癒しの心『自分が行動する』

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自分が今できる事をする

誰かにダメ出しをした事はありますか
ダメ出しは、ただ相手を責めているだけなのか、相手にダメな所を改善してもらいたいのかでは、その行動の意味は違ってくるとは思います
ただ相手を責めているだけであれば、そのダメ出しは必要ないと思いますが、相手に改善してもらいたい場合でも、ダメ出しをしているだけでは意味がないように思います
ダメな行動をしている人に、ダメ出しをしたくなる気持ちもわからなくはないですが、ダメ出しをされて自分の行動を改善できる人は、ダメ出しされなくても改善できると思います
相手の行動にダメ出しをしなければ、その人の行動が改善されないという事はないように思います
自分がどんなに良いと思う事であっても、ダメ出しをしていたら、改善できる事もできなくなる事があるように思います
本当にその人にダメな行動を改善してもらいたいと思うなら、その人の行動をダメ出しをしていてはできないと思います
ダメ出しをされた人が、ダメ出しをしている人の意見を快く聞けるとは思えません
ダメ出しをされるようなおかしな行動をしている人が、ダメ出しを素直に受け止められるとは思いません
もちろん、どんな人であっても、周りからの言葉に耳を傾ける必要はありますが、実際にそれができるかどうかはまた別の問題だと思います
もし、周りの言葉に耳を傾ける事ができる人であれば、ダメ出しをされなくても自分の過ちに気づいて改善していくようにも思います
ダメ出しをしたくなる人は、何がダメなのかがわかっていない事が多いように思い、そんな状態の人にダメ出しをしても聞く耳は持てないようにも思います
その人がダメな事をしていればしているほど、その人にダメ出しをする事は逆効果のように思います
人は、自分が聞きたい事は良く聞こうとしますが、自分が聞きたくない事はなるべく聞かないようにしていくと思います
自分が聞きたくない事でも聞く必要がある事はわかってはいるけど、聞いてしまったらダメな自分を認めた事になると思って、聞きたくないと思ってしまう事もあると思います
わかっているけどできない、という言葉を聞く事があるのは、そんな思いがあるからではないかと思います
なぜならば、本当にわかっているなら、その事ができないという事はないからです
わかっているけどできないにあるのは、言っている事がわかっているだけで、どうしてその事をする必要があるかが理解できていない状態があると思います
わかっているけどできないは、言っている内容はわかるけど、その事をする必要性や行い方が理解できていないので、その事ができないという状況があると思います
その事の必要性を理解していない人にダメ出しをしても、その人の行動が変わる事はないように思います
それだけでなく、ダメ出しをされればされるほど意固地になり、もっとダメな行動をしていくように思います
多くの人がしてしまう間違いは、ダメな人にダメ出しをしてしまう事だと思います
ダメな事を改善してもらうには、ダメ出しをするのではなく、ダメな行動を改善する必要性がある事を理解してもらう必要があります
「これがダメだ」とダメ出しをするのではなく、相手に改善した方が良い行動を伝える必要があると思います
その人がどう改善すれば良いのかを伝えずに、自分がダメ出しをしている事があるなら、それではただの自分のうっぷん晴らしをしているのと何も変わらないと思います
自分のうっぷんを晴らしをしたいのか、本当にその人に改善してもらいたいのか、どちらの思いが強いのかによって、ダメ出しをしてしまうかどうかが決まってくると思います

相手にダメ出しをしてしまう時は、その人の事を良くしたいという思いよりも、自分の方が相手より優れていたいという思いがあるように思います
その人の事を良くしたいと思ってダメ出しをしている人であっても、ダメ出しができるのは相手より自分の方が優れていると思っているからだと思います
その人の事を良くしたいという思いがある人はまだ良いですが、自分のうっぷん晴らしでダメ出しをする人は、自分の方が相手より優れている事を見せつけるためにダメ出しをしているように思います
もし、自分のダメな所を自覚している人であるなら、他の人のダメな所をダメ出しをしようとは思わないと思います
誰かにダメ出しをしているという事は、どこかにダメ出しをしている相手を下に見ている自分がいると思います
本当に相手に改善してもらいたいなら、ダメ出しをして自分が優位に立つのではなく、相手と対等な関係になった方ができると思います
例え、組織としての上下があったとしても、その人の行動を良くしたいと思うなら、ダメ出しをするのではなく、相手がしているダメな行動をどう変えれば良くなるのかを諭した方が良いと思います
物事を行えば良くも悪くも結果が出ますが、結果が出た後でダメ出しをするのは問題があるように思います
結果が出る前にダメ出しをしているならまだしも、結果が出た後にダメ出しをされても、結果が変わる事はありません
結果が出た後であれば、誰でもダメ出しをする事はできます
結果が出た後のダメ出しが、次の行動に繋がる事はあまりないように思います
それなのに、結果が出た後にダメ出しをする人は多いように思います
ダメ出しはしない方が良いと思いますが、その中でも、結果が出た後に対してダメ出しをする事は意味がないだけではなく、その人が良くなっていく事を妨げていく事にもなると思います
結果がダメであれば、その事を行った本人が一番わかっています
結果が出てしまった事を、こうしていたら、あれをやっていれば、と「たら、れば」を言ってダメ出しをされても、どうする事もできません
終わった事をダメ出しをされるほど、誰も良くしない発言はないように思います
もちろん、ダメ出しをされるような事をした方が反省しないのもいけないと思います
謝る事と反省は違います
謝れば反省した事になると思うのは間違いで、謝っても、また同じダメな行動をしていれば、そこには反省がなかったといえます
そもそも反省は、自分がダメな行動を省みて、周りのアドバイスを聞きながらダメな行動しない方法を自分で見つけていく事だと思います
周りがダメ出しをしているだけなら、それはアドバイスではないのでスルーしても良いですが、そうではない事までスルーするのはよくありません
終わった事のダメ出ししかしない人も、謝罪すれば反省した事になると思っている人のどちらも、ダメな事を良くしようと思う思考になっていないと思います
本当にダメだと思う事を良くしたいと思うなら、その事をダメ出しをするではなく、どうすればダメではなく良い事になるのかを考える必要があると思います
ダメである問題点を浮き彫りにし、どうすればダメな行動が良くなるのかを見つけていく必要があると思います

それには、まずは自分が今できる事を考え、それを自分から率先して実行していきましょう
他の人に、自分がダメ出しをしたいと思った事をして欲しいと思うなら、ダメ出しをするのではなく、その人がダメな事を改善できるようになる為に、自分ができる事をしていきましょう
ダメ出しをしたいと思った事を自分ができるなら、模範として相手に見せるのもいいかもしれませんが、そうできない場合もあると思います
そんな時は、人の事をとやかく言う前に、今の自分ができる事を自分からしていきましょう
今の自分のできる事をした上で、ダメ出しをするのではなく、ダメな人が何をした方がいいのかをアドバイスすればいいと思います
どんなにその人が改善した方が良い事を言っていても、ダメ出しをされた事を素直に聞き入れる人は少ないと思いますし、自分では何もしようとしていない人のダメ出しを聞こうとも思いません
会社の上司からダメ出しをされても、その上司が上司としての仕事していなければ、どんなに適切なダメ出しをしていても、誰も聞き入れようとはしないと思います
ダメ出しをしている方はわからないかもしれませんが、ダメ出しをされて方はダメ出しをした人の行動を見ています
ダメ出しをした人が、ダメ出しをするに値する行動をしているかどうか、見ていないようで見ています
ダメな行動のダメ出しは、誰にでもできると思います
ダメな事をダメだというのは、その行動がダメであれば誰でもできると思います
その時に本当に必要なのは、ダメ出しをする事ではなく、ダメな事を改善できるようにしていく方法を知る事だと思います
もちろん、ダメな行動に気づしていない人に、その行動はダメだと気付かせる必要はあります
だからといって、ダメな行動だと思っていない人が、誰かにダメ出しをされてダメな行動に気づく事はないと思います
もし気づく人がいたなら、それはダメ出しをしなくても、普通に指摘すれば気づく人だと思います
ダメ出しをしたくなるほどダメな行動している人は、ダメ出しをされたくらいでその行動がダメだとは気づかないと思います
そういう人に本当に気づいて欲しいなら、ダメ出しをするのではなく、その行動ではその人がしようとしている事ができない事を理解してもらう必要があります
今のダメな行動ではなく、違う行動をした方が良いという事を理解してもらう必要があると思います
それには、「こうしろ」と強くダメ出しをしていては、聞けるものも聞けなくなると思います
自分は何もしていないのに、ただ「こうしろ」といっているなら尚更だと思います
その人の間違っている行動を改善したいなら、何が間違いで、何を改善したら良いのかをその人が理解できる言葉で伝える必要があると思います
それと同時に、自分も自分ができる事をしていく必要があると思います
どうしたらいいかをアドバイスできたとしても、アドバイスをしている人が自分ができる事をしていなければ、その言葉に説得力はないと思います
過去の経歴は重要かもしれませんが、大事なのは今の行動だと思います
ダメ出しをしたい相手がいるなら、ダメ出しをするのではなく、その人が良くなる行動をアドバイスしましょう
そして、今の自分ができる事を自分からしていくようにしていきましょう
すぐに相手に伝わるかどうかはわかりませんが、自分ができる事を率先して行っていく事が、ダメな事をしている人の行動を変える一番の方法だと思います

あなたは、誰かにダメ出しをしてしまう事はありますか
その人の為だからと思っていても
ダメ出しをしている時点でその人の為になっていません
確かに、ダメ出しをしたくなる行動があるとは思いますが
ダメ出しをする事で、その行動がなくなる事はないと思います
それなのにダメ出しをしてしまう事があるのは
ダメな人の為ではなく、自分の為だと思います
ダメな人の為という思いがないとは言いませんが
ダメ出しをしている時は
ダメな人への思いより、自分の苛立ちを晴す気持ちが出ています
誰かにダメ出しをしている時は、その事の良し悪しより
自分の苛立ちが先に出ている事に気づきましょう
ダメ出しをしている内容がどんなに適切でも
苛立っている人の言葉が心に届くとは思えません
どんないい言葉でも、苛立って発している言葉に
何かを気づかせる力があるとは思えません
あなたの為だから、そう思って
相手にダメ出しをしたいと思う事があるなら
一回こらえて、相手にどうなって欲しいかを考えましょう
そして、その為に自分ができる事を考えて
まずは自分が行動していきましょう
そうすれば、ダメ出しをしようと思う事もなくなり
相手が改善した方が良い事をそのまま伝える事ができ
相手もその事を理解してくれるようになります

筆者の本
本3

癒しの心『事実と虚実』

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わからないという事実もある

私たちの周りには多くの情報が溢れています
今はネットで調べれば多くの情報を得る事ができるとは思いますが、その分フェイクニュースによる嘘の情報も溢れていると思います
嘘の情報に惑わされたり、振り回されていくのは誰もが嫌だと思います
どれが本当でどれがフェイクかは、ある程度時間をかけて検証していけば大体はわかると思います
しかし、それをしないでいると、真意がわからない情報に惑わされたり、振り回されていくようになります
真意がわからない状態には、自分が真意をわかっていないだけという事実と、実際にまだ真意がわかっていないという事実の、二つ事実があると思います
真意がわからない事の多くは、前者の自分がわからないだけだと思いますので、自分が真意を知っていけば良いだけだと思います
しかし、後者のわからないという事実は、誰もその事の真意がわからないので、自分が真意を知りたくても知る事はできず、そこにはあるのは真意がわからないという事実になります
専門的な情報は特にそうですが、その中でも、専門家の中でも意見がわかれるものはどれが真意なのかがわかりづらい事もあります
それだけでなく、ネットにはフェイクニュースが溢れていて、嘘の情報が本当のように思ってしまう事もあります
フェイクニュースに騙されたくないとは誰もが思いながら、ネットにある情報の真意を見ることなく、フェイクニュースに踊らされてしまう事もあると思います
ネットの情報が正しいか正しくないかを判断するには、誰がその情報を発信しているかはカギになると思います
専門家や関係者が言っていたなど、また聞きのような真意があやふやな記事は、情報としての信憑性は低いと思います
特に衝撃的な内容の情報は、情報源が特定できるまでは周りには拡散しない方がいいと思います
フェイクニュースに惑わされない為には、わからない事はわからないとして、それは自分が知らないだけで真意がわかっている事なのか、そうではなく誰も真意がわからない事なのかを知る必要があります
真意がわからないという事は、現段階ではその事の真意がわかる人はいないので、そこには、わからないという事実があるという事を理解する必要があります
それなのに、わからないのは嫌だ、困る、何でわからないのか、とわからないという事実がある事を理解しようとしないと、フェイクニュースなどの嘘の情報に惑わされていくように思います
わからないという事実があるのに、その事実を無視して、わからない事を無理やりわかろうとしてしまうと、そこには事実ではない事も混在していきます
真意がわからない事を無理にわかろうとしてしまうと人は、自分の頭の中でわからない事を創作してしまう事があります
自分の頭の中で創られていく事はもちろん事実ではなく、それは私が創作した私実でしかありません
私が創作した私実を事実として周りに伝えてしまうと、それは事実ではない事が混在した虚実になってしまいます
私実が許されるのは自分の頭の中だけで、自分以外の人に私実でしかない事を事実のように伝えてしまうと、事実は虚実になっていきます
わからない事を知りたいという気持ちはわからなくもないですが、世の中にはわからない事もあります
事実を事実として見ていくには、自分がわからないのは不安だからといって、事実を私実にして虚実にしていてはできません
まずは、物事にはわからないという事実がある、そう理解していく事が必要だと思います

人はわからない事があると、不安になってしまう事があります
わからない事があっても、わからない事はわからないと受け止めてわかっている事の中で対応していけばいい、そう思えれば、不安になる事もないかもしれせんが、多くは「なぜ」と思って不安になっていきます
自分がわかっていないだけであるならば、自分がわかっていけば良いとは思います
しかし、そうではないわからない事で不安になってしまうと、その事をわかって不安をなくす事はできません
どんなに自分がわかりたいと思っても、誰もわからない事をわかる事はできません
それなのに、わからない事が不安でどうしようもなくなり、誰にも真意がわからない事をわかりたいと思ってしまうと、人はその事を予想していくようになります
初めは「そうじゃないか」と単なる想像にすぎない事が、わからない事による不安が大きくなってくると「そうかもしれない」という妄想に変わってきます
想像はあくまで自分が生み出したものなので、想像の部分は事実ではない事は自分でも理解していますが、想像の中にこうだったらという自分の願望が入ってしまうと妄想になっていきます
想像の中に願望が入って妄想をし続けてしまうと、妄想が事実になって欲しいという欲望が加わっていきます
妄想に欲望が加わってしまうと、「そうかもしれない」と思っていた事が「そうに違いない」と幻想を描くようになっていきます
妄想から幻想を描くようになってしまうと、わからない事実があっても「そうに違いない」と勝手に自分の主観で結論付けて私実を持つようになります
人はわからない事を予想してしまい、わからない部分を想像をしていく中で願望が入ってしまうと妄想になっていき、妄想の中で欲望が入り混じってくると幻想を描いていきます
願望や欲望がある幻想は予想でなくただの空想でしかなく、そこにあるのは事実ではなくただの私実であり、やがてそれは虚実になっていきます
わからない事を不安に思ってしまうのもわからなくはないですが、だからといって、自分で妄想や幻想を描いて事実を虚実にしていては本末転倒です
わからない事を不安に思ってしまうのは、物事にある事実を見ていく事ができていないからだと思います
真意が誰にもわからない事は、自分がわかりたいと思ってもわかる事はできません
事実を自分の幻想の入った私実にして虚実でわかったと思っていても、わからない事がわかっている事にはなりません
そのまま虚実でわかったと思って行動していては、が間違った方向に人生が進んでしまう事もあります
自分だけ間違った方向に進むだけならまだいいですが、時には他の人の人生を間違った方向に進めてしまう事もあります
わからない事を予想してしまい、想像して、妄想して、幻想を描いた私実から虚実になって、それを周りに伝えていてはフェイクニュースを流しているのと同じ事になります
自分が嘘をついていると思っていない分、フェイクニュースより質が悪いかもしれません
フェイクニュースを流す事は論外ですが、わかっていない事を虚実にして流していく事もやめた方が良いと思います

わからない事を予想してしまうと、想像から妄想になって幻想を描き虚実になりますが、仮設を立てるようにすれば、虚実にする事はなくそのまま見る事ができます
仮説には検証が必要であり、検証に願望や欲望が入る事はないので妄想や幻想を描く事はなく、虚実になる事もありません
予想はどうしても自分の主観が中心になってしまいますが、仮説は客観的な視点が中心にならなければ立てる事ができないからです
予想も仮設も「そうかもしれない」と考える事から始まるとは思いますが、それが「そうに違いない」となっていくかどうかで、事実か虚実になるかの分かれ道だと思います
「そうに違いない」は、わからない部分を自分の願望や欲望によって付け足された部分がある事を表してます
本当にわからいない事がわかったのであるならば、「そうに違いない」という表現は使わないと思います
本当にわかっているなら「そうである」と言い切る事ができるはずです
虚実になっている時も「絶対そうだ」と言い切りますが、虚実の場合は必ずその前に「そうに違いない」という思いがあります
どんなに最終的に「そうだ」と言い切れても、その前提に「そうに違いない」がある場合は、そこにあるのは虚実だと思います
「そうに違いない」という状況をなくすには、同じ「そうかもしれない」でも予想ではなく仮説として思う事が必要だと思います
わからない事をわかりたい時は予想ではなく仮説を立てる、そう思っていけば、自分の主観にある願望や欲望が入って妄想や幻想を描く事を防ぐ事ができます
仮説はあくまでの仮なので、それを検証する必要があります
願望や欲望が入っているのは予想でしかないので、検証すると思えば必然的に妄想や幻想を排除する事ができます
わからないままでは不安になると思って、「そうかもしれない」と思う事を「そうに違いない」にしていたら、それは仮説ではなく予想になっています
どんなに自分では仮説を立てているつもりでも、わからない不安を解消しようと、わからない部分を自分の想像で付け足していては、それは仮説ではなくただの予想でしかありません
予想は予想のまま終わらせているならいいですが、大抵の場合は、予想は予想のまま終わる事なく妄想や幻想になってしまいます
わからないという事実がそこにあるのに、「こうだったらいいのに」と妄想や幻想にしていくのは危険です
仮説が予想にならないようにしていくには、わからないという事実がある事を理解する必要があります
現段階では、その事がわからないという事実がそこにある、そんなわからない事をわかったと思うのは予想による私実である、という事を理解する事だと思います
仮説の検証は、わからない事をわからないとしなければする事ができません
わからない事を、あーだこーだ予想するのは構いませんが、それが事実であるかの検証が済むまでは、その予想は事実ではなくただの私実です
事実ではない事を事実のように他の人に伝えてしまうと、自分は嘘をついているつもりはなくても、結果的には嘘であるフェイクニュースになってしまう事もあります
わからない事を自分が不安に思っても思わなくても、わからない事自体は何も変わりません
わからない事が自分に何か悪影響を与えているとしたら、それはわからない事を不安に思っている自分の思考のせいだと思います
不安は自分がつくり出しているもので、不安に思っている事がつくり出しているわけではありません
わからいない事を不安に思わないようにするには、わからないという事実がある、という事を理解する必要があると思います

あなたは、事実がわかっていない事を「そうかもしれない」と予想した事はありますか
予想するだけなら良いですが
「そうかもしれない」と思った事が「そうに違いない」となっていたら危険です
「そうに違いない」と思っている時は
わからない事を不安に思っているときだと思います
わからない不安に陥ってしまい、事実が私実になっています
そのままだと、私実はやがて虚実になっていきます
虚実を事実だと思って周りに話していると
事実ではないことが拡散していきます
初めから嘘であるフェイクニュースはいけませんが
虚実を事実として拡散する事も良くありません
自分は善意のつもりでも、事実でない事を広げていては
結果的にはフェイクニュースと同じ事をしている事になります
わからない事の不安に陥る事なく
事実を事実のまま見れるようになりましょう
わからない事を妄想や幻想するのではなく
わからないという事実を理解していきましょう
そうすれば、わからない事を不安に思う事もなくなります
わからないという事実もあるという事を理解していく事が
本当の事実を見ていく一番の方法だと思います

筆者の本
本3

癒しの心『コメントにある真意』

癒しの心 カウンセリング

非難か批判、意見か感想の違い

ネット上のコメント欄に何かを書き込んだ事はありますか
コメント(comment)を英和辞典で調べてみると批判や批評と訳されています
批判や批評を辞書で調べてみると、物事を判定、評価する事と書いてあります
コメントは、その事を自分なりに判定したり、評価した事を書くものだと思います
それなのに、コメントが批判ではなく、非難になっている事があるように思います
批判と非難は同じ事を表しているように思うかもしれません
確かに、その事を判定や評価している事は同じかもしれませんが、批判が相手に改善を促しているのに対して、非難は相手を責める事を意味していると思います
コメントである批判は、ダメな所だけでなく良い所を判定、評価する事もあり、それは、相手を責めるのではなく改善を促すために行うものだと思います
しかし、それが非難になってしまうと、改善を促すという事はなく、相手を責めるだけになってしまうように思います
今のコメント欄では、批判や批評であるコメントを書いているつもりが、非難になっている事も多々あるようい思います
相手にとって批判や批評は参考になりますが、非難が参考になる事はないと思います
非難している内容に相手の改善した方がいい内容があっても、相手を責めていてはその事が伝わる事はないように思います
相手のダメな所を批判や批評するのは、本来は相手に良くなってもらいたいと思ってするものであって、相手のダメな所をただ責めていくのは非難でしかないと思います
コメント欄としている所に、誹謗中傷を書くのは論外だとは思いますが、どんなに最低の事が書いてある内容だとしても、コメント欄で非難するのは違うように思います
初めはただの感想や意見でしかなかった思いが、書き込んでいる内に批判や批評になり、その内に非難になっている事もあるように思います
自分の思いを他の人に伝えていく事は、他の人がその事を望んでいれば、自分にとっても他の人にとっても有意義な事だとは思います
しかしそれは、批判や批評までの事であって、相手を非難する事は、相手だけでなく自分にとってもマイナスな事しかないように思います
誰かを非難する事でストレスが解消されていると思っていると、心はもっとストレスを感じるようになっていきます
コメントされる方も、すべてのコメントに一喜一憂するのではなく、的を得ているコメントは参考にして、全く的を得ていないコメントは受け流すようにした方がいいと思います
もし、自分にとって良いコメントだけ見たいと思っているならば、コメント欄はオフにする事をお勧めします

なぜ人は、周りの事がそんなに気になるのでしょうか
周りの事が全く気にならないというのもどうかとは思いますが、やたらと気にするのもどうかとは思います
いつでもどこでも自分の思いを伝える事ができる仕組みはいいとは思いますが、誰もが見れる状態で発信しているのであれば、目の前に誰かがいると思って発信した方がいいと思います
人の陰口が良くないのは、陰口が陰口のままで終わらずに、相手に伝わってしまう事があるからだと思います
ネットの中でのやり取りは、陰口を相手に伝えているようなものが多々あると思います
お互いの素性がわからいやり取りは、陰口を伝えているのと同じ事のように思います
ただ、お互いの感想や個人的な意見を言い合っているだけならまだいいとは思いますが、そうでなければ、相手には自分の素性を明かした方が良いように思います
相手を非難しているのであれば尚更だと思います
誹謗中傷は論外ですが、相手の発言や行動を非難するのであれば、相手に自分は何者だという素性を明かした上で行った方が良いように思います
どこの誰かわからない人に非難されても、責任を感じて反省する人はいないように思います
もちろん、本当に自分に落ち度がある事を非難されているのであれば、誰に言われても責任を感じて反省をする必要はあるとは思います
だからといって、その事に直接関係なく、どこの誰だかわからない人が非難する事が、そこにある問題の解決に役立つ事はないように思います
日々のニュースにある出来事を見ていると、思わず突っ込みたくなる事もあるとは思います
もしそうであるなら、自分の心の中だけで突っ込みましょう
他の人のSNSまでいって指摘していては、ただの感想による個人的な意見が、その内相手への批判になり、ヒートアップしてくると非難になり、行き過ぎると誹謗中傷になっていきます
初めはただの個人的な感想や意見だったのが、相手の土俵に上がってしまうと批判になり、熱くなると相手の間違いや過失を探して非難するようになっていきます
誰だかわからない人の非難は、陰口を目の前で言われているのと同じ気持ちになるように思います
ネットの中でも、個人的な感想や意見を言う場と、何かを批判する、或いは非難する場は分けた方がいいように思います
コメント欄に関しても、もらったコメントのうちのどれをオープンにするかは、コメントをもらった人が決めれるようにしてもいいように思います
コメントなどの他の人のリアクションも含めて、発信している人が何を公開していくかを決められる方がいいように思います
そうすれば、過度な炎上はなくなり、炎上しているのは意図的に炎上させたい人だけになるように思います

自分の投稿に、感想や意見だけを求めているのか、或いは、批判や非難まで求めているのか、どちらになるかで、コメント欄がコメントという表記でいいのかが変わってくるように思います
何か第三者からのリアクションが知りたいと思うなら、感想(impression)、意見(opinion)、批判(comment)、非難(criticism)の、4つの項目に分けても良いように思います
コメント欄一つしかないから、感想や意見、批判や非難が同じ所に入り混じって炎上していくように思います
自分の個人的な感想や意見を言っているだけなのか、その人の投稿に何かしら物を申す批判をしたいのか、或いは、その人の投稿に関して責めたい非難なのかによって欄を分けても良いように思います
そして、感想や意見は匿名でも構いませんが、批判や非難をするのであれば、その相手にだけには自分が何者であるかを知らせる必要があると思います
その上で、他の人を巻き込む事なく、当事者同士だけでバトルしてもらえばいいように思います
コメント欄がオープンになっていた方が良い事もあるとは思いますが、大概はオープンにする必要のない事の方が多いように思います
そうであるなら、どのコメントをオープンにするかしないかは投稿者が決めれるようにして、見ている側はコメントがフルオープンなのかそうでないのかがわかればいいように思います
そうすれば、感想や意見のつもりだったものがヒートアップして、批判や非難になっていかないように思います
人は、自分が正しいという気持ちが強いと、他の人に対して感想や意見を言うつもりが、批判や非難になってしまう事があるように思います
確かに、その人の発言内容に間違いや過失があるならば、それを指摘してあげた方が良い事もあるかもしれません
仮にそうであっても、少なくとも批判である必要があり、決して非難する必要はないように思います
批判は、その人の発言内容を判定、評価して、間違いや過失があればそれを修正するように促していく事になります
そういった意味で批判は、相手の受け取りかた次第にはなりますが、批判された相手にとって有意義な事になる場合があります
しかし非難の場合は、相手の間違いや過失を探して責めるだけで、その事を修正するように相手に促す事はないように思います
相手の間違いや過失によって、何か被害を被った当事者や関係者が非難するのはわかりますが、全く関係のない第3者が非難するのは違うように思います
第3者ができるのは、非難ではなく批判までだと思います
初めは、個人的な見解である感想や意見だったものが、正義の代弁者のように批判になって、挙句の果てに非難になっていては本末転倒のように思います
何か問題を解決していきたいなら、非難していても何も解決はしていかないと思います
本当に正義の代弁者だと思うのであれば、責任追及する非難ではなく、問題の解決策を見い出せるような批判や批評をしていきましょう

他の人のコメントを気にする事はありますか
もし、気にする事があるならば
コメント欄をオフにする事をお勧めします
どんなにコメントによるプラスがあっても
気にするコメントがあるならば
コメント欄は総合的にはプラスにならないと思います
他の人が自分の事をどう思っているのか
その事を気にするのもわからなくはないですが
他の人がコメントで本当の事を言っているとは限りません
それは、良い事だけでなく、悪い事も同じです
何かの目的があるなら、コメント欄の意義はあると思いますが
そうでないなら、コメント欄はいらないように思います
他の人の意見は、自分を客観的に知るには必要です
しかしそれは、自分と本当に向き合ってくれる人の意見だけです
誰だかわからない人の意見が役立つ事は無いように思います
ビジネス活動では必要であっても
個人活動では必要がないと思います
自分にとって本当に必要なコメントは
顔も名前もわからない人ではなく
自分と正面から向き合ってくれている人のコメントです
それには、まずは自分が自分と向き合っていきましょう
そうする事で、自分に必要なコメントしてくれる
遊ぶ遊人ではなく、友である友人が得られるようになり
自分に必要な本当のコメントがもらるようになります

筆者の本
本3

癒しの心『初めからやり直す』

癒しの心 カウンセリング

やり直しても同じにはならない

これまでの努力が水の泡となり、初めからやり直さなければいけなくなった、そんな経験はありますか
これまで頑張ってきたけど、結局その行動では上手くいかない、或いは、違う方向に進んでいるとわかった時、元の位置まで戻って初めからやり直した方が良い事もあると思います
人生は何の問題もなく順風満帆にいく事はほとんどなく、順風満帆かと思っていてたら、ちょっとした分岐点を間違ってしまい、取り返しのつかない事態になる事もあるように思います
今の自分は何をやっても上手くいっている、そんなちょっとした過信によって、慎重に行動している時には見える人生の分岐点を見逃してしまう事もあると思います
どこかで自分の人生の分岐点を間違えたかも、そう思う事があっても人は、間違った所まで戻ってやり直すのではなく、間違った道をそのまま進んでしまう事があるように思います
しかし、自分が間違ったかもしれないと思う道を進んでいても、なりたい自分になる人生の道に戻る事はありません
自分の人生が進みたい道の大枠に外れていなければ、そのまま違う道を探していても問題はないとは思います
しかし、根本的に道が違うのではないかと思うのであれば、そう思った分岐点まで戻って、初めからやり直す必要はあると思います
人は、初めからやり直すという事に対してすごく抵抗があるように思います
もちろん、初めからやり直さないで済むのであればその方が良いですが、仮に自分の進んでいる方向が違っているのであれば、間違った所まで戻ってやり直す必要があると思います
それなのに、今さら戻れない、これまでの苦労が無駄になる、そう思って、元に戻らずに無理やり修正していこうとしてしまいます
しかし、間違っている道から、本来自分が行きたかった道に行ける事はないように思います
なりたい自分になれない道の中をどんなに模索しても、なりたい自分になれる道にたどり着く事はできません
それでも、前に進まなければ何もできないと思って、闇雲に前に進んでいても、なりたい自分になる事はないように思います
しかし人は、行動しなければ何もできない、そう思って、ひたすら間違った道を進んで行ってしまう事があります
行動しなければ何もできないのはそうだとは思いますが、もし間違った道を進んでいるなら、そのまま行動しても良い事はないように思います
何も行動しないで「こうならないかな」と願っていても何も得る事はできませんが、だからといって、ただ行動しているだけでも何も得る事はできないと思います
最悪の場合は何も得られないどころか、大きなものを失う事もあるように思います
今の自分が進んでいる人生の道が違うかもと思った時に、元に戻って初めからやり直す事は意外とできない事なのかもしれません
戻るという事は、これまでの行動はなかった事になり、これまで費やした時間が無駄になると思ってしまう事もあると思います
これまでの自分の行動はなんだったんだと思ってしまい、そんな自分を受け入れられないでいると、戻る事ではなく、間違った方向にそのまま進んでしまう事を選択する事もあるように思います
特に、自分の人生の良し悪しを他の人と比べて見ている人は、今さら間違っているなんて周りに言えないし、戻って初めからやり直すなんてできない
そう思って、なりたい自分になれない人生の道を更に進んでいき、なりたくない自分になってしまう人もいるように思います

一度も間違えた事はないという人はいないと思いますし、外からは間違っていないように見えていても、どんなに順風満帆な人生に見えている人でも、間違う事はあると思います
そんな時に大事なのは、その間違いはそのままリカバリーできる事なのか、元に戻って初めからやり直す必要がある事なのか、その事を見極める事だと思います
自分の間違いに気付いた時、多くの人はどちらにした方が良いかは、頭ではわかっているように思います
そのまま進みながらリカバリーできる間違いと、元に戻って初めからやり直す必要がある間違いは、その区別がつきやすいように思います
しかし、頭では元に戻った方が良いとわかっている事でも、そうできない事もあります
せっかくここまで来たのにもう一回やり直すのヤダ、元に戻っているのを周りに気づかれると恥ずかしい、そんな思いが邪魔をしてできない事があります
やり直したくないという思いが勝ってしまうと、もしかしたらこのまま進んでもリカバリーできるのではないかと、何の根拠もないまま前に進んでいこうとしていきます
もちろん、そんな何の根拠もないただの願望で前に進んでいても、間違った事がリカバリーできる事はありません
リカバリーできないどころか、間違った道で更に無茶苦茶な選択をしてしまい、もっと最悪な状態になっていきます
そうなると、自分に起こる全ての問題を他のせいにしていくようになっていきます
自分の行動を他のせいにしていては、自分が進むべき道がもっと見えなくなっていくように思います
自分が間違えている、そう思った時に戻った方が良いに越した事はありませんが、もし、まだいけるかもと思って前に進んでしまう事があっても、やっぱり違うかもと思った時に元に戻れば、いつでも間違いはリカバリーできるようになると思います
最初に気づいた時よりは戻る距離が長くなるので、あの時戻っておけばよかったと思う事もあるかもしれませんが、例えそうであっても、戻った方が良いと思った時が戻るタイミングだと思います
それなのに、ここまできたのに今さら戻りたくない、そんな気持ちに負けてしまい、間違った道をそのまま進んでいてはなりたい自分になれる事は永遠にありません
そのまま、戻らないで前に進んでしまうと、今の間違った自分を間違っていないと思うようになっていきます
今の自分が間違っていると自分が思っているのに、あーだこーだ言い訳して、自分が間違ったと思ったのは自分のせいではなく他のせいだ、そう思うようになっていきます
本当は自分のせいなのに、自分だけが納得する屁理屈を並べて、自分のせいであった事を他のせいにして、そのまま前に進んでいこうとしていきます
そうなってしまうと、自分が違うと思う事があっても、それは自分のせいではなく他のせいだと思って、自分の間違いを認めなくなってしまいます
自分が気づいている自分の間違いを自分が認めない事ほど、自分を不幸にしていく事はありません
自分でも間違っていると思っている事で、何とかなるかもと思って何とかなる事はないように思います
自分の進んでいる方向はもしかしたら間違っているかもしれない、そう思う事があったら、いつでもいいので元に戻って初めからやり直していきましょう

元に戻って初めからやり直したとしても、これまで経験した事のすべてが無しになる訳ではありません
元に戻って初めからやり直していく事は、これまでの経験が無駄になるように思うかもしれませんが、自分の人生の経験で無駄になる経験は一つもないように思います
今までの人生で無駄な経験があったと思っている人は、そう思う経験の活用の仕方に気づいていないか、まだ活用する時期に来ていないだけだと思います
自分の経験を有効に活用するもしないも、これまでの自分をありのまま受け入れられるかどうかで決まります
良い自分もダメな自分も、どちらでもない自分も、どんな自分でも自分が受け入れる事ができれば、何も間違わない順風満帆な人生よりも、何度か間違えて元に戻る事がある人生の方が、結果的になりたい自分になっている事もあるように思います
間違えた自分を受け入れて元に戻れば、次は同じ間違いをする事なく、逆に、最初の時は気づけなかったもっと良い選択肢に気づく事もあると思います
急がば回れという言葉があるように、元に戻る事は遠回りをしているようで、実はなりたい自分になる為には一番の早道だという事もあるように思います
元に戻ってやり直すのは嫌だと思っていると、元に戻らずに出口のない人生の迷路に迷い込んでいきます
また、例え、元に戻ったとしても、その事を恥ずかしいと思っていると、また同じ間違いを繰り返していく事もあります
間違った自分を恥ずかしいと思うと、そんな自分を自分が認める事ができず、それでも同じ間違いを繰り返していると、それは自分のせいではなく他の人のせいだと思っていきます
あれがあれば、あれがなかったら、と「たら、れば」をいうようになり、自分の間違いを認めようとしなくなります
間違いや失敗は決して恥ずかしい事ではありません
もし、間違いや失敗を恥ずかしい事だという人がいたり、馬鹿にしている人がいたらなら、その人たちは、自分がなりたい自分になる為には必要ではない人たちだといえます
そんな、なりたい自分になる為に必要ではない人たちの声に惑わされて、自分の間違いを認めて元に戻る事を怖がっていては、なりたい自分になる事はできません
どんな環境でも、他の人の事をとやかく言う人はいます
そこで大事なのは、他の人の事を見下しているような人の意見に心が動揺しないことです
他の人に見下されたり、馬鹿にされて気分のいい人はいないと思います
気分は良くありまんが、だからといって、その事で心が動揺して惑わされる必要もありません
間違った事がないという人の人生は、その人の能力がすごいのでなく、間違っている事を自分がただ認めていない人生でしかないと思います
人生において一度も道を間違わない人はいません、間違っていないように見えている人でも間違ってはいると思います
間違っている事を認めていない人は論外ですが、周りから間違っていないように見える人は、間違うのが当たり前だと思っているので、元に戻ってやり直している事に周りが気づいていないだけです
人生の進む道を間違えた、そう思う事があったら、周りがどう思うかは関係なく、元に戻ってやり直しましょう
間違った事を恥ずかしいと思う必要はなく、その間違いは、なりたい自分になる為には必要な間違いだった事に気づきましょう

今のあなたに、元に戻って初めからやり直したい事はありますか
元に戻ってやり直す事に、遅い事はありません
もちろん、早い事に越したことはありませんが
早いか遅いかは大した問題ではないと思います
大事なのは、自分が気づいた時に戻れるかどうかです
もしかたら間違っているかもしれない
そう思っているのに、そんな事はないと打ち消していませんか
自分の進む道があっているかどうかは
自分が一番わかっているはずです
周りの間違った声に惑わされて
自分の心の内から聞こえる声をかき消さないでください
自分の心の内から、間違っているかも
そう聞こえてきたら、元に戻る時です
元に戻ってやり直す事は恥ずかしい事ではなく
なりたい自分になるには必要な時もあります
違うと思ったと時は、元に戻ってやり直す
そう思う事ができれば、なりたい自分になれるはずです

筆者の本
本3

癒しの心『何かを求める心』

癒しの心 カウンセリング

求めてしまうと欲しくなる

あなたは、何かを求めてしまう事はありますか
あれがあったら、こうなっていればなど、たらればによって求めてしまう事はありませんか
その事を求めている内は、本当に手にできるものはないように思います
何かを求めてしまうと自分に無いものばかりを見てしまい、無いものねだりをしていくようになっていくように思います
何かを求めて無いものねだりしていると人は、その事が欲しくなってくるように思います
欲しくなったものが手に入らないと、誰かが自分に与えてくれないかと思うようになり、他の人に依存する心が生まれてくるよう思います
あれがあったらできる、あの事がなければできた、そう思うのは、無いものねだりをしているのかもしれません
本当は自分が何もしなかっただけなのに、ある事ない事を理由にしてできなかった事を他のせいにしているだけのように思います
こうだったら良かったのに、そう思う事は誰にでもあるように思いますが、だからといって、そう思っていても、こうだったら良かったのにという事が実現する事はないと思います
それは誰もがわかっている事だとは思いますが、何かを求めてしまう人は「たら、れば」を言う事で、誰かがいつか与えてくれるのではないかと思っていきます
「運が悪かった」で自分ができなかった事を済ましている人は、何かを求めて周りに依存している人だと思います
運は誰にでもあるとは思いますが、運に良い悪いはなく、自分にある運を使う事ができる努力をしたかどうかだと思います
自分は何も努力しないで運だけに頼っていては、何もできるようになる事はありません
一度や二度は切り抜ける事ができるかもしれませんが、それは運が良かっただけでなく、単なる偶然にすぎないと思います
偶然の出来事を運が良いと思っているから、何でも求めてしまい、偶然が起こる事に期待していくのだと思います
こうしたいと思っているだけでは、その事は欲望のままなので実現する事はありません
欲望を実現していくには、欲望を志望にしていく必要性があります
就活する時に志望動機を聞かれますが、欲望動機を聞かれる事はありません
仕事をする上で必要なのは、何をしたいという欲望ではなく、何をするという志望だからです
それなのに私たちは、自分の人生には欲望ばかりで行動しているように思います
欲望では良い仕事ができないように、欲望では良い人生を歩む事はできないように思います
こうなりたいという思いを持つ事は必要ですが、本当にそうなりたいのであれば、欲望を志望にする必要があると思います
自分の人生においてもそれは同じで、こうなりたいという欲望をこうなるという志望にしていく必要があると思います
それなのに、志望にする事なく欲望のままで行動していると、偶然を運が良いと思ってしまい、常に何かを求めてしまうようになっていくように思います

何かを求めてしまうと、それになっていない自分を認める事ができなくなると思います
何かを求めるという事は、そうなりたいという思いがあるという事で、なりたいという思いがあるという事は、そうなっていない自分は嫌だと思う気持ちに繋がっていきます
志望による本当に自分がなりたいと思う事であれば、誰でもなりたい自分になる事はできると思いますが、欲望のままではそれはできないと思います
それなのに、欲望を志望にする事なく、いつまでもなりたいと求めていると、なりたい自分になる事ができないと思います
求めているだけの事に、本当に自分がなりたいと思っている事はないように思います
そこには、周りから認められなければいけないという、強すぎる承認欲求に縛られている自分がいるように思います
他の人が良く見てくれる自分になりたいと思う事は、なりたい自分になる事とは違います
他の人に評価される、他の人からいいねがもらえる自分が、なりたい自分ではないと思います
できない事が偶然できたとしても、その事ができる人になる事はありません
他の人にどんなにできる人のように見せていても、そんな自分がなりたい自分であるとは思えません
そんな他の評価を意識している自分が、なりたい自分になっていくとは思いません
なりたい自分は、他の人から良く見られたい自分ではありません
他の人にある良い所を見て、あれが自分にもあったらいいな、できたらいいな、と求めていると、できていない自分を認める事ができなくなります
自分で自分を認める事ができなくなると人は、もっと何かを求めていくようになると思います
何でも完璧にできなければいけないと、完璧を求めていく
充実した人生になる答えは何だろうと、答えを求めていく
これができていなければいけないと、結果を求めていく
何かを求めていく人には、こうでなければいけないという思いが心の中にあるように思います
こうでなければいけないという思いがあるから、手にできないものを欲しくなるように思います
こうでなければいけないという思いは、絶対にならなければいけないという思いであり、絶対にならなければいけないという思いがあると人は、その事を求めてしまうように思います
絶対できなければいけないという事は世の中には無いと思います
それなのに、絶対にできなければいけないと思うのは、自分ではなく他の人の評価で自分を評価しているからだと思います
他の人が良いと評価すれば自分の評価は良く、そうでなければ良くない、そう思っているからだと思います
何かを求めている時は、他の人の評価で自分を評価している時のように思います

何かを求めて無いものねだりをするのではなく、自分の事は自分で評価して欲望を志望にしていきましょう
こうしたいという思いのまま行動していると結果が欲しくなり、結果が手に入らないと誰かに与えて欲しいと思うようになっていきます
何かを求める行動は、他の人に依存する行動に繋がり、欲望を志望にしていく為に必要な自立した行動に繋がっていきません
欲望を志望にしていくには自立した行動が必要だと思います
自らを律する自律の前に、自ら立つ自立が必要だと思います
自ら立つ自立とは、自分ができる事は自分で行い、自分ができない事は人に頼って学ぶ事を言います
自分ができる事を頼っている依存では自立する事はありませんが、自分ができない事なのに誰にも頼らないで周りに迷惑をかけるのも自立ではありません
どんなに自分を律する行動ができていても、自分ができない事を無理に行って周りに迷惑をかけていては、何の意味もないと思います
誰にも頼らない事を自立だと思っていると、自立していないのに自律しようとして、周りに迷惑を掛けてしまう事もあるように思います
自分を律するために「こうでなければいけない」と思って完璧を求めてしまう行動は、自立していない状況を表していると思います
完璧を求めても、完璧な人になる事は誰にもできません
できない事を求めていても、できるようになる事はありません
世の中にあるすべての事ができる必要がない事は誰もがわかっているのに、目の前にできない事があると人は、その事ができるようになる事を求めてしまうように思います
特に、周りの人の多くができる事に関してはそう思ってしまうように思います
何でもできる人はいないのであれば、周りの人ができる事であっても、自分はできないという事があってもおかしくないと思います
皆ができない事ができるのが良くて、皆ができる事ができないのが悪いのではないと思います
もちろん、仕事など条件がある状況では、その条件ができないのは良くないとは思いますが、そうでない事ではできない事があっても何も問題はないと思います
もし、できない事を馬鹿にしたり、その事で見下す人がいたら、その人は自分にとって必要ではない自立していない人なのでスルーしていきましょう
自立している人は、例え仕事においてできない人がいても、その事を責めるのではなくできない人を助けて、その事ができるように教えてくれるはずです
できない人を馬鹿にして手を差し伸べる事がない人は、その事ができていたとしても本当に物事ができる人だとは思いません
自分が何かを求めている、そう思う事があるなら、自分ができる事で他の人を助け、自分ができない事は他の人から教えてもらうようにしていきましょう

今のあなたは、何かを求めていますか
完璧にしたい、結果を出したい、唯一の正解を探したい
そう思う心には、何かを求める気持ちがあると思います
何かを求めていても手に入る事はありません
何かを求めているとそれが欲しくなっていきます
その事が欲しくなると
誰かに与えてもらう、或いは、奪うようになっていきます
何か手に入れたいものがあったら
求めるのではなく、目指していきましょう
求めるから欲しくなるのであって
目指していけば欲しくなる事はありません
求めたいと思う事を目指していけば
手にいれるまで、目指していく事ができるからです
求めるからすぐに欲しくなるのであって
目指していけば、いつか手にできると思う事ができます
求めると、それを手にしていない自分はダメだと思いますが
目指していると、それを手にしていない自分をダメだとは思いません
目指している内は、手にしていないのが当たり前だからです
何かを求めたいと思ったら、目指すようにしていきましょう
そうすれば、欲望は志望になっていくはずです

筆者の本
本3

癒しの心『他の人と比較する心』

癒しの心 カウンセリング

他の人と比較していても成長しない

誰かと自分を比較してしまう事はありますか
同じ事をしている他の人と比べて、自分はどれくらいできているのだろう
そう思って、他の人と自分を比較してしまう事はあるとは思います
他の人と自分を比較する事は、今の自分がどれぐらいその事ができているのかを知るための一つの方法ではあるとは思います
また、自分だけでなく、周りからも他の人と比較される事もあると思います
他の人と自分を比較すること自体は何も問題はないとは思いますが、そこにある優劣で人としての優劣を見てしまうのは良くないと思います
他の人と比較して、自分が劣っている所や優れている所を知る事は良いとは思いますが、その事で優れている自分は良くて、劣っている自分はダメだと思うのは違うと思います
他の人と自分を比較するという事は、ただ、自分と他の人の違いがわかるだけであり、そこにある優劣はその時の結果でしかありません
他の人と比較して自分の方ができるからといって、そこにある自分にとって必要な事ができているとは限りません
また、他の人と比較してできないからといって、そこにある自分にとって必要な事ができていないとも限りません
他の人よりできるかどうかと、自分にとってできるかどうかは、同じではないように思います
他の人と比較して自分の方ができている事ならば良くて、そうでなければダメだと思う事は、自分にとってはどちらも意味がない事のように思います
物事がどれぐらいできる必要があるかは、その人が何をどれくらい必要としているかで違うと思います
必要としている事が違う他の人と比較していても、参考ぐらいにはなるかもしれませんが、その結果で自分がどれだけできているかはわからないように思います
それなのに人は、他の人と比較して自分ができていると安心する、逆にできていないと不安になったりしてしまいます
自分がどれくらいその事ができた方が良いという基準は自分の中にしかないのに、他の人と自分を比較してしまい、自分の中にある基準が見えなくなっているように思います
誰もがどんな事においても、自分なりのできる基準を持っていると思います
それなのに、他の人と比較してしまいその基準を自分ではなく他の人においてしまう事があります
そうなると、自分の基準で物事を見ていないので、自分にとって必要ではない事ができない自分が気になっていきます
あれがいけない、あれがなかったから、あいつのせいだと、できない事を他のせいにしていくようになっていきます
他の人と比較しても、今の自分が何か変わる事はありませんし、今の自分ができない事ができるようになる事もありません
自分ができるかできないかは、他の人と比較しなくても今の自分がやってみればわかる事です
他の人と比較することがいけないとは言いませんが、他の人と比較しなければ自分ができたように思えない時は、自分にとって本当に必要な事がわからなくなっている時のように思います
何かと他の人と比較して自分の優劣が気になっている時は、自分にとって本当に必要な事を見逃してしまい、今の自分に必要な能力を磨く事を怠っている時かもしれません
つい他の人と比較してしまう自分がいる時は、今の自分にとって必要な事は何であるかを再確認した方がいい時のように思います

人はなぜ、何かと他の人と比較をしてしまうのでしょうか
他の人と自分を比較していても何もいい事はないのに、何かと他の人と比較して一喜一憂してしまう事があるように思います
ことある事に他の人と比較して、自分の方が良かった、或いは、ダメだったと思っていても、自分が何か変わる事はありません
他の人と比較してしまうのは、自分に自信が持てないからだと思います
そこには、他の人と比較して自分ができていれば自信が持て、そうでないと自信が持てない、そんな思いがあるように思います
そもそも自信は自分を信じる事なので、自信を持つ事に他の人との比較は関係ありません
しかし、他の人の評価が気になり、他の人と比較して評価されれば、自分が評価されると思ってしまうと、自分ではなく他の人の評価で自信が持てると思ってしまいます
どんなに他の人に評価されていても、自分で自分を評価できていなければ、自分が自分を信じている事にはならないので、自信を持つ事はできません
それなのに、他の人に評価される事で自信が持てると思うのは、それは自分で自分を信じている自信ではなく、他の人に自分を信じさせてもらっている他信になっているからです
自信を他信だと思っているから、何かと他の人と自分を比較してしまうように思います
他の人より優れていれば自信が持てるからといって、自分の都合の良い解釈で他の人と比較して自分の方が優れていると思っていては、他信を持つようになっていきます
自分が良く見える部分だけ比較していたり、実際は違うのに良く見えるようにして比較していては、その比較自体に何も意味はないように思います
他の人と比較していても、自分の能力は何も高まりませんし、成長もしません
他の人よりできている事があっても、できていない事があっても、それは今の自分の状況を表しているにすぎず、それが人としての評価を表しているわけではありません
それなのに人は、他の人と比較して自分ができている事があると、自分の能力が高いという錯覚を抱いてしまう事があるように思います
他の人より優れているからといって自分の能力が高いというわけではなく、逆に他の人より劣っているからといって自分の能力が低いというわけでもありません
自分が何も努力していないのに、自分よりできない他の人と比較して自分ができると思っていては、今の自分以上に何かができるようになる事はないと思います
自信は何も保証のいらない信頼によって自分を信じるから持てるものです
誰かに保証してもらう信用では自信は持てず、信用によって持てるのは他信しかないように思います
他の人と比較しているだけでは、今より良い自分になっていく事はできないように思います

今より良くなって自分を成長させていくには、他の人と比較していても意味がないように思います
他の人と比較していては、自分が本当に良くなっていく事はできないように思います
他の人より良くなれば自分が良くなったと思ってしまうと、他の人が悪くなった事で自分が良くなったと思ってしまう事があるからです
自分自身は何も良くなっていないのに、自分より悪くなっている他の人と比較して、自分が良くなっていると錯覚してしまう事があるように思います
自分の評価を他の人と比較する事で評価してしまうと、本当の自分自身への評価はできないように思います
他の人と比較して自分が良ければ、これまでの自分より良くなっていると思うのは間違いです
それでは、これまでの自分より悪くなっていても、そんな自分より悪い状態の他の人を探せばよくなってしまします
更に、自分より悪い他の人は本当に自分より悪くなくても、自分が勝手にそう思う事ができればいい事にもなっていきます
他の人と比較して自分を評価しても、自分で自分を評価している事にはなりません
他の人は他の人であって自分ではないからです
自分にとって必要な事は、今の自分より良くなってく事だと思います
毎日、今の自分より良くなっていこうと思って行動していく事だと思うのです
例え、他の人と自分を比較したとしても、他の人より良ければいいと思うのではなく、今の自分より良くなると思う必要があると思います
あの人よりは自分の方が良い、と他の人と比較して自分が良いと思っていても、自分が良くなる事はないと思います
自分が良く見える他の人と比較していては、自分を良くしていく為に必要な努力をしようとせず、自分が良く見える人とばかり比較するようになります
また、他の人より自分の方が良いアピールをするようになっていきます
日々、本当に自分を良くしている人は、自分は良いでしょうアピールはしないと思います
自分を良くしていこうと思っている人は、その行動をしているのが当たり前なので、当たり前の事をアピールしようと思う事がありません
よく、当たり前の事を当たり前だとアピールする人がいますが、それは、その事を本当に当たり前だと思っているとは思えません
自分では特別だと思っている事を当たり前だといって、周りから「すごい」と思われたいだけのように思います
自分が良くなっていくのに、他の人と比較する必要はなく、比較していては人は成長していく事ができないように思います

今のあなたは他の人と比較してしまう事がありますか
もしあるならば、なぜ比較してしまうのか考えてみて下さい
そこに、自分を良く見せたいという思いがあるなら
他の人ではなく、これまでの自分と比較していきましょう
他の人と比較しても自分は何も変わりません
自分を変えて成長していくには
これまでの自分とこれからの自分を比較しないとできません
自分と自分を比較することで
もっと良くなろうと思う事ができます
もちろん、もっと良くなろうと思っても良くならない時もあります
時には、前より悪くなっていると思う事もあるかもしれません
そうであっても、他の人と比較していても何も良くはなりません
例え前より悪くなっていると思う事があっても
そんな自分よりも少しでも良くしていこうと思う事で人は
自分を良くする行動ができていくと思います
他の人と比較していても人は成長していかないと思います
比較するなら、これまでの自分とこれからの自分を比較しましょう
そして、これまでの自分がどうであっても
今の自分より少しでも良くしていこうと思う事が
自分を成長させる一番の方法だと思います

筆者の本
本3

癒しの心『心を錆びさせない』

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心が錆びついてしまと思考停止になる

日々の生活で強いストレスを感じる事はありますか

ストレスのない生活はないとは思いますが、自分の心がダメージを受けていると思う程の強いストレスを感じる事はありますか
社会で生活していれば誰もが毎日、何かしらのストレスを受けていきます
だからといって、それらのストレスのすべてがいけないかといえば、そうでもありません
ストレスには、自分にとって必要な良いストレスと、必要ではない悪いストレスがあります
日々の生活で、良いストレスが多ければ心も体も健康でいられますが、悪いストレスが多いと健康を害してしまう事があります
良いストレスは心と体が適切に動いていくサポートしてくれますが、悪いストレスは過度に心と体を錆びつかせていきます
体の場合は、悪いストレスが多いと活性酸素が増えてしまい体を錆びつかせていきます
本来活性酸素は、外から来る異物を退治して体を守る役割をしていますが、悪いストレスは異物ではないので活性酸素では排除できません
排除できないだけならまだ良いのですが、一度発生した活性酸素は何かを酸化して錆びつかせないと消える事ができません
活性酸素は、悪いストレスのように実体が無いものはスルーしてまい、身近にあるものを錆びつかせていきます
それは心も同じで、悪いストレスが増えてくると、体にある活性酸素と同じような必要以上の承認欲求が心にある思いを錆びつかせていきます
心のにある思いが錆びついていくと、人は思考が停止してしまいます
心の思いが錆びついて動かなくなり、自分は何をしたいのか、自分はどう感じているのかがわからなくなってくると、周りの反応ばかり気にするようになっていきます
そうなると、周りが良いと言っている事は良くて、周りがダメだと言っている事はダメだと、自分の思いではなく他の人の思いで動いていくようになってしまいます
それは違うかも、そう感じる事があっても、心が錆びついて思考停止になっていると、そう感じるのは気のせいだ、そう思って、自分が感じた違和感を無視していきます
自分が違和感に感じている事を気のせいだと何も検証しないでいると、錆びついた思いは一つの塊になってしまい、他の人の思いを自分の思いだと思って、自分ではなく他の人が良いという事ばかりしていくようになってしまいます
何をするにも他の人に「いいね」といってもらいたい、そんな必要以上の承認欲求に襲われるようになっていきます
そうなってしまうと、思考停止どころか、思考自体がなくなってしまい、自分の本当の思いに気づく事がなくなり、いつでも他の人の評価が気になり、他の人の評価で自分の価値を決めてしまう人生になっていきます
体の活性酸素と同じように、承認欲求は必要なものだとは思いますが、どちらも、悪いストレスによって体や心を錆びつかせてしまう事があるという事に気づいていきましょう
体の中に余分な活性酸素がある時はそれに対応できる体が必要ですし、心に必要以上の承認欲求がある時はそれに対応できる心が必要になります
今の自分に思考が停止している時はありませんか
もし、自分では違うと思うのに、周りが行っているという理由だけで、何も考えずに行っている事があるならば、あなたの心にある思いは錆びてきているかもしれません

日々のストレスを悪いストレスにしなければ心は錆びる事はありません
日々のストレスが悪いストレスになってしまうのは、自分の思考が悪いストレスにしてしまうからです
どんなストレスでも、初めから悪いストレスになる事はありません
もちろん、多くの人が悪いストレスにしてしまう程の強烈なストレスもあるとは思いますが、だからといって、必ずしも悪いストレスになるかといえばそうともいえません
どんなに悪いストレスになりそうな事も、自分の思考によって良いストレスにする事は可能だと思います
それなのに、自分で考えずに他の人の思考に合わせてばかりいては、自分から心を錆びつかせて思考停止になろうとしているのと同じ事だといえます
他の人の思考に合わせてばかりいると、物事の価値を自分で判断する事ができなくなります
物事の価値は、社会における価値と自分における価値の二つの価値観があると思います
社会における価値は他の人と共有する価値観でありますが、自分における価値は自分だけの価値観です
社会における価値を見る時は他の人との共有の価値観が必要ですが、自分における価値は他の人との共有は必要ありません
それなのに、社会における価値観と自分における価値観を混同してしまい、自分における価値観で見なければいけない事を、社会における価値観で見てしまう事が多くなると、悪いストレスが増えていきます
自分における価値観は人それぞれです
他の人と同じ価値観があっても良いですが、他の人と同じ価値観でなくても何もおかしくはありません
それなのに、他の人と違う事はおかしい事だと思ってしまうと、自分における価値観が見えなくなっていきます
初めは「何か違う」と違和感があったとしても、自分だけ違うのはいけないと思って、その違和感を無視していくようになります
他の人の価値観に合わせる事がいけないとは思いませんが、自分における価値観を無視してまで合わせていく事は良くないと思います
自分における価値観を無視すればするほど、日々の生活にあるストレスの多くが悪いストレスになっていきます
これまでは、ある意味自分の意志で思考停止にしていたものが、悪いストレスが増えて心が錆びついていくと、自分の意志とは関係なく思考停止になっていきます
そうなると、もっと他の人の価値観に合わせていくようになり、他の人の価値観が変われば自分の価値観も変わっていく、何に価値があるのかが自分ではわからない状態になっていきます
他の人の価値観に合わせるだけだと、他の人の価値観かぶつかったときに、自分はどちらの価値観を選んでいいのかわからなくなります
そうなると、多くの人が選ぶ価値観に流されていくだけになり、どんどん自分における価値観がわからなくなっていきます
皆そう、普通は、当たり前、今は、などの言葉で物事の価値観を決めている時は、自分における価値観が見えなくなっている時かもしれません
初めは、自分は違うけど皆なと合わせないと仲間外れになるから、そう思っていただけかもしれませんが、だからといって、自分が自分の価値観を仲間外れにしていては本末転倒のような気がします

心が錆びつかないようにケアしていきましょう
定期的に心の思いをオーバーホールして、心にある錆を落としていきましょう
自分の心の中にどんな思いがあるのか
心の中にある思いを一つ一つ取り出して見ていきましょう
なんで、どうして、こうだったら、こうであれば、などがある思いは、錆びている思いかもしれません
こんなこと思ってはいけない、思いたくなけど思ってしまう、そんなこれまでは心の奥や片隅に放置されていた思いもすべて、心の外に出していきましょう
今の自分にどんな思いがあるのかを紙に書き出す事で、心にある思いをすべて外に出す事ができます
紙に書き出したら、そこにある思いをリペアしていきましょう
自分にプラスになる思いはもっとプラスになるように磨き、逆にマイナスになる思いは錆を落としてその思いに潤滑油を差しながら、プラスの思いに変えていきましょう
紙に書き出した事を自分の思いだと思いたくない人は、他の人の思いだと思ってリペアしてみましょう
自分ではなく他の人の事だと、人は意外と適切なアドバイスでき、心をリペアする事ができるものです
自分の思いだと、あーだこーだ言い訳して適切なリペアができない事でも、他の人の事だと思えば誰でも適切なリペアができると思います
そうやって、定期的に自分の心の思いと向き合っていく事で、心を錆びつかせる事なく、思考停止に陥る事もなくなっていきます
人は、心に思った事が、必ずしも心の思いになるとは限らないと思います
自分が瞬間的に思った事のすべてが自分の心の思いになると思うから、ダメな事、怒りや哀しみ、好き嫌いで思った事が心の中に残ってしまうように思います
怒りや哀しみの感情や好き嫌いの嗜好は一時的なもので、その後も継続的に思い続けるとは限りません
もちろん、怒りや哀しみが継続する事はありますし、好き嫌いが継続する事もありますが、それは、その度に思っている事であり、一度思っただけの事がその後も続いているわけではないと思います
もし、何でこんなこと思うのだろうと思う事があったら、瞬間的に思った事を思っている事にしないようにしましょう
思いたくない事を思っている事にしなければ、自分の思いになる事はありません
思いたくない事を自分の思いにしなければ、心が錆びついていく事もありません
そして、どうして思いたくない事を思ったのかを、心が落ち着いている時にじっくり考えてみましょう
どうして思いたくない事を思ってしまったのか、その事を検証していく事で、悪いストレスを減らていく事ができるようになります

今のあなたの心は錆びていませんか
何も考えたくないと思う時があるならば
少し心が錆びてきているかもしれません
周りに合わせる事がいけないとは思いません
嫌いな人がいる事がいけないとも思いません
誰かに嫉妬する事もあるかもしれません
利己的な事を思ってしまう事もあるかもしれません
自分はダメだと思ってしまう事もあるかもしれません
しかし、どんな思った事も思っている事にしなければ
心が錆びていく事はありません
思った事と思っている事は全く別の思いだと思います
良くないと思う事を思ってしまう事は誰にでもあると思います
その時に大事なのは
その思った事を思っている事にしない事です
思った事は思った事ですが
思った事を思い続ける、思っている事にはしない
相手を許せないと思う事はあっても
そんな相手を許す必要はないと思いますが
許せないと思う必要もないと思います
思った事を思っている事にする必要はないと思います
今思った事を思っている事にしたほうが良いのか
そう検証する事が、心を錆びさせない秘訣だと思います

筆者の本
本3