癒しの心『未来を見る心』

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「まっいいか」で心を前に向ける

人は前を向いて生活をしています
横を向いていたり、後ろを向いて生活をしていたら、何も見えずに危ないので、当たり前の事ですが前を向いて生活しています
実は、心も前を向いている必要があります
体は、物理的な不都合があるので、横や後ろ向きで生活をする人はいないと思いますが、心も同じなのです
心は物理的な障害が何かあるわけではないので、横を向いていようが、後ろを向いていようが関係ないと思えるかもしれません
しかし、体以上に心が前を向いていない方が、実は危険なのです
私たちは現在に生きています
今この瞬間である現在だけが現実の世界です
現在から時間が経てば、全ては過去の事になります
私たちの人生は、ドラマのように過去を編集する事はできません
過去は、過去のままです
現在は過去になりますが、過去が現在になる事はありません
現在になる事があるのは、未来だけです
未来におこりうる可能性がある事に、現在があるのです
心が前を向いているという事は、未来を見ている事です
現在でも、過去でもありません
人は自分の心が前を向いているから未来が見えるのです
未来を見ているから心が前を向いているのではなく、心が前を向いているから未来が見えているのです
同じようですが、実は大きな違いがあります
心が前を向いているには、「未来を見る」と自分の意志が必要にあります
他によって見せられている未来を見ていては、心が前を向いているとは言えないのです
それは他が関係しているからではなく、自分の意志があるか、ないかの違いなのです

あなたの心はどこを向いていますか
前を向いていますか、横を向いていますか、それとも後ろを向いていますか
前を向いていれば、未来が見えています
横を向いていれば、現在しか見ていません
後ろを向いていれば、過去ばかり見ています
今の自分がどの時間軸を意識しているかで、自分の心がどこを向いているかがわかります
私たちの生活にある時間は、過去、現在、未来の3つの時間軸で表されています
どの時間軸も誰にでも平等にあるものです
しかし、どの時間軸を意識しているかで、その人の人生は大きく変わってくるのだと思います
過去を意識している人は、終わったことだけで物事を考えていくので、何をしても自分ではなく他のせいにしていこうとします
既に終わった過去を言い訳にして、現在や未来にチャレンジしていこうとはしません
過去ばかり見て心が後ろを向いている人は、横にある現在は何となく視野に入りますが、未来はまったく視野に入りません
未来がまったく視野に入らない心は、自分の進む道に何があるのかわからないので、不安しかありません
未来は不安しかなく怖いとして後ろを向き続けても、人は未来に向かって前に進んでいきます
心が後ろを向いたまま何も見えない状態で進んでいく事は、自分の可能性を自分自身が潰している事になってしまいます

心が横を向いている人は、現在しか見ていない人です
今だけ楽しければいい、刺激を求めて衝動的な行動をしている、自分の事だけを考えている人は、心が横を向いています
心が横を向いていると、目の前にある事しか見ようとはしません
目の前の事しか見ないのであれば、先の事や自分の行動の結果を気にする事はありません
横を向いていると、前や後ろがかすかに視野に入る事があるので、過去と未来の存在はわかっています
しかし、それらを無視して横だけ見ようとしてしまうのは、自分に責任を持つのが怖いからだと思います
何か問題がおこると、すぐに他のせいにする、或いは、その行動を無かった事にしようとするのは、その表れです
過去も未来も見ず、現在だけを見ようとしている人は、実はただのお子ちゃまなのです
大人になれず、或いはなりたくない、子供のまでいれば、自分に責任を持たなくても社会は許してくれる
そんな甘えた依存体質があるように思います
現在はすぐに過去になります
そして、未来が今ある現在になっていきます
人は現在に生きているのは事実ですが、現在は過去と未来どちらも必要なのです
心が横を向いていては、過去も未来もなく、実は現在もないという、何もない人生になってしまいます

心が前を向いていると、未来を見る事ができます
未来は、まだ行われていないので、どんな未来が現実になるかは、時間が経過してみないとわかりません
どんな人でも、100%そうなるという未来は存在していないのです
ゆえに、人は未来に対して不安を感じるのだと思います
不安は、何かわからない事があると、人の心の中に芽生え始めます
どうしたらいいのか、あれやこれや考え、でもどうしていいのわからず、不安は更に大きくなります
不安には実態はなく、不安はその人がつくり出した幻想にすぎません
幻想である不安に現実の世界で対処する方法はありません
実際に存在しないものに対処する事は、誰にもできないのです
不安になるのは、わからない事があるからです
しかし、わからないから未来なのです
わかっている事は、現在か過去でしかありません
現在や過去に、人の人生は進んでいきません
理屈や精神論ではなく、事実です
未来の事はわからない
わからない未来に進んでいくのが人生であるなら、人生がわからなくて当たり前です
わからない事が当たり前の未来に、人は不安を抱きます
これもまた事実です
不安を抱かないようになれれば一番いいですが、そう簡単にもいきません
であるなら、未来を不安に思っても「まっいいか」と思う事が大切だと思います
色々と不安に思う事はあるけど、不安は幻想でしかないので「まっいいか」と思っても問題ない
そう思う方が良いと思います
「まっいいか」は不安を打ち消す最強の言葉だと思います

時間は前にしか進みません
止まったり、後ろに戻ったりはしません
時間を止めたり、戻したりできるのは、フィクションの世界だけです
現実の人生において、時間を止めたり戻したりする事はできません
なのに人は、自分の心の時間を止めたり、戻そうとしてしまいます
物理的に絶対できない事をしようとしてしまうこと自体に、問題がある事に気がつきましょう
過去は過去、現在は現在、未来は未来
現在になる事があるのは未来だけです
唯一現在になる事がある未来を見ていなければ、今である自分を見る事はできないのです

あなたの心は、過去ばかり気にして後ろを向いていますか
それとも、今だけ良ければいいと横を向いていますか
後ろでも横でも、人は前にしか進んでいきません
あーだ、こーだ言う前に、心を前に向けてみませんか
体の向きは他の人でも直す事ができますが
心の向きは自分で直すしかありません
自分の人生と向き合い
自分の心を前に向ける事ができるのは
自分だけなのです
いつでも、前を向いている心が
癒しの心だと言えます

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癒しの心『Yes or No ?』

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人の心はあいまい

人は毎日、多くの選択をしています
多くは目の前にある選択を、するか、しないか、Yes or Noで選択されていきます
しかし、人の心はそんなにはっきりとYes or Noという2択に分かれるものなのでしょうか
多くの人は、その事を決められないからNoの選択をしていたり、皆がそうだからYesの選択をしている事が多いように思います
確かに物事を行っていくには、やるかやらないか、Yes or Noのどちらかを選択しなければいけません
あいまいな選択をしていては、その行動が有効なものになる事はありません
しかし、自分の人生における選択は、Yes or Noのように、どちらかを決める必要があるものばかりではないような気がします
その物事を絶対する必要があるならそうかもしれませんが、そもそも、自分の人生において絶対にしなくてはいけない事はそう多くはないと思うのです
皆が、周りが、社会がなど、多くの人がそうしているからと言って、無理にその選択をしなくても良いのではないでしょうか
人生において大事なのは、自分の周りに無数にある自分にとって必要な選択肢を見つける事だと思います
目の前にあるというだけで、自分には必要もない事まで選択していく事ではないように思います
常に目の前にある事をYes or No選択をしていくのではなく、自分の周りにある全ての事に目を向けて、まずは自分は何をしたいのか、いくつもある選択肢から決める事が大事だと思います
物事のYes or No選択をする前に、自分の人生において本当に必要な選択肢を見つける必要があると思います

誰しも、人生における選択肢は無数にあります
人生の選択肢が無数にあるのに、目の前の事だけを選択してYes or No選択ばかりしていると、自分にとって本当に必要な人生の選択肢を見逃してしまいます
今ある自分の目の前の事だけに囚われてしまい、自分がYes or No選択する必要がある選択肢を選べていない人が多いような気がします
その事をやるか、やらないかの前に、その選択肢を本当に選ぶ必要があるかどうかが必要だと思います
選ぶ必要もない事をYes or No選択している事自体に意味はないと思います
自分で選んだ選択肢であれば、やるか、やらないか、Yes or No選択する事が必要だとは思います
でも、そもそも選択する必要がない事を、ただ自分の目の前にあると言うだけでYes or No選択していると、自分が本当にやりたい事がわからなくなってしまいます
~しなければ、それが普通だ、皆そうしている、と言う言葉がつく行動は、その人が選択する必要がない事、或いは、気持ちが固まってない事を、無理やり選択している状況のサインだと思います
目の前の事をYes or No選択のする前に、自分は何をしていきたいかを考えて、周りにある他の選択肢に目を向けて探す事が大事だと思います
最終的にはYes or No選択は必要ですが、それは、自分が何をやりたいかの選択肢が明確になった後の事だと思います
何故それをする必要があるのか自分の中でわかっていない、或いは、理解していない人に、その物事を最後までやり遂げる力があるとは思えません
その時の感情や周りの状況に流されて選択したYes or No選択では、何もは成し遂げられないように思います

Yes or No選択をする前に、自分は何をしていきたいのか、自分にとって本当に必要な事は何なのかを考えてみましょう
その物事が必要だとハッキリと思えれば問題ないですが、いつでもそんなにスパっと思えるとは限りません
その時は「必要だ」と思ったかもしれませんが、時間が経つと「そうでもないかも」と思う事の方が多いように思います
物事に対する人の思いは、言葉でいう程Yes or Noではありません
Yes寄りの時もあれば、No寄りの時もある、或いは、どちらでもない
意外とあいまいなものだと思います
自分の心があいまいで、選択肢が定まっていないのに、物事をYes or No選択するから問題が起こるのです
行動の選択は、Yes or No選択しなければ行動にはなりません
しかし、自分の周りにあるたくさんの選択肢に気づかないまま、Yes or No選択していてはなりたい自分になる事はできないと思います
物事のすべてが、Yes or Noで決まるわけではありません
法律や規則、社会のルールで決まっているなら別ですが、そうでない事に関しては、全てがYes、或いは、全てがNoという事はないと思います
どちらの要素も含みながら、自分はどんな選択肢を選んでいくのか、一人ひとりが決めていくものだと思います
皆がそうしているからと言って、目の前にあるからと言ってYes or No選択をしていく必要はないのです
例え、選択を拒否しても、それはその道をNoと否定した事ではなく、自分は違う選択肢を選んだという事だけだと思います

人はどうして、自分と違う行動をする人がいると「認めたくない」と思ってしまうのでしょうか
気持ちはわからなくもないですが、それでは自分にとって本当に必要なものが見えなくなってしまうように思います
自分と違う行動を容認できないのは、自分が周りと違う行動をしていると怖いからだと思います
自分の意見が持てずに周りと同じような行動をする事で、安心感を得ようとしているのかもしれません
それ自体がいけない事だとは思いません
それも人生の選択肢の一つだと思います
しかし、だからと言って自分と違う選択をしている人を「なんで」と、あたかも相手がおかしいように位置付けて、自分の不安をなくそうとしていくのはやめた方が良いと思います
他の人に合わせるという自分と同じ選択を相手がするように、他の人に接していく事は自分の視野を狭くしてしまいます
他の人の選択に合わせる事も一つの選択なので自信を持てばいいのに、同じようにしてくれない人がいると不安になって「なんで」を連発したり、頼まれてもいないのにお節介して相手をコントロールしようとしてしまうのです
それでも相手が同じようにしてくれないと、その人を否定して、誹謗中傷するようになっていきます
そんな目先ばかりのYes or No選択では、幸せな人生を歩む事はできないと思います

周りと違う事をあなたは選択できますか
周りと違う選択をする人をあなたはどう思いますか
法律や規則、ルールを守らない選択はダメです
しかし、そうでない選択は人それぞれ自由だと思います
周りと同じ選択をするのも良し
周りと違う選択をするのも良し
どんな選択でも
自分でその選択肢を選んだと思えるなら良いと思います
いくつになっても可能性は誰でもあります
自分にどんな可能性があるのか
目先のYes or No選択は一度やめて
自分の周りにある選択肢を探して
そこから自分の可能性を見つけてみませんか

癒しの心『競争と競創』

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競い争うより競い創り上げる

今の社会には、競争による弊害があるように思います
一時期、運動会で手を繋いで皆一緒にゴールする、と言うのが話題になった事がありました
競争してビリの子が嫌な思いをするからと言う理由のようですが、だからと言って、皆一緒にゴールする事が良いとは思いません
その理由であるなら、競争する事をやめるのではなく、ビリになった子が嫌な思いをしないように、周りがケアしてあげれば良いと思います
もし、ビリの子が嫌な思いをする事がケアできない、そして、その事がその子の人生に大きな影響を与えるなら、そんな社会の方が変わった方が良いと思います
競争して順位が付くのは当たり前の事だと思います
競争がいけなくなるのは、競って順位が付くからではなく、順位によって人の価値を決め、その事で争うからだと思います
競う事は多くの有益な事を生むと思いますが、争う事は何も生まないように思います
もちろん、そういう意味で競争という言葉が使われている訳ではないのかもしれませんが、今の社会にある競争は、競う事がなく争うだけの競争になっているように思うのです
競争は字にあるように、競い、争う事です
争うと言う字には、戦うという意味のほかに、張り合うという意味もあります
競争にある争うの意味は、張り合う事だとは思うのです
しかし、競わない競争にある争いは、ただ戦うだけを意味してしまい、どちらの力が強いのかだけを争っていく競争になるように思います
競争する事が社会にとって有益なのは、競う事が前提にあるからだと思います
競争によって順位が付くことがいけないとするのは、競争は競う事のない争い戦う事だと思っているからだと思います

人に順位をつける事は必要がないと思いますが、物事に順位が付く事は必要だと思います
同じ条件化で何かを行えば、順位が付くことが自然だからです
なのに、同じ条件化で行われている事なのに、順位を付けずに皆が同じという事には賛同できません
見た目は公平で、全員に配慮されているように思えるかもしれませんが、私から見たらその方が公平さを欠いているように思います
みんな同じにするという事は、個人の違いを無視している事になると思うからです
そんな事はない、みんな同じ行動なので平等になっている、と思うかもしれませんが、みんな同じ行動である事がすでに平等ではないと思います
平等とは、どんな違いがあっても同じに対応する事であって、皆に同じ行動をしてもらう事ではないと思います
それぞれ違いはあるけど、みんな同じ権利があり、同じ対応になる事が平等だと思います
皆が同じ行動をする必要がない事に対して、皆に同じ行動を促すことは不自然な事のように思うのです
何か物事が行われるのであれば、皆が同じ行動であるわけがありません
上手くできる人もいれば、そうでない人もいます
それが、当たり前です
本当の平等は、上手くできた人もそうでない人も、その物事を行った事を評価するべきです
できない事がマイナスの評価になる事がおかしいのだと思います

競争が良いのは、競い合う事でより良いものが生まれるからです
決して争って勝つ事が良いわけではありません
しかし、今の社会にある競争は、ただ勝つ事だけを目的にする競争ばかりが目立ちます
競う事はせず、どちらの力が強いのかで争っているだけの競争が目につきます
それは、数字による結果だけを求める社会になっているからだと思います
誰のために何をするかでなく、ただ数字があがれば全て良しとする、社会になっているからだと思います
数字が良い事は大事だと思います
数字は、その行動がどれだけ有益だったかを表す指標になるからです
しかし、数字だけ良ければ有益な事になっているかと言うと、そうではない事が今の社会では多く存在しています
何か有益な事で生み出されるものではなく、今あるものを奪い合う事であがる数字が多くなっているように思います
そんな社会には本当の競争はなく、ただ争って他から搾取していく競争しかないように思います
今の社会で、適切な競争を字で表すなら、競争と言う字は不適切で、競い創造していく、競創とした方が良いと思います
或いは、ともに競うと言う意味で、競双とするのも良いように思います
どちらにせよ、競争するのであれば、競い合ってみんなが喜ぶ事を創り上げる事を求めて欲しいと思います
力あるものが競う事なく、勝つ事だけを目的にした、力任せな方法で戦う競争にだけはなって欲しくないと思います

競争が必要なのは、競い合い張り合う事で、より良いものができあがるからです
勝った負けたは、結果としてありますが、より良いものができあがらない競争で勝っても、何も意味がありません
私たちはいつから、物事を勝ち負けで判断するようになったのでしょうか
勝った負けたは、結果でしかありません
結果は終った事、過去の事です
過去の事がこれからの未来の事に関係する事はありません
未来を考えていくための材料にはなりますが、過去が未来に何かしてくることはありません
なのに人は、過去である勝ち負けにこだわるのでしょうか
勝ち負けの結果が出た時点で、その競争は終わっています
どんなに競争をしていても、ただ勝つ事だけ考えていては、未来に何も役立ちません
勝ったと言う結果だけでは、未来を進んでいく為の材料にはならないのです
同じ条件で何かを行えば、必ず勝ち負けはあります
しかし、勝つ事だけ考えている行動には、未来を向けた有益な材料はないように思います

あの人には負けるけど、あいつには勝っている
そう思う事で、満足している事はありますか
そんな他と比べて自分を評価している事はありませんか
誰に勝とうが、誰に負けようが、自分は自分です
勝ち負けで、自分の価値を見てしまう人は
競う事のない、争うだけの競争に囚われている人だと思います
お互いが競い合う事のない、争うだけの競争です
争うだけの競争が多くなったら、世の中どうなるのでしょうか
その答えは、あなたの心の中にあると思います
周りは関係ない、自分だけ良ければいい
心にそんな思いがある人は
争うだけの競争をしている人だと思います
争うだけの競争社会は、自分の事しか考えない社会だと思います

本当に自分が良くなりたいと思うなら
自分の事しか考えない、争う競争ではなく
競い張り合って、より良いものを創り上げる競創をしましょう
そんな競創する行動には、癒しの心があります

癒しの心『おかしいと思う』

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「わかる」と「理解する」の違い

自分が理解できない事をする人に対して「おかしい」と思う事はありますか
自分には理解できない事をおかしい事だと思う事は不思議ではありません
しかし、自分が理解できない事をおかしいと思った事が、実際におかしい事であるかどうかは自分が思っただけでは判断できません
自分には理解できなくておかしいと思う事でも、他の人には理解できておかしくないと思える事もあるからです
法律やルールでその事がおかしいと決まっているなら別ですが、そうでない事であるならその事をどう思うかは人それぞれだと思います
時に私たちは、自分が理解できない事があると、その事を「おかしい」と決めつけて排除しようとしてしまう事があるように思うのです
しかし、自分が理解できない事を「おかしい」としては排除してしまうのはもったいない事だと思います
自分が理解できない事は、自分が成長していくために必要な課題を表してくれるからです
固定観念にとらわれて頭がガチガチになって、物事の一部しか見えていない自分の心の狭さに気づかせてくれるヒントになると思うのです
自分が理解できない行動をする人を、自分勝手でわがままな人だと思うのは、どこかに自分も自分勝手でわがままな事をしたいという願望があるのかもしれません

自分が理解できない事をする人がいたら、あなたはどうしますか
その事を「おかしい」とその人に言いますか、それとも言いませんか、或いは、理解できないけど理解したフリをして「いいね」と言いますか
多くの人は「おかしい」とは言えないのだと思います
「おかしい」と思うけど言わないのではなく、「おかしい」と言いたいけど言えないのだと思います
相手に「おかしい」とストレートに言ったら角が立つので言えない事がほとんどだと思います
相手に「おかしい」とはっきり言う人は、そんな事はお構いなしの自分の事しか考えていない人かもしれませんが、意外と根は素直な人なのかもしれません(おかしい事を非難する場合は別ですが)
一番問題をややこしくするのは、理解したフリをして、おかしいと思う事を誤魔化していく人だと思います
「わかる」と同調して理解しているようにしてしまう人です
自分が理解できない事がわかることは、当たり前ですがありません
もし理解できないのに「わかる」と思うなら、それは、初めからその事を理解する気がなくただ合わせていればいいと思っているだけだと思います
自分は何でも許容できる心の広い人だとアピールする事で、上手くいけば自分にとって得になる事があると思っているだけかもしれません
何も理解しないで相手に同調している人は、相手の為ではなく自分の為にしているだけだと思います

自分が理解できない行動があっても、まずはその行動自体を認識していきましょう
その行動を認める必要ありませんし、理解しよとする必要もありません
まずは、そんな行動もあるのかと頭の中に留めて、ただ認識してみて下さい
無理に理解しようとすると、理解できない自分がおかしいと思ってしまい、自分を否定してしまう事にもなります
それはおかしいと否定する事で片づけてしまうのです
自分にはわけわからない事でも、その人にはそれなりの理由があります
それが理解できないからその事をおかしいとすることは、自分の成長を自分で止めてしまっているのと同じです
自分が理解できないから相手をおかしいと言っているのは、自分は完璧な人間で自分が理解できない事はないと思っているのと同じです

自分が理解できない事をおかしいとして処理する事はやめましょう
自分だけの判断で、他の人の行動をおかしいと判断するのは危険です
自分が理解できない事をすべておかしいとしていては、本当の真実を理解する事ができなくなります
理解できるできないは、相手の問題ではなく自分の問題です
自分がわからない事をそのままにしていては、その事を正しく判断することはできません
良く「わかっているけどできない」と聞くことがありますが、わかっている事ができないことはありません
それは、わかっているのではなく、知っているだけなのだと思います
本来、「わかる」と「理解する」は同じ意味で使われます
しかし私たちは、ただ知っているだけの事をわかっていると言ってしまう事があるように思います
知っているだけならその事ができるとは限りません
なので、知っている事とわかっている事を同じ意味で使われてしまうとちょっと困ってしまします
そこにあるのは、わからないと思われたくない、人と違うと思われたくないという自己防衛の心があるのかもしれません
自分が理解できない事は何でも理解する必要はないと思いますが、だからと言って理解できない事を排除していく必要もないと思います
理解できない事をおかしいと思ったとしても、その事を否定して排除せずにその事実のみ肯定する事が必要だと思います
事実は肯定する事で初めて認識する事ができ、わからない事を理解できるようになる心の準備ができるのです
自分がそれを行うかどうかは別として、なぜそう言う事があるのかが少しづつ理解していけるのだと思います

自分が理解できない事をおかしいと思ってしまう事は問題ないと思います
問題なのは、その事を理解しないでおかしいと結論付けてしまう事にあるのだと思います
理解できない事をおかしいと思う事がおかしいのではなく、理解できない事を理解しないまま、なぜその事をおかしいと思うのかを知ろうとしない、自分の心がおかしいのだと思います
自分が理解できない事を排除して、今の自分にある常識の尺度だけで物事を見てしまう事が、世の中にある色んな差別を生んでいるように思います
人は、自分に理解できない事がある心の不安から逃れるために、理解できない事を「おかしい」としているだけなのかもしれません
自分がおかしいと思っただけで排除するのではなく、おかしいと思った事をきちんと理解できるようにしていく事が大切なのだと思います

自分に理解できない事があったら、それは自分を成長させるチャンスです
自分が理解できない事をおかしいと思うのは
理解できない事を理解しようとしない自分がいる証拠です
理解できない事だけをまずはただ認識してみて下さい
そんな事もあるのかと心のはてなボックスに入れてみて下さい
はてなボックスにある事が理解できたとき
人はより良く成長していくのだと思います

今の自分に理解できない事はありますか
もしあるのなら、おかしいと排除せず
心のはてなボックスに入れましょう
そして、それを少しづつ認識しましょう
その存在を認められる事が
その事を理解する第一歩になります

癒しの心『ありのままの自分』

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ダメなままの自分にはならない!

ありのままの自分とは、どんな自分なのでしょうか
その答えは、自分自身の心の中にしかないのだと思います
人は誰しも、良い所もあれば、ダメな所もあると思います
ありのままの自分とは、良い所もダメな所もすべて自分であると認めて受け入れる事ができる、自分のことを言うのだと思います
今の自分ってどんな自分なんだろうと、自分で自分の事を客観的にじっくり見て、見えた自分を全部「そだねぇ」と女子カーリングの選手みたいに受け入れる自分が、ありのままの自分なのだと思います
もしあなたが、今の自分のすべてを受け入れられないと思うなら、それは何故でしょうか
今の自分を受け入れる事は、自分が受け入れると決めれば誰にでもできます
誰かの許可や承諾をもらう必要もなければ、「いいね」の数やインスタ映えを気にしていないとできないというものではありません
なのに、今の自分を受け入れられないと思うのは、自分自身の心の問題なんだと思います
自分に良い所なんかない、ダメな所しかないと思っている人は、自己卑下して周りの同情を買おうとしている、ただの甘えん坊なのかもしれません
逆に、自分にダメな所なんかない、良い所しかないと思っている人は、自惚れる事でしか自己主張できない、ただ臆病な人なのかもしれません
どちらにしても、甘えん坊や臆病さで自分を受け入れられないのは、周りの事を気にしているからではないでしょうか
自虐的な言動で同情をかったり、大げさに自慢して自分を大きく見せる事で、周りの目を欺こうとしているのだと思います
そこには、全ての物事を良い悪い、正しい正しくないで判断しようとする、私たちの間違った価値観があるように思います
本来、物事の良い悪い、正しい正しくないは、その人それぞれの主観で判断されているものです
良いのか悪いのか、正しいのか正しくないのかと言う判断は、個人の主観によるものだと思います
そう言った意味で、物事の良い悪いや正しい正しくないという正義を判断するには、個人の主観ではない、共通するルールによって判断する必要があるのだと思います
しかし私たちは、「普通は」「皆が」「一般的には」などと言う言葉を使って、主観的の正義を正当化しようとする事があるのだと思います
やたら「いいね」を欲しがる、或いは、やたらと見映えを気にするのは、その表れのような気がします
また、何かと人を否定したり、強引に同意を求めてくる人も同じように思います
この事が、ありのままの自分でいることが、ダメなままの自分であると思う弊害になっているように思うのです

ありのままの自分を認めましょう、言葉でいうのは簡単ですが、やろうと思うと中々難しいものだと思います
特に自分のダメな所を認めて受け入れる事は、頭でわかっていても感情的には難しいのかもしれません
それはわかるけど、ダメなものはダメで、例え受け入れたとしてもダメなままでしょ
もし、ダメな自分を受け入れてしまったら、ダメなままの自分になって何も変わらないじゃないか、そう思う人はいるかもしれません
ダメなままの自分では嫌だ、ダメな自分を変えたいから、ありのままの自分ではいけない、そう思う人もいるかもしれません
ありのままの自分と、ダメなままの自分は同じことではありません
言葉は似ていますが、意味はまったく違います
ありのままの自分は、ダメな自分を受け入れている事ではありますが、同時に、良い自分も受け入れている事を言います
ダメな自分を受け入れると、ダメなままの自分になると思ってしまう人は、自分の良い所を受け入れられていない人だと思います
自分にある良い所を受け入れてしまうと、ダメな自分が浮き出てしまい、自分のダメな所が余計に目立ってしまうという心理が働いているのかもしれません
大事なのは、周りからどう思われるかではなく、自分がどう思うかです
周りや自分がダメだと思っていなくても、ダメな所はダメです
逆に、周りや自分がダメだと思っていても、ダメな所はダメです
周りが思っても思っていなくても変わりはないですが、自分が思っているか思っていないかは、今後のダメな自分にとっては雲泥の差になります
自分がダメと思っていなければ、ダメな部分は自分の中ではない事になっているので、気持ちの上では良いかもしれません
しかし、あるものを無いとしてしまうのは、その後の自分の行動にとても大きな弊害を生む事になります
であるなら、自分はダメだと思っていた方が良いのだと思います
自分がダメだと思う事で何か得するかはわかりませんが、大きな弊害を生む事は避ける事はできると思うからです

人は、ダメな自分をどうして認めたくはないのでしょうか
ダメな事を思ってしまうのと、実際にその行動するのとは違いますし、仮にダメな行動したとしても、ダメな行動してしまったと自覚するのと、そんな事はしていないと自分を正当化するのでも違うと思います
私にも、ダメな自分がいますし、いつまでたってもダメな所はダメなままです
そんなダメな自分を突き離すのではなく、これも自分なんだなぁと、その都度向き合って受け入れていきます
だからと言って、ダメなんもんはダメだからしょうがない、のように開き直っているわけではありません
ダメな自分だけど、ダメはダメなりに、迷惑かけないようにそれなりに頑張るようにしています
ダメな事を良い事にしようとしても、大抵は上手く行きません
逆に、余計にダメな事にしてしまうことの方が多いように思うのです
ダメな事を良くしようと思うから、上手く行かないし、苦しくなるのだと思います
ダメな事を、それなりにする事は実はそんなに難しい事ではありません
自分を良く見せようとはせずに、自分の良い所に着目していけばいいのです
一番の方法は、自分ができる事を誰よりも率先して行うことです
自分の良い部分を活かして、自分ができる事をしていけば、ダメな自分でしなくてはいけない事は少なくなります
仮に、自分のダメな部分で何か失敗しても、自分の良い事で周りに貢献していると、ダメな所を責めたり、恥ずかしいと思う事はなく、逆に周りからは、そんな一面もあるんだねと、親近感を持たれる事にもなります
それでも、自分のダメな部分を使わなければいけない事になったら、とにかくこなす術を見つける事です
上手くできるとか、かっこつける事は考えず、その事をするために最低限必要な事をだけを、自分のできる範囲で行っていくのです
もうちょっとできるかもと色気を出さずに、最低限必要な事だけに集中しましょう
周りから良く思われたいという思いは誰にでもあります
だからこそ、ダメだと思われる事は嫌なんだと思うのです
しかし、何でも周りから良く思われたいという欲張りな考え方は捨てましょう
それができれば、自分のダメな所が目立ってしまうような場面に遭遇する事もなくなると思うのです
攻撃は最大の防御と言いますが、自分の良い所を率先して出していく事が、ダメな自分を守る最大の防御になると思います

あなたは、ダメな自分を受け入れる事ができますか
ダメな自分を受け入れると、ダメなままの自分になると思いますか
それとも、ありのままの自分になると思いますか
良い所だけしかない、そんな人間は存在しません
ダメな所があるから、良い所があるのです
ダメな所を認めないのは、良い所も認めないという事です
ダメな自分と良い自分を認めて受け入れる
ダメなままの自分ではない、ありのままの自分でいる
そこには『癒しの心』があるのだと思います

癒しの心『気にしないの真実』

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気にしないは気にしたくないとは違う

あなたは、周りのことが気になりますか
気にならないと言ったら嘘になる、そんな気がします
周りを気にするのは決していけない事ではないと思います
気にしすぎるのはどうかと思いますが、逆に、全く気にしないのもどうかとは思います
周りがどう思っているかが気になってしょうがない、周りの意見と自分の意見が違う
そんな時、あなたならどうしますか
周りの事は気にしない!
そんな意見を耳にする事があります
私も、その意見には賛成ではありますが、「気にしない」の部分が「気にしたくない」であるなら話は別のような気がします
「気にしない」という言葉だけをフォーカスして、自分が気にしたくない事を気にしないとしている事があるように思えるからです
個人的な感想なのかもしれませんが、最近はこの「気にしない」が、自分が気にしたくない事を気にしないで良い、と解釈されている事があるように思うのです
確かに、SNSの世界では、そこに書いてあることをいちいち気にしていたらしょうがない事があるかもしれません
しかし、SNSの一部のたわいもない話だけでなく、全てに対して自分が気にしたくない事は気にしないようにするのはどうかと思うのです
こうなってしまうと、気にしないではなく、気にしたい事だけ気にするという、最悪の状況になっているように思うのです
周りの意見の中には、聞きたくないが自分にとって役立つ耳の痛い言葉もあります
気にしない事を、自分が嫌な事は聞かないとしてしまうと、自分にとって必要な耳の痛い言葉がまったく聞けない状態になってしまうのだと思います

今、フェイクニュースが度々世間を賑わせています
トランプ大統領やおまとめサイトなど話題に事欠かない状態です
フェイクニュースは名前の通り、嘘の記事です
フェイクニュースの目的は、誰かを陥れる事にあるように思うのです
フェイクニュースは、それがまったくの出まかせであっても、相手の信用を無くす事ができるからだと思います
私もそんな経験をした事があります
ある事ない事を周りに言われ、多くの人の信用を失った経験があります
フェイクニュースは、それを真実と思わせる必要はありません
逆に、真実なのかどうかわからない方が、より効果を発揮するように思うのです
フェイクニュースを聞かされた相手が、その真贋がわからなければわからないほど、その効果は絶大です
多くの人は、わからなくて自分が判断できない事があると、その事に関わる事をやめることで自分を守ろうとするからです
今となっては、フェイクニュースで信用がなくなる程度のものだったんだと、その時の自分の能力の未熟さを実感していますが、救いだったのはそれでも何も変わらずに接してくれる人たちがいた事です
私に対するフェイクニュースを流していたのが、その当時の会社のトップだったことは、今なっては半分笑い話みたいなもののようになっています
しかし、ここまでフェイクニュースが溢れているのは、別のニーズあるように思います
フェイクニュースに対する他のニーズは、ポスト・トゥルースにあるように思うのです
ポスト・トゥルースとは、真偽は関係なく、感情的なメッセージが世論に大きな影響を与える社会の有り様を意味するようで、信じたい人が信じがたいニュースを信じる状況の事だそうです
フェイクニュースが横行しているのは、ポスト・トゥルースの感情が世の中の人に多く存在してるからではないでしょうか

私が問題視している「気にしない」の解釈も、このニーズから生まれているように思うのです
自分が聞きたい事だけ聞いて、自分が聞きたくない事は聞かない「気にしたくない」を「気にしない」としているように思うのです
自分の聞きたい事だけ聞いている人は、周りを気にしないのではなく、周りを無視しているだけだと思います
周りを無視していれば、気にしないどころか、気にする事自体がないのだと思います
ポスト・トゥルースである、信じたい人が信じがたい事を信じている社会に明るい未来はあるのでしょうか
周りを「気にしない」と言えるのは、周りを気にしている人にしか言えないように思うのです
周りを気にかけながら、自分だけでなく、周り全体の事を考えた時に、気にする必要がある事を気にでき、気にする必要がない事は気にしないようになるのだと思います
何かが気になってしょうがないのは、それが気にする事なのか気にしない事なのかが、自分でわからないからだと思います
自分が悩んで嫌な気持ちになるからと言って、その事自体を無視して「気にしない」にしていては本末転倒になります
相手が嫌な思いをするかもと思って、自分が我慢して「気にしない」としていては、本当の気にしない状況からどんどん遠ざかっていくだけです
気になってしょうがない事があるなら、その事を徹底的に気にしてみましょう
そしてそれが、本当に気にする事なのか、それとも、気にしない事なのかを整理して判断していきましょう
周りがではなく、あなた自身が判断していくのです
自分だけが良くなるのではなく、皆が良くなると思える思考でです

周りの事を気にかけて行きましょう
そして、キチンと判断していきましょう
ただの誹謗中傷や悪口なのか
それとも、辛口な建設的な意見なのかを
感情ではなく、理性で言葉の意味を捉えるのです
耳が痛い言葉の中に、成長の種があるものです
気にしたくない事を、気にしないと解釈しない
気にするけど、気にしない
そこに『癒しの心』があると思います

癒しの心『逃げるは恥とは限らない』

癒しの心 カウンセリング

役に立つ逃げると役に立たない逃げるがある!

あなたは、逃げる事は恥だと思いますか
本当に自分が危険だと思う状況であれば、誰もが逃げる事を選択するのだと思います
あるテレビを見ていた時に、自分を守る能力が一番ある人は、足が速い人だと言っていました
それは、自分を確実に守れる最強の方法は逃げる事で、相手より足が速ければ逃げる事ができるからというのが理由でした
自分を守ることを考えたら、逃げる事が一番確実な方法なのかもしれません
であるなら、逃げる事が恥になるとは限らないように思います
誰もが逃げる必要があると思える状況であれば、逃げる事を恥ずかしいと思う人はいないと思います
ここで問題なのは、逃げる必要があると思う状況が人によって違うという事です
自分の中では逃げる必要がある危険度があっても、周りにそう思わない人がいる場合もあるのだと思います
そんな時、なぜ逃げているかという理由は無視され、ただ逃げるという行動だけで恥だと思わされてしまっているように思うのです
自分では危険から自分を守るために逃げているので恥ではない事はわかっていても、周りにそう思わない人がいる事で恥だと思ってしまうのだと思います
しかし、逃げる必要がある状況は個々によって違うのだと思います
であるなら、いくら他の人が逃げる必要がないと思っているからといって、自分が逃げる必要があると思って逃げた事を恥だと思うことはないように思うのです
他の人が逃げていない事から逃げる事が恥ずかしいわけではなく、自分が逃げてはいけない事から逃げるのが恥ずかしいのだと思います
その事から逃げる必要があるかどうかは、自分にしかわかりません
逃げる必要がある状況かどうかは、自分にしか決める事ができないのだと思います
だからと言って、何でもかんでも危険だとして逃げてばかりいるのは恥どころか論外だと思います
逃げた事が恥かどうかは、自分の心に正直でいれば、自分が一番わかるはずです
たまたま逃げていないからといって、逃げている人を恥だと非難する事は、誰にもできないのだと思います

逃げるには、逃避と逃亡があるように思います
逃避は、避けるという字が含まれ、逃げる事で危険を避ける事を意味するので恥でないと思います
逃亡は、亡くすという字が含まれ、自分が逃げた事自体を亡くそうとしているので恥だと思います
逃避は、恥ではなく役に立ちますが、逃亡は恥で役に立たない行動だと思います
もしあなたが、今の自分ではどう頑張ってもできない事に遭遇したらどう対応しますか
今の自分ではできない事を認めて「できません」と言いますか
それとも、できない事を認めたくないので「できます」と言いますか
人には、こんな選択に迫られる事があるのだと思います
「できない」と言うことは、逃げるので恥になると思うかもしれません
「できる」と言うことは、逃げていないので恥にならないと思うかもしれません
できない事を「できない」と言うのは「逃避」ですが、できない事を「できる」と言うのは逃亡になります
逃避は逃げている事が誰からもわかりますが、逃亡は逃げている事を周りに隠してしまいます
その事で何もなければ、逃亡は逃げた事にならないと思うかもしれません
しかし、自分の責任を放棄して、できない事をできるとして何も問題が起こらないわけがありません
大抵の場合は、初めから「できない」と言っていた時と比べものにならない損害を周りに与えるものです
その時に、できない事を認められればまだ良いのですが、逃亡した人の多くは、自分は悪くないと責任転換を周りにしてくるのです
やろうと思ったけど他のせいでできなかったと言ったり、挙句の果てには、できませんと言えなかったと、頼んだ方に非があるように言って、自分が逃げている事を亡くそうとしていくのです
誰でもできないと思われるのは嫌な事だとは思います
しかし、頑張らなければいけないとわかっていても、できない時はあるのだと思います
そんな時に「できません」という事は決して恥ずかしい事ではありません
確かに、その事で周りに迷惑を掛け、非難される事もあるかもしれません
しかし、自分ではできないと思っている事を無理に行う事の方が、もっと周りに迷惑を掛けてしまう事になるのです
しかも、自分で頑張れなと思っているのに、周りの目を気にして無理やり行ってしまうと、頑張れない自分にやらせた周りが悪いと、自分の心の中で周りのせいにしてしまうのです
その瞬間、逃避する事が逃亡する事に変わってしまうのだと思います
逃避は危険からは逃げますが責任からは逃げません、逃亡は危険から逃げませんが責任からは逃げます
最近は、危険からは「逃避」しないけど、責任からは「逃亡」する人が多いような気がします

人生において、逃げてばかりいては何もできません
しかし、時には逃げる事があっても良いのだと思います
まずは、逃げる事で自分を守る必要がある事を自分が知る
もし、自分を守るために逃げたなら、その事を自分が認め、受け入れる
そして、どうしたら逃げずに自分を守れるかを考えれば良いのだと思いますあなたは、逃げる事を恥ずかしいと思いますか
もし思うなら、それは自分から逃亡しているからでないでしょうか
逃げない勇気があるなら
逃げる勇気もあるのだと思います
逃げる勇気がない人の逃げない勇気は
ただ無謀なだけで、周りに迷惑を掛ける無責任な行動なのだと思います

逃げたい時は逃げましょう
そして、逃げた事を恥じるのではなく役に立てましょう
どうしたら、逃げなくて良いのか考えてみるのです
自分が逃げたいと思う事には自分を成長させる課題があります
その課題には、逃げる勇気がある人しか気づく事ができません
課題をクリアする事で、逃げない勇気が手にできるのです

今のあなたに逃げたい事があったらチャンスです
逃げる勇気を持ってその課題をクリアしましょう
そしたら、どんな事でも対応できる
逃げない勇気が持てるようになるはずです