではないでしょうか

本来は、法律やルールでしか適用できない「正しい」という概念を、マイルールにも適用しようとしてしまうのだと思います
本来物事に対しては、何が「正しい」ではなく、何で「良くする」という基準で見る方が適切なのだと思います
それぞれの視点である「正しい」という主観ではなく、全体の視点である「良くする」という客観的な視点が必要なのだと思います
問題を解決したいなら、主観的ではなく、客観的な視点での対応が必要ではないでしょうか
何が「正しい」では、本当の解決にはならないのだと思います
何を「正しい」と思うかは、状況や人によって様々だからです
自分では正しいと思う事も、相手にとっては正しくない事もあります
それなのに、何が「正しい」という視点で物事を進めようとするから、人は悩むのではないでしょうか

悩むから、苦しくなります
何が「正しい」で悩むのではなく、何で「良くする」を考えるのはどうでしょう
「正しい」ことではなく「良くする」ことを考える
考えると悩むでは、自分が起こせる行動も違ってくるのだと思います
悩むという事は、何かを良くしたいと思っている証拠だと思います
どんなに困難なことでも、どうでもいいと思えることで悩む人はいません
ましてや、自分勝手な振る舞いや、力で人を押さえつけている人は、悩むことすらありません
悩むという事は、自分の人生に対して正面から向き合っている証拠だと思います
悩みは、人が成長していく種だと思います
悩みがあることは、今まさに成長しようとしているときではないでしょうか
物事に悩み始めたら、何が「正しい」ではなく、何で「良くする」を考えましょう
その物事を良くしていくために、今の自分に何ができるかを考えてみましょう
周りがどう思うかは関係ありません、周りに合わせようとする必要もありません
あくまでも、今の自分にできることだけを純粋に考える
周りがどうであっても、物事が良くなることで、今の自分にできる事を考えてみましょう
そして少しでも「良くなるかなぁ」と思える事があったら行動してみて下さい
その行動から、悩み事の本質が見え、もっと良くなる解決策が見えてくるはずです

あなたが悩み多き人なら、それは大きく成長する時期なのかもしれません
正しい答えではなく、もっと良くなる答えを見つけて下さい
今ある悩み事を考え事にしていきましょう
どうしたら良くなるかを考えてみましょう
そうすれば、あなたの悩む脳は、考える脳になっていくと思います
悩み事は、自分を大きく成長させる種です
種を大きく芽吹かせるには、考えるという肥料が必要です
考えることで、成長の種を大きく育てましょう
「癒しの心」という大樹になるまで!

癒しの心『理想による妥協』

癒しの心

本当の妥協で幸せな人生になる

理想の人生はありますか
今の人生は、その理想に向かっていますか
中々、人生は理想通りに行かないものかもしれません
どうしても、どこかで妥協が必要になってくるのだと思います
でも、妥協するのはダメな事なのでしょうか
妥協している人生は、ダメな人生なのでしょうか
妥協がダメかどうかは、どのように妥協しているかではないかと思うのです
理想に対して妥協しているのか、現実に対して妥協しているのかだと思います
理想による本当の妥協は、自分の事だけでなく周りの事を考えた未来に向けた選択だと思います
現実によるただの妥協は、自分だけの事を考えた今だけ良ければよいという選択だと思います
理想による本当の妥協をしていると、人は幸せな人生をおくれるのではないでしょうか

理想とは、誰もそうなりたいと思える事だと思います
理想は、それができるかどうかは別にして、誰もが思い描いて良いものだと思います
どんな人でも理想を思い描いてはダメという事はないのだと思います
それなのに「理想がない」という人は、自分で自分の人生に迷っている人ではないでしょうか
すべて『現実』という言葉に惑わされ、自分の人生を自分で決める事をさけて、他の決断に依存しているように思います
物事には必ず結果があります、その結果が現実だと思うのです
どんなに「そんな事はありえない、人としておかしい、そんな事は認めない」といっても結果である現実は変わりません
しかし、結果である現実をどう感じるかは、人によって違ってくるのだど思います
もちろん結果自体は同じですが、それに対する解釈は人によってそれぞれあるからです
解釈が違ってくれば、行動も変わってきます、行動が変わってくれば、「現実」に対する対応も変わってくるのと思います
人は、一つの現実から、国、人、地位など立場が違う事で様々な結論にいたるのではないでしょうか
現実に起こっている事は一つで、皆共通の事実なはずです
しかし、その現実に対する解釈がそれぞれある事で、争い事は起こってしまうのではないでしょうか
個人個人だけで自給自足の生活している社会ならば、個々が感じた「現実」の解釈で生きていても問題はないかもしれません
しかし、社会における生活の中では、個人が解釈する「現実」だけで物事を判断していては、意見がまとまる事はないように思います
大事なのは、理想だと思います
誰もが良いと思う理想を前提に考える事が、物事をまとめる上では重要なのだと思います

皆が良いと思える理想のもとにこそ、人類が幸せになるための本当の妥協があるのだと思います

理想があるから、本当の妥協ができる
どうしても、妥協はマイナスなイメージがあるような気がします
本当の妥協は、マイナスな事ではなく、理想の進化形であるプラスな事だと思うのです
妥協は、あきらめる事でもなく、我慢する事でもなく、負ける事でもなく、情けない事でもありません
そのように感じる妥協は、利己的な現実による妥協をしているからではないでしょうか
妥協という言葉を辞書で調べると「意見をまとめるために、対立するどちらかが断念する、譲る」などと載っています
個人的な利益(国益も同じです)を基にすると、辞書にあるようにどちらかが断念する、譲る事が妥協になるかもしれません
しかし、理想を基に妥協するならば、そうではないように思うのです
全人類が、国、人種、地位などの立場による利己的な妥協ではなく、本当に皆が幸せになる社会を理想とした妥協になったときに、全人類が納得できる社会の仕組みができるのだと思います

本当の妥協は決して、何かをあきらめたり、我慢する事ではないと思います
誰もが思い描く理想の社会に限りなく近づけていくために、必要なプロセスなのだと思います理想は決して現実になる事はないかもしれませんが、だからと言ってなんでも「現実」という言葉で片づける利己的な考えでは何も解決しないのだと思います
もちろん、理想を掲げているだけでも何も解決しません
理想を基にして本当の妥協ができる事が、困難な問題を解決に導いてくれるのだと思います
現実は何も私たちの未来を決めてはくれません
全ては現実をどう見ているかで、未来は決まるのだと思います
今ある現実はあなたにとって、良き未来を示していますか、それとも悪い未来を示していますか
どちらの未来になるかは、すべてあなたの理想が何であるかで決まるのだと思います
「皆が仲良く平和な社会では、人は幸せになれない」と思っている人は、世の中に一人もいないと思います
であるならば、今の世の中の現実はどうでしょうか
今の世の中で感じる幸せは、たまたま運がいい所にいるだけなのかもしれません

理想による本当の妥協の先に、本当の幸せはあるのだ思います
あなたの人生の理想は何ですか
その理想に向けて、あなたは本当の妥協をしていますか
現実という終わった結果に惑わされず
理想ある本当の妥協ができる心
そこに「癒しの心」があるのだと思います