癒しの心『わかっているけどできない』

癒しの心 カウンセリング

何事も理解しないとできる事はない

わかっているけどできない、と思う事はありますか
わかっているけどできないと思った事のある人は、意外と多いように思います
その時の気持ちはわかるような気もしますが、わかっているけどできないは、その時の状況を正確に表している言葉だとは思いません
わかっているならその事はできます、それなのに、その事ができないと言うのには矛盾があります
わかっているけどできないではなく、わかっているけどやりたくないであるなら、矛盾はありません
逆に、その事をわかっていないのであれば、わからないからできない、なので、その事ができない事は理解できます
わかっているけどできない、その事には矛盾がある、そう理解して、対外的に使っているだけであるならば、まだ問題はないかもしれませんが、自分の心の中でも、わかっているけどできない事があると思ってしまうのは問題があるように思います
わかっているけどできないという事を、そういう事もあるよね、表向きに同調しているだけなら良いですが、みんなが同調しているからと言って、自分の心の中でも、そういう事はあるかもと思ってしまう事は、後々自分の行動にマイナスの影響を及ぼす事になってしまいます
人はどうして、わかっているけどできない、という言葉を「そうだね」と受け入れてしまう事があるのでしょうか
そこには、わかっているという言葉の解釈に問題があるように思います
わかっているは、言葉の意味としては、その事の内容をわかっている、つまり理解しているという事だと思います
その事を理解しているという事は、その事ができるという事を意味していると思いますが、それなのに、できないという事が成立するのは、わかっていると思ったけど、やってみたらわかっていなかったからできなかった、そういう時だと思います
そこまで言うのは長いから、短くしてわかっているけどできないにした、というのであれば、それは。わかっているけどではなく、わかっていたけどと、過去形にする必要があるように思います
しかし、わかっているけどできない、という人のほとんどは、そうではないように思います
わかっているはずだけどできない、自分はちゃんと理解してわかっているけど、自分ではどうしようもない理由があってできない、そう思っているように思います
できていない事には理由があります、その理由が本当にわかっているならば、わかっているけどできないではなく、この理由があるからできないと言うはずです
それが自分でも対応できないものであるなら、それが何であるかはわかっているはずです
それがわかっていなければ、その事が自分が対応できない事であるかどうかを、自分が判断すること自体ができないからです
わかっているけどできないという時の、わかっているという言葉には、そのわかっている事が、自分が受け入れられるか、受け入れられないか、そんな違いがあるように思います

人は、自分ができないと思う事を行う事はできません
いつでも、どんな時でも、人は、自分が決めた事しか行動しませんので、できない、と決めている人が、できる行動をする事はないのです
本当はわかっていない事なのにわかっていると言い張る人は、別の問題がありますが、自分ではわかっているつもりだと思っている人は、わかっている内容の対象がちょっとずれている人だと思います
その人にとってわかっていると思っている内容が、その事をわかっていると言うには不十分な内容なのに、その事をわかっていると自分では思っている状態のように思います
そこには、わかっていると理解しているとの違いがあるように思います
わかっていると理解しているは、言葉の意味としては同じ意味を指しているとは思います
しかし、その事のどの部分を把握しているかを見たときには、意味の違いが出てくるように思います
わかっている場合は、その事を主観的に自分がわかっている、つまり、自分から見た解釈で把握できている事を表すときに、わかっている、という言葉になると思います
理解している場合は、その事を客観的に自分が理解している、つまり、自分の解釈ではなく、第3者にも説明できるくらい、事実による解釈で把握できている事を表している言葉だと思います
主観的にわかったのか、客観的に理解しているのか、その違いが、二つの言葉にはあるように思います
人は、わかってるけどできない、とは言いますが、理解しているけどできない、とはあまり言わないように思うのです
何であっても、その事をできるようになるには、その事を理解している必要があると思います
もし今、わかっているけどできない、そう思う事があるならば
それは、あなた自身はわかっていると思っているかもしれませんが、その事の全貌は理解していないと言えます
いや、そんな事はない、ちゃんとわかっているし理解もしている、そう思っていても、本当にわかっているのであればその事はできますし、もしできないのであれば、わかっているけどできないと言うのではなく、できない理由を上げていくのだと思います
わかっているけどできないは、できない理由は自分でもわかっている、でもそれは言いたくない、そんな時に使う言葉かもしれません
周りから、こうすればいいじゃん、と言われる、そんなのわかっているけどできない、自分でもそれをできない理由はわかっている、その理由は、他の人にとっては何でもない事かもしれないが、自分にとっては大変である
でもその事を周りに言ったら自分はダメな奴だと思われる、そんな事はただのワガママだ、そう思われてしまう、そんな思いがあるのかもしれません
その事ができない理由は、人それぞれだと思います
確かに周りから見たら馬鹿にされそうな理由だと思う事もあるかもしれません
そんな状況の時には、わかっているけどできない、と周りにいう事もあるかもしれません
でも、自分の心の中までも、わかっているけどできないとしてしまうのは、いけません
周りをごまかしても、自分が自分の心をごまかしていくのはよくありません
自分が自分の心をごまかしてしまうと、自分の周りにある事実をありのまま見る事ができなくなってしまうからです

わかっているけどできないと思うのは、その事が自分ができないと自分が認めたくないと思っているからです
自分が認めることができる、自分ではできない、或いは、やりたくないと思っている事であるならば、わかっているけどできないなどといって、周りをごまかそうとはしないと思います
わかっているけどできないと思う事は、自分でもできなくない事ではあるが、できればやりたくはない、どうすればできるかはわかるけど、それはやりたくない、そんな時だと思うのです
しかし、その事をそんな風に思ってしまうのは、その事を理解できていないからだと思います
自分ではわかっていると思っているけど、まだ理解できていない事がある事を表していると思うのです
そこには、自分では見たくない事実があるのかもしれません
そんな事実は見たくない、受け入れることができない、そんな思いがあるように思います
その事を理解するには、その事にある事実をありのまま見て、受け入れなければ、その事を理解していくことはできません
しかし人は、その事に自分が受けれたくない事実あると、全てを受け入れていないのに、わかったとしてしまうのだと思います
そんな時に、わかっているけどできない、という事態が起こってしまうように思います
わかっているけどできない、そんな時には、その事で自分が目を背けて理解しようとしていない事実がどこかにある、そう思って下さい
もし、どうしても事実をありのまま受け入れる事ができないと思ってしまうなら、そこにある事実を受け入れるか受け入れないかは置いといて、認識する事から始めてみましょう
事実をありのまま認識することができれば、受け入れる事ができなくても、その事の対処法は見えてくるはずです
わかっているけどできない状態は、できることにも、できない事にもなっていきません
ずっとあなたの心の中で、どっちつかずのまま、漂っていきます
そのまま漂わせていたいのであれば、それでも構いませんが、そうではないのであれば、わかっているから理解するにしていきましょう
その事を行うか、行わないかは、一旦置いといて
徹底的に、その事を客観的に理解していくようにしましょう
どうしても理解できない、そう思ってしまうなら、その事を認識していくようにしましょう
自分は理解できないけど、現実にそういう事実がある、そう認識していくのです
そんな事もあるんだね、と認識した事実だけを受け入れていくのです
そうすれば、その事をできるようにしたほうが良いのか、できなくても問題がないのかがわかってきます

今のあなたに、わかっているけどできない、という事はありますか
もしあるならば、その事を理解していきましょう
どうして、何故だ、と疑問をぶつけていくのではなく
どういう事なのか、何故そうなのか、と問いかけていく
そうする事で、理解は深まっていきます
その事を、良い悪いで判断する必要はありません
法律や規則、ルールで決まっていない事を良い悪いで判断しても
物事を理解していく上では、何の役にも立ちません
物事を理解していく上で大切なのは
事実を見て、それをただ受け入れる事です
現実は客観的で真実は主観的ですが
事実はどちらでもなく、ただ事実なだけです
ただの事実を見ていけば
どんな困難な問題でも答えは見つかるはずです
これってどうしてだろう
そんな素朴な問いを理解していく事が
わかっているけどできない事を
できる事にしていける一歩だと思います

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癒しの心『惑わされる心』

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嘘によって事実を知ろうとしない悲劇

ネットではフェイクニュースが花盛りです
災害時に、フェイクニュースが善意ある人によって拡散していくのは、本当に悲しい事だと思います
これまでのフェイクニュースは、「これって本当?」と思うようなものが多かったように思いますが、最近は情報元を信頼できる機関にして信憑性を高めようとする、捻じれた承認欲求があるように思います
自分が作った嘘で多くの人が信じて拡散してくれる事で、自分の承認欲求を満たそうとしているのかもしれせん
そこには、自分は多くの人が信じてしまう嘘を創る事ができるとして、優越感に浸っているかのようにも見えます
普段の社会生活では認めてもらえない、でも自分は他の人より優れているはずだ
そんな満たされない欲求のはけ口が、フェイクニュースに限らず、ネットの社会には多く存在しているように思います
しかし、嘘や空想、或いは幻想の世界で活躍しても、現実の世界では何の役にも立たない事は、本人が一番わかっているように思うのです
災害時における情報収集は、検索サイトやソーシャルメディアのトップページにNHKのHPのリンクを貼れば良いように思います
何もNHKでなくても良いのですが、災害時の情報を一つの機関にまとめる事で、災害譲歩はここを見て、そこに載っていない情報は真贋を確認していくようにするだけで、フェイクニュースの被害は少なくなるように思います
フェイクニュースを拡散させて面白がるのはどうかと思いますが、世界ではお金を稼ぐ目的でフェイクニュースが横行しているようです
そうなると、良い悪いという観点が根底から崩れてしまいます
そこには、自分は小説を書くかのように、人が興味を持ちそうなフィクションニュースを創作しているだけで、嘘を信じる方がいけない、という考え方があるようです
確かに、情報の真贋も解らない状態で、フェイクニュースが話題になるのはどうかと思います
これには、ネット上における広告収入の問題が大きく関係している事は間違いありません
何でもかんでも規制しろとは言いませんが、フェイクニュースに貼られたバナー広告に広告費を払わないようにする対策は必要な気がします
ネット関連の会社は、自分が損する事に関しての対応は早いのですが、他が損する事には対応が遅いのが気になります

フェイクニュースは何もネット社会になってから出てきたものではないと思います
ネットが無い時から、噂話としてフェイクニュースは誰もが耳にしていたものだと思います
実はあの人って~らしいよ、と誰から聞くと、そうなんだ、と結構信じてしまう人は今でも多いように思います
特に何の根拠もないのに、そう思ってしまうことは多いように思うのです
ただの噂話の内は問題ないのですが、嘘が嘘を呼び、嘘が横行してくると、ただの噂話が真実として独り歩きしていく事も多々あります
噂話のほとんどは、嘘でも本当でもどちらでもいいものが多いのですが、時に、人間関係に大きく作用してしまうものもあります
自分が良く見られたいという気持ちでつく嘘が、時には相手を貶める事でその欲求を見たそうとしていく事があると思います
ただ嘘をついている人だと、ほとんどが嘘ばかりなので、その内その人の言う事を信じる人は誰もいなくなります
嘘をつく人の心の中にあるのは、自分をわかって欲しいという思いがあるように思います
嘘の中には、どこか理想の自分であればできることが混じっているように思うのです
嘘ばかりつく事はいけませんが、そんな人は、心の歪みから表現方法が間違っているだけで、本当は純粋で素直な人なのかもしれません
一番たちの悪い嘘つきは、所々に真実を散りばめてくる人です
話の中の真髄とは関係ない所に本当の事を散りばめ、肝心なところは嘘ばっかりな人です
物事は肝心なところが人にはわかりづらく真贋が付きにくいものです
そこに付け込んで、もっともらしい嘘をついて人を惑わしていくのです
もちろん、もっともらしい事を言っても嘘は嘘なので、いつかはわかってしまうのですが、その嘘自体がその後に大きく影響してしまうのです
一番多いのは、嘘をつかれた事で人間不信になり、誰の言っている事が真実なのか知ろうとしなくなる人です
人は、誰かに嘘をつかれると、この人も嘘をついているのではないかと思うようになります
冷静に考えれば、そんな大きな嘘をつく人はほんの一握りなのに、一つの嘘によって真実を見究める事ができなくなります

嘘を並べて、人を疑心暗鬼にしていくのはいけませんが、嘘で混乱して、真実を知ろうとする事をやめてしまうのも問題だと思います
もう何も聞きたくないとして、真実に必要な事実を知ろうとする事をやめてしまうのです
嘘で惑わせれてしまい、何が事実であるかを聞く事をやめて、もう関わらない事で自分を守ろうとしているのです
その行動は、自分を守っているようで、実は、一番自分を守ってはいません
事実を知ることなく、正しい判断をする事は誰もできません
嘘の中にちょっとだけ本当のことを散りばめて、惑わしてくる人が一番いけないのはそうなのですが、だからと言って、事実を知ろうとはせずに、惑わされた事に関する情報を全てシャットアウトしていては、最終的にその事で一番傷つき続けるのは自分なのです
惑わされている時は、何が本当の事なのか解らず、止むを得ず情報を遠ざけてしまう事があっても、惑わされた心が落ち着き、平静を取り戻せた後には、事実を知ることが必要だと思います
一時的な逃避として逃げるのは時には必要ですが、永遠に逃げ続ける逃亡が必要な事はありません
一度逃亡する自分を認めてしまうと、何か傷つきそうなことがある度に逃亡していくようになります
最初は逃避のつもりが、心を平静に戻す作業をしないままその事を避け続けていくと、いつの間にか逃げ続ける逃亡になってしまいます
逃亡した状態が続いていると、ちょっとでも自分が傷つきそうな事があると、すぐに逃亡するようになってしまいます
逃亡に逃亡が重なっていく心は疲弊し、何か些細なことがあっても傷つきやすい、ガラスの心になってしまいます
何が正しいか正しくないかは、それぞれの人の主観が大きく関係してきます
特に、全体で取り決められた規則やルールがないものに関しては、それぞれの主観であるマイルールによって正しいかどうかが判断されていきます
本当に大切な事は、何が正しいか、正しくないのかではなく、何が真実で真実ではないのかでもなく、何が事実であるかだけだと思います
その情報が事実であるかどうかを見ていく事が必要だと思うのです

嘘をまき散らす人の話を良く聞いてみると、肝心なところは人から聞いた「そうらしい」と曖昧な言い方をしている事が多いように思います
そして、その話の内容に関してどうでもよいエピソードを「そうだ」と断定して、それが事実である事を証明できる情報を一緒に伝えてきます
あまり重要でない事実を伝える事で、重要な事でついた嘘を信じ込ませようとしてきます
ハッキリと断定できる事実の情報を先に伝えて、周りに自分を信用させて、その後の曖昧な嘘をまるで事実であるように信じ込ませていこうとするのです
もし、あなたの周りにネガティブ情報を流す人がいるとしたら、その情報の核心部分を「そうだ」と言っているのか、「そうらしい」とまた聞きのように言っているかに着目してみましょう
もし「そうらしい」でいっている場合は、その情報は参考までにとどめる、或いは、聞き流してしまっても良いと思います
もし、どうしてもその情報が気になってしまうのであれば、その人に、どこの誰が言っていて、何故そう言えるのかを、その発言者に突っ込んで聞いてみましょう
その質問にしどろもどろになる、或いは、どこの情報か言えないようであれば、その情報の信憑性はない事になりますし、逆切れしてきたら、嘘をついているか、ただ、皆の注目を浴びたい為に話をかなり盛ってしまっているかのどちらかだと思います
「そうらしい」と言ってきた事を「そうなの」と真に受けるのではなく、「そうなんだ」と軽く受け流していきましょう
事実を自分が確認できるのであれば、自分で確認していく事だと思います
一番大事なのは、その事実を確認できるか、できないかだと思います
事実が確認できれば、その事実をもとに自分で判断していく、確認できなければ、事実がわかるまで判断しない
どちらかわからない情報に対して、自分が何かの判断をしてしまう事自体が世の中に誤解を生み出してしまう大きな元凶のように思うのです

あなたは、噂話が好きですか
噂話は、あくまでも噂話である
そうやって、楽しむ分にはいいかもしれません
でも、そう思っていたのが
いつしか、噂話で自分の良し悪しを判断する
そんな自分になっていたりはしていませんか
真実は、人の解釈次第で変わるのだと思います
しかし、事実は一つしかありません
あなたは物事の判断を
真実から判断しますか
それとも、事実から判断しますか
もし、真実で判断するのであれば
その真実の中で「わからないけど」が無いようにしましょう
「わからない」という言葉がある事に
事実はないように思うからです
その物事の事実は何であるか
その視点が
良い人間関係を構築していく秘訣だと思います

癒しの心『相性診断』

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相性の良い悪いはない

よく相性を聞かれる事があります
自分と相性がいい人はどんな人なのかと
自分にとって相性がいい人は、自分が相性がいいと思った人です
そう答えています
それはそうかもしれないけど、でもね、そう思うかもしれません
私個人的には、人の相性に良い悪いはないと思うのです
相性の良い悪いがあると思うのは、相性が合う、合わないがあると思うからだと思います
相性が合う人は相性が良い人、相性が合わない人は相性が悪い人
そういう分け方をしているように思うのです
でも、本当に相性が合う、合わないという分け方はあるのでしょうか
相性が合う、合わないがあると思うのは、合わせ方の違いがあるからだと思うのです
相性が合う、合わないがあるのではなく、合わせ方の違いによる、合わせやすいと思えるか、思えないかがあるのだと思います
多くの人が合わせやすいと思うタイプの人は、相性が良い
多くの人が合わせるのが難しい思うタイプの人は、相性が悪い
そんな分け方になっているように思います
合わせやすい人が相性が良いでいいのではないか
そんな声も聞こえてきそうですが
合わせやすい人=相性が良いというのは、初めの内だけで、長い目を見たときには、合わせやすい人の方が、合わせにくい事もあるように思います
本当の相性の良さは、すぐに仲良くなる、意気投合しやすい事ではないように思うのです
本当の相性の良さは、長い間親密な関係を保つ事ができる関係だと思います
そうであるならば、相性は合わせやすい、合わせるのが難しいで判断するのではなく、相性をあわせたいと思うか、思わないかで判断する必要があると思います
どんなに、合わせやすい相性でも、自分で何も意識しないままで相性が合い続ける事は無いように思うのです
初めは、相性が合いやすいので、特に意識していなくても、お互いがお互いの事を理解できているように思うかもしれません
しかし、月日が流れ、お互いの一緒にいる時間が増えてくると、今まで合っていると思っていた相性に微妙なずれが生じてくるように思います
今までは気にならなかったちょっとした事が気になり始め、今まで相性が良いと思って許せてたことが、許せなくなり始める事があるように思います
相性の良い、悪いがあると思ってしまうと、良いと思っている内は良いのですが、悪くなったら取り返しがつかなくなってしまうように思います
しかし、相性の良い、悪いは、合う、合わないではなく、合わせたいと思うか思わないかであるとするならば、相性は、いつからでも、どんな状態からでも、合わせて良くする事ができるのだと思います

相性が良いと言われる場合は、自分と同じ思考や行動がある場合だと思います
自分と同じような思考や行動がある人ならば、自分と考えている事は似ているので、一緒にいてもストレスを感じる事が少ないように思うのです
それだけではなく、共感できる事も多くあるので、一緒にいて楽しい、自分をそのまま出していても大丈夫、そんな気がしてくるのだと思います
しかし、どんなに自分と思考や行動が同じであっても、他の人は他の人で自分ではありません例え一卵性の双子であっても、全く同じ思考や行動になる事はありません
自分では何も意識する事なく、相性の良さだけで相手と接していると、時間が経つにつれ相性が合わなくなる事はよくある事だと思います
これは、最初に相性が良いと思ってしまえばしまうほど、その後に相性が悪くなる可能性は高まってくるように思います
人は、慣れてくると細かい事が良く見えてくようになります
自分と同じような思考と行動がある、自分の事を良くわかっている、と自分本位な考えが、時間が経過して慣れてくると人の心の中には蔓延してくるように思います
相手に対してそう思うようになると、なまじ自分と合う所が多いがゆえに、ちょっとした違いが気になってくるのだと思います
今までは、気にならなかったことが、時間が経ちお互いの関係が深まれば深まるほど、ちょっとした違いが気になってしまうのだと思います
ちょっとした違いが気になりだすと、人はその事ばかり気になってしょうがなくなります
何とかしたいと思いますが、ちょっとした事なので何とかする事ができない
相手にその違いを伝える事ができない、そんな状態になっていきます
大きな違いであるなら、相手もその違いに気づき、お互いが修復していこうと思うかもしれません
しかし、ちょっとした違いは、相手にはわからず、何に不満を抱いているのかがわかりません
相性が良いと思っていた相手が、実はそうでもなかったと思った瞬間、今まで最良のパートナーだった人が、最悪のパートナーになってしまうのです
熟練夫婦の離婚が増えているのも、もしかしたらそんな要因があるのかもしれません
最初の相性の合わせやすさだけで、相性が良いとおもってパートナーを選んでしまうと、後々大変なことになってしまうように思います

逆に、相性が悪いと言われる場合はどうなのでしょうか
基本的に相性が悪いと言われる人と、親密な関係になろうと思う人はいないように思います
しかし、相性が悪いと言われている人は、相性が合わない人ではなく、相性をあわせる範囲が狭く難しい人なのだと思います
相性が良いと言われる人のように、共通する部分が少なく、どちらかと言えば自分と真逆な性格で、反発を覚える事も多いかもしれません
しかし、それは決して相性が合わないという事ではなく、相性が合うポイントが見えにくいので、合わせづらく感じているだけなのだと思います
相性が悪いと言われる人は自分と共通点が少ない、そうであるならば、自分に無いモノを多く持っている可能性がある、そう考える事も出来ます
相性が悪いと思える人の方が、もし相性が合わせられる事があるならば、これ以上ないほど相性が良い状態が維持できるように思うのです
相性が悪いように思えるのは、相性を合わせる事が簡単にはできないからだと思います
お互いの個性がぶつかり合い、相性を合わせるポイントが見えにくくなっているだけだと思います
それは、ただ見えにくいだけで、合わせる事が難しいわけでもなく、できないわけでもありません
どう合わせるのが良いかが、見えにくくて出来ていないだけだと思うのです
相手の事を良く見て理解していこうとする気持ちがあれば、相性を合わせるポイントは見えてくるはずです
相性が良いと言われる人とは違い、相性が合わせずらい状態から始まるので、相性が合わせられる事ができれば、その後ずれる事はほぼないように思います
例え、ちょっとしたズレがあったとしても、初めのズレから見れば大した事はない、これくらいはいくらでも修正できるとして、相性を合わせ続ける事ができように思うのです
最初は喧嘩ばかりしていた人なのに、ある事をきっかけに理解し合う事ができ、最高のパートナーになる事はよくある話だと思います
ケンカするほど仲が良い
人間関係は、最初に苦労をしていた方が、後々良いパートナシップになるのかもしれません

人の相性に良い、悪いは無いように思います
あるのは、合わせるのが簡単だと思うのか、合わせる事が難しいと思うのかだけだと思います
相性を合わせる事が簡単な人を相性が良い人、相性を合わせる事が難しい人を相性が悪い人
そうしてしまうのは、自分にとって本当に相性が良い人を見逃してしまう、或いは、失ってしまう事に繋がってしまうように思うのです
相性の良い、悪いは、自分が相性を合わせたいと思うか、思わないか、その違いだけだと思います
相手の性格や態度は関係なく、自分が相手に相性を合わせたいと思えば、相性は良くなり、思わなければ相性は悪くなる
それが、本当の相性の良し悪しなのだと思うのです
どんなに相性が合っていると思っていても、自分が相性を合わせたいと思っていない相手の相性は最悪だと思います
そんな相手との間あるその後の人生は、いばらの道なのだと思います
どんなに相性が合わないと思っていても、自分が相性を合わせてみようと思っている相手の相性は最高なのだと思います
そんな相手との間にあるその後の人生は、バラ色なのだと思います

あなたは、相手との相性が気になりますか
もし、そうであるなら
相性を気にする前に、気にかけてみて下さい
相性を合わせるポイントはどこにあるのか
それを見つけてみて下さい
安易に合う所に着目するのではなく
自分が相手に合わせてみたいと思う所に着目する
そうすれば、相手の本当に良い所が見えてくはずです
相性は自分が合わせにいくものです
相手との相性が良くなるのも、悪くなるのも
自分しだいです
相手に気になるところがあるなら
良い所でも、悪い所でも
合わせてみるのも良いと思います
自分から合わせてみて、合わない相手なら
その相手とは相性が良くない
そう自分で判断することができます
相性の良し悪しを他に判断してもらうのではなく
自分で判断していく
それが、良きパートナーを見つける第一歩だと思います

癒しの心『自分を理解する』

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自分の事をわかっていますか

自分の事をわかって欲しい、そう思う事はありますか
自分の事を誰もわかってくれない、そう思う事もあるかもしれません
自分の事を誰もわかってくれないと思う心には、自分の事がわからない自分がいるように思います
自分で自分の事がわからなくなり、誰かに「それで良いよ」と、言って欲しい心の思いがそこにはあるような気がするのです
自分で自分の事がわからないのに、周りに自分の事をわかって欲しいと思う事は難しい相談だと思います
自分はいつも周りの事を考えているのだから、たまには周りが自分の事を考えてくれてもいいんじゃない
そう思う気持ちもわからなくはないです
でもそんな自分は、周りの事を考えているつもりでも、実際は、自分の事ばかり考えてしまっているのではないでしょうか
そんな事はない、周りの事を考えている
そう言う声も聞こえてきそうですが、本当にそうなのでしょうか
周りの事を考えているのであれば、そもそも、自分の事をわかって欲しいと思う事はないように思います
自分の事をわかって欲しいと思うのは、自分の事だけを考えてしまっているからではないでしょうか
自分の事がわからず、自分の事ばかり考えてしまうから、自分をわかって欲しいと思うのではないでしょうか
人は、自分の事がわからず自分を見失っている時に、自分をわかって欲しいと思うような気がします
自分ってどんな人、という感じで、自分の事がわからず自分を見失なっているのだと思います
自分の事がわからなければ、自分以外の周りの事を考える余裕はないように思います
人は基本的には自分の事を考えます
これは生命があるものであればごく自然なことで、自分の事を考えているから人は生きてい行けるのだと思います
自分の事を考えているから自分の人生が歩め、自分の人生を歩んでいるから他の人の事が考えられるのだと思います
なので、自分の事がわからなければ自分の事を考える事ができないので、周りの事も考える事はできないように思います

自分の事がわからない人は、いつも周りから自分がどう見られているかが気になってしまうように思います
自分で自分の事がわからないので、周りの反応から自分の事を知ろうとしてしまいます
周りを気にしている行動は、周りの事を考えているように思えますが、実際は自分の事を考えているだけだと思います
自分の意識は常に周りにあるので、どんな時でも周りの事を考えているように思いがちですが、その行動にある真意は、自分の事を知るためにあります
自分の事を知るために周りの事を考えるのは、周りの事を考えているのではなく、ましてや、自分の事を考えているわけでもなく、自分の事ばかり考えている事になっているのです
自分の事がわからない人は、周りの事を考えているつもりでいても、実は、自分の事ばかり考える思考になってしまっているのです
自分の事がわからなければ、自分で自分の事を考えることはできません
自分の事がわからず自分の事を理解していない状態で自分の事を考えようとしても、それは自分の事ばかり考える思考になってしまうと思います
自分の事を自分がわかっていなければ、自分の事を考えることはできず、自分の事ばかり考えてしまうのだと思います
人は誰でも、自分の事は自分が決めています
例え、誰かに決められた事をしていても、誰かに決められた事をすると決めたのは自分だからです
これは考え方や理屈とかではなく、人の体の仕組みがそうできているという、事実でしかありません
自分の事は自分が決めていると思えるかどうかは、自分の決断に自分の意思があるかないかだと思います
自分の意思がある人は、自分で自分の事を理解する事ができます
自分はどんな人なのか理解する為に、常に自分と正面から向合っていくからです
自分に意思のない人は、自分で自分を理解する事ができません
自分はどんな人なのか理解する事を避け、自分と正面から向き合う事ができないからです
自分の意思がある人は、自分と向合い自分のすべてを受け入れるので、自分だけではなく周りの事も含めて、自分の事を考えていきます
自分の意思がない人は、自分と向合う事がなくすべてを受け入れないので、自分の事も周りの事も考えられず、結果的に自分の事ばかり考えてしまいます
自分の意思がない人は、自分のために周りの事を考えているだけなので、自分の事ばかり考えているのと同じことになっているのです
そんな自分の事ばかり考えてしまう人の気持ちをわかる人は、誰もいないのだと思います

自分の事がわからないのは、自分の心に意思がないからだと思います
人は誰でも、自分の行動は自分が決めているのに、何かあるごとに、自分は悪くない、運が悪いだけ、環境が悪いなど、他のせいにしていると、自分の意思がなくなり、自分で自分の事がわからなくなります
と言うよりは、わかろうとしなくなります
自分で自分の事をわかる意思を持つには、自分が自分に責任を持つ必要があります
誰かに対してではなく、自分が自分に責任を持つ必要があるのです
自分の行動の責任はすべて自分に責任があります
それは、社会のおける責任とは別に、自分が自分に対してだけ持つ責任になります
自分への責任はあくまでも自分の中だけの話なので、他の人や社会には何の関係もありません
そこが、社会における責任とは違う所です
なので、自分に対する責任は、自分が判断するしかありません
自分に対する責任を他の人に肩代わりしてもらう事はできないのです
しかし人は、自分をわかって欲しいなどと、他の人に自分に対する責任の保証を求めてしまうのです
SNSで「いいね」が欲しくなるのは、人としての承認欲求だけではなく、自分に対する責任を他の人に保証してもらいたい行動の一つだと思うのです
他の人に、自分に対する責任を保証してもらっている内は、自分の意思を持つ事はなく、自分の事がわかることもありません
それどころか、自分の事を理解する事をやめ、周りに流されていく人生を選択していくようになります
確かに周りに流されていく人生は楽かもしれませんが、所詮それは自分の本当の人生ではありません
楽な事に、本当の楽しみや喜びは生まれないからです
楽をする事が楽しい事だと思っている人は、それは楽しいのではなく、辛い事や苦しい事から逃避しているだけだと思います
その事を辛く苦しいと思うのは、自分に意思がないからだと思います
大変な事や忙しい事と、辛い事や苦しい事は違います
同じように思える事もあるかもしれませんが、自分の意思がある時は、大変や忙しいと思い、自分の意思が揺らいだり無い時は、辛く苦しいと感じるのだと思います
「楽」と言う字は、楽(らく)と呼んでいる限りは、楽しいと読む事はありません
物事も同じだと思います、楽をしている時は決して楽しい事になる事はないのだと思います

自分の事を誰もわかってくれないと思う時は、自分の意思がない自分に気づいてきた証拠だと思います
周りにただ流されたくない、その他大勢の中に埋もれたくない、そんな心の想いが芽生えて来てるのだと思います
そんな時こそ、自分の事を理解するようにしていきましょう
自分ってどんな自分だろう、と自分に問いかけてみて下さい
初めは周りの人に聞いてみても良いと思います
自分ってどんな人なのか、周りの意見はとても参考になります
しかし、最終的には自分で判断する必要があります
逆に言えば、どんな自分も、自分がそう思った自分が、今の自分だと言えます
自分はどんな自分なんだろう
そして、自分はどんな自分になりたいのだろう
そう考えていく事が、自分の事を考えていく基本だと思います
そんな、自分の事を考える事ができれば
自分が周りに対して何をすればいいのかがわかると思います
自分ができる事で周りが喜ぶ事は何か
周りが楽しくなる事で自分ができる事は何か
そう考える事ができるのだと思います
自分の事を考えるから、周りの事も考えられる
自分の心に意思があるから
周りも自分の事を理解する事ができる
周りに自分をわかってもらいたいなら
まずは、自分の心と正面から向き合って
自分の心に自分の意思を持つ事だと思います

癒しの心『未来を見る心』

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「まっいいか」で心を前に向ける

人は前を向いて生活をしています
横を向いていたり、後ろを向いて生活をしていたら、何も見えずに危ないので、当たり前の事ですが前を向いて生活しています
実は、心も前を向いている必要があります
体は、物理的な不都合があるので、横や後ろ向きで生活をする人はいないと思いますが、心も同じなのです
心は物理的な障害が何かあるわけではないので、横を向いていようが、後ろを向いていようが関係ないと思えるかもしれません
しかし、体以上に心が前を向いていない方が、実は危険なのです
私たちは現在に生きています
今この瞬間である現在だけが現実の世界です
現在から時間が経てば、全ては過去の事になります
私たちの人生は、ドラマのように過去を編集する事はできません
過去は、過去のままです
現在は過去になりますが、過去が現在になる事はありません
現在になる事があるのは、未来だけです
未来におこりうる可能性がある事に、現在があるのです
心が前を向いているという事は、未来を見ている事です
現在でも、過去でもありません
人は自分の心が前を向いているから未来が見えるのです
未来を見ているから心が前を向いているのではなく、心が前を向いているから未来が見えているのです
同じようですが、実は大きな違いがあります
心が前を向いているには、「未来を見る」と自分の意志が必要にあります
他によって見せられている未来を見ていては、心が前を向いているとは言えないのです
それは他が関係しているからではなく、自分の意志があるか、ないかの違いなのです

あなたの心はどこを向いていますか
前を向いていますか、横を向いていますか、それとも後ろを向いていますか
前を向いていれば、未来が見えています
横を向いていれば、現在しか見ていません
後ろを向いていれば、過去ばかり見ています
今の自分がどの時間軸を意識しているかで、自分の心がどこを向いているかがわかります
私たちの生活にある時間は、過去、現在、未来の3つの時間軸で表されています
どの時間軸も誰にでも平等にあるものです
しかし、どの時間軸を意識しているかで、その人の人生は大きく変わってくるのだと思います
過去を意識している人は、終わったことだけで物事を考えていくので、何をしても自分ではなく他のせいにしていこうとします
既に終わった過去を言い訳にして、現在や未来にチャレンジしていこうとはしません
過去ばかり見て心が後ろを向いている人は、横にある現在は何となく視野に入りますが、未来はまったく視野に入りません
未来がまったく視野に入らない心は、自分の進む道に何があるのかわからないので、不安しかありません
未来は不安しかなく怖いとして後ろを向き続けても、人は未来に向かって前に進んでいきます
心が後ろを向いたまま何も見えない状態で進んでいく事は、自分の可能性を自分自身が潰している事になってしまいます

心が横を向いている人は、現在しか見ていない人です
今だけ楽しければいい、刺激を求めて衝動的な行動をしている、自分の事だけを考えている人は、心が横を向いています
心が横を向いていると、目の前にある事しか見ようとはしません
目の前の事しか見ないのであれば、先の事や自分の行動の結果を気にする事はありません
横を向いていると、前や後ろがかすかに視野に入る事があるので、過去と未来の存在はわかっています
しかし、それらを無視して横だけ見ようとしてしまうのは、自分に責任を持つのが怖いからだと思います
何か問題がおこると、すぐに他のせいにする、或いは、その行動を無かった事にしようとするのは、その表れです
過去も未来も見ず、現在だけを見ようとしている人は、実はただのお子ちゃまなのです
大人になれず、或いはなりたくない、子供のまでいれば、自分に責任を持たなくても社会は許してくれる
そんな甘えた依存体質があるように思います
現在はすぐに過去になります
そして、未来が今ある現在になっていきます
人は現在に生きているのは事実ですが、現在は過去と未来どちらも必要なのです
心が横を向いていては、過去も未来もなく、実は現在もないという、何もない人生になってしまいます

心が前を向いていると、未来を見る事ができます
未来は、まだ行われていないので、どんな未来が現実になるかは、時間が経過してみないとわかりません
どんな人でも、100%そうなるという未来は存在していないのです
ゆえに、人は未来に対して不安を感じるのだと思います
不安は、何かわからない事があると、人の心の中に芽生え始めます
どうしたらいいのか、あれやこれや考え、でもどうしていいのわからず、不安は更に大きくなります
不安には実態はなく、不安はその人がつくり出した幻想にすぎません
幻想である不安に現実の世界で対処する方法はありません
実際に存在しないものに対処する事は、誰にもできないのです
不安になるのは、わからない事があるからです
しかし、わからないから未来なのです
わかっている事は、現在か過去でしかありません
現在や過去に、人の人生は進んでいきません
理屈や精神論ではなく、事実です
未来の事はわからない
わからない未来に進んでいくのが人生であるなら、人生がわからなくて当たり前です
わからない事が当たり前の未来に、人は不安を抱きます
これもまた事実です
不安を抱かないようになれれば一番いいですが、そう簡単にもいきません
であるなら、未来を不安に思っても「まっいいか」と思う事が大切だと思います
色々と不安に思う事はあるけど、不安は幻想でしかないので「まっいいか」と思っても問題ない
そう思う方が良いと思います
「まっいいか」は不安を打ち消す最強の言葉だと思います

時間は前にしか進みません
止まったり、後ろに戻ったりはしません
時間を止めたり、戻したりできるのは、フィクションの世界だけです
現実の人生において、時間を止めたり戻したりする事はできません
なのに人は、自分の心の時間を止めたり、戻そうとしてしまいます
物理的に絶対できない事をしようとしてしまうこと自体に、問題がある事に気がつきましょう
過去は過去、現在は現在、未来は未来
現在になる事があるのは未来だけです
唯一現在になる事がある未来を見ていなければ、今である自分を見る事はできないのです

あなたの心は、過去ばかり気にして後ろを向いていますか
それとも、今だけ良ければいいと横を向いていますか
後ろでも横でも、人は前にしか進んでいきません
あーだ、こーだ言う前に、心を前に向けてみませんか
体の向きは他の人でも直す事ができますが
心の向きは自分で直すしかありません
自分の人生と向き合い
自分の心を前に向ける事ができるのは
自分だけなのです
いつでも、前を向いている心が
癒しの心だと言えます

癒しの心『Yes or No ?』

癒しの心 カウンセリング

人の心はあいまい

人は毎日、多くの選択をしています
多くは目の前にある選択を、するか、しないか、Yes or Noで選択されていきます
しかし、人の心はそんなにはっきりとYes or Noという2択に分かれるものなのでしょうか
多くの人は、その事を決められないからNoの選択をしていたり、皆がそうだからYesの選択をしている事が多いように思います
確かに物事を行っていくには、やるかやらないか、Yes or Noのどちらかを選択しなければいけません
あいまいな選択をしていては、その行動が有効なものになる事はありません
しかし、自分の人生における選択は、Yes or Noのように、どちらかを決める必要があるものばかりではないような気がします
その物事を絶対する必要があるならそうかもしれませんが、そもそも、自分の人生において絶対にしなくてはいけない事はそう多くはないと思うのです
皆が、周りが、社会がなど、多くの人がそうしているからと言って、無理にその選択をしなくても良いのではないでしょうか
人生において大事なのは、自分の周りに無数にある自分にとって必要な選択肢を見つける事だと思います
目の前にあるというだけで、自分には必要もない事まで選択していく事ではないように思います
常に目の前にある事をYes or No選択をしていくのではなく、自分の周りにある全ての事に目を向けて、まずは自分は何をしたいのか、いくつもある選択肢から決める事が大事だと思います
物事のYes or No選択をする前に、自分の人生において本当に必要な選択肢を見つける必要があると思います

誰しも、人生における選択肢は無数にあります
人生の選択肢が無数にあるのに、目の前の事だけを選択してYes or No選択ばかりしていると、自分にとって本当に必要な人生の選択肢を見逃してしまいます
今ある自分の目の前の事だけに囚われてしまい、自分がYes or No選択する必要がある選択肢を選べていない人が多いような気がします
その事をやるか、やらないかの前に、その選択肢を本当に選ぶ必要があるかどうかが必要だと思います
選ぶ必要もない事をYes or No選択している事自体に意味はないと思います
自分で選んだ選択肢であれば、やるか、やらないか、Yes or No選択する事が必要だとは思います
でも、そもそも選択する必要がない事を、ただ自分の目の前にあると言うだけでYes or No選択していると、自分が本当にやりたい事がわからなくなってしまいます
~しなければ、それが普通だ、皆そうしている、と言う言葉がつく行動は、その人が選択する必要がない事、或いは、気持ちが固まってない事を、無理やり選択している状況のサインだと思います
目の前の事をYes or No選択のする前に、自分は何をしていきたいかを考えて、周りにある他の選択肢に目を向けて探す事が大事だと思います
最終的にはYes or No選択は必要ですが、それは、自分が何をやりたいかの選択肢が明確になった後の事だと思います
何故それをする必要があるのか自分の中でわかっていない、或いは、理解していない人に、その物事を最後までやり遂げる力があるとは思えません
その時の感情や周りの状況に流されて選択したYes or No選択では、何もは成し遂げられないように思います

Yes or No選択をする前に、自分は何をしていきたいのか、自分にとって本当に必要な事は何なのかを考えてみましょう
その物事が必要だとハッキリと思えれば問題ないですが、いつでもそんなにスパっと思えるとは限りません
その時は「必要だ」と思ったかもしれませんが、時間が経つと「そうでもないかも」と思う事の方が多いように思います
物事に対する人の思いは、言葉でいう程Yes or Noではありません
Yes寄りの時もあれば、No寄りの時もある、或いは、どちらでもない
意外とあいまいなものだと思います
自分の心があいまいで、選択肢が定まっていないのに、物事をYes or No選択するから問題が起こるのです
行動の選択は、Yes or No選択しなければ行動にはなりません
しかし、自分の周りにあるたくさんの選択肢に気づかないまま、Yes or No選択していてはなりたい自分になる事はできないと思います
物事のすべてが、Yes or Noで決まるわけではありません
法律や規則、社会のルールで決まっているなら別ですが、そうでない事に関しては、全てがYes、或いは、全てがNoという事はないと思います
どちらの要素も含みながら、自分はどんな選択肢を選んでいくのか、一人ひとりが決めていくものだと思います
皆がそうしているからと言って、目の前にあるからと言ってYes or No選択をしていく必要はないのです
例え、選択を拒否しても、それはその道をNoと否定した事ではなく、自分は違う選択肢を選んだという事だけだと思います

人はどうして、自分と違う行動をする人がいると「認めたくない」と思ってしまうのでしょうか
気持ちはわからなくもないですが、それでは自分にとって本当に必要なものが見えなくなってしまうように思います
自分と違う行動を容認できないのは、自分が周りと違う行動をしていると怖いからだと思います
自分の意見が持てずに周りと同じような行動をする事で、安心感を得ようとしているのかもしれません
それ自体がいけない事だとは思いません
それも人生の選択肢の一つだと思います
しかし、だからと言って自分と違う選択をしている人を「なんで」と、あたかも相手がおかしいように位置付けて、自分の不安をなくそうとしていくのはやめた方が良いと思います
他の人に合わせるという自分と同じ選択を相手がするように、他の人に接していく事は自分の視野を狭くしてしまいます
他の人の選択に合わせる事も一つの選択なので自信を持てばいいのに、同じようにしてくれない人がいると不安になって「なんで」を連発したり、頼まれてもいないのにお節介して相手をコントロールしようとしてしまうのです
それでも相手が同じようにしてくれないと、その人を否定して、誹謗中傷するようになっていきます
そんな目先ばかりのYes or No選択では、幸せな人生を歩む事はできないと思います

周りと違う事をあなたは選択できますか
周りと違う選択をする人をあなたはどう思いますか
法律や規則、ルールを守らない選択はダメです
しかし、そうでない選択は人それぞれ自由だと思います
周りと同じ選択をするのも良し
周りと違う選択をするのも良し
どんな選択でも
自分でその選択肢を選んだと思えるなら良いと思います
いくつになっても可能性は誰でもあります
自分にどんな可能性があるのか
目先のYes or No選択は一度やめて
自分の周りにある選択肢を探して
そこから自分の可能性を見つけてみませんか

癒しの心『競争と競創』

癒しの心 カウンセリング

競い争うより競い創り上げる

今の社会には、競争による弊害があるように思います
一時期、運動会で手を繋いで皆一緒にゴールする、と言うのが話題になった事がありました
競争してビリの子が嫌な思いをするからと言う理由のようですが、だからと言って、皆一緒にゴールする事が良いとは思いません
その理由であるなら、競争する事をやめるのではなく、ビリになった子が嫌な思いをしないように、周りがケアしてあげれば良いと思います
もし、ビリの子が嫌な思いをする事がケアできない、そして、その事がその子の人生に大きな影響を与えるなら、そんな社会の方が変わった方が良いと思います
競争して順位が付くのは当たり前の事だと思います
競争がいけなくなるのは、競って順位が付くからではなく、順位によって人の価値を決め、その事で争うからだと思います
競う事は多くの有益な事を生むと思いますが、争う事は何も生まないように思います
もちろん、そういう意味で競争という言葉が使われている訳ではないのかもしれませんが、今の社会にある競争は、競う事がなく争うだけの競争になっているように思うのです
競争は字にあるように、競い、争う事です
争うと言う字には、戦うという意味のほかに、張り合うという意味もあります
競争にある争うの意味は、張り合う事だとは思うのです
しかし、競わない競争にある争いは、ただ戦うだけを意味してしまい、どちらの力が強いのかだけを争っていく競争になるように思います
競争する事が社会にとって有益なのは、競う事が前提にあるからだと思います
競争によって順位が付くことがいけないとするのは、競争は競う事のない争い戦う事だと思っているからだと思います

人に順位をつける事は必要がないと思いますが、物事に順位が付く事は必要だと思います
同じ条件化で何かを行えば、順位が付くことが自然だからです
なのに、同じ条件化で行われている事なのに、順位を付けずに皆が同じという事には賛同できません
見た目は公平で、全員に配慮されているように思えるかもしれませんが、私から見たらその方が公平さを欠いているように思います
みんな同じにするという事は、個人の違いを無視している事になると思うからです
そんな事はない、みんな同じ行動なので平等になっている、と思うかもしれませんが、みんな同じ行動である事がすでに平等ではないと思います
平等とは、どんな違いがあっても同じに対応する事であって、皆に同じ行動をしてもらう事ではないと思います
それぞれ違いはあるけど、みんな同じ権利があり、同じ対応になる事が平等だと思います
皆が同じ行動をする必要がない事に対して、皆に同じ行動を促すことは不自然な事のように思うのです
何か物事が行われるのであれば、皆が同じ行動であるわけがありません
上手くできる人もいれば、そうでない人もいます
それが、当たり前です
本当の平等は、上手くできた人もそうでない人も、その物事を行った事を評価するべきです
できない事がマイナスの評価になる事がおかしいのだと思います

競争が良いのは、競い合う事でより良いものが生まれるからです
決して争って勝つ事が良いわけではありません
しかし、今の社会にある競争は、ただ勝つ事だけを目的にする競争ばかりが目立ちます
競う事はせず、どちらの力が強いのかで争っているだけの競争が目につきます
それは、数字による結果だけを求める社会になっているからだと思います
誰のために何をするかでなく、ただ数字があがれば全て良しとする、社会になっているからだと思います
数字が良い事は大事だと思います
数字は、その行動がどれだけ有益だったかを表す指標になるからです
しかし、数字だけ良ければ有益な事になっているかと言うと、そうではない事が今の社会では多く存在しています
何か有益な事で生み出されるものではなく、今あるものを奪い合う事であがる数字が多くなっているように思います
そんな社会には本当の競争はなく、ただ争って他から搾取していく競争しかないように思います
今の社会で、適切な競争を字で表すなら、競争と言う字は不適切で、競い創造していく、競創とした方が良いと思います
或いは、ともに競うと言う意味で、競双とするのも良いように思います
どちらにせよ、競争するのであれば、競い合ってみんなが喜ぶ事を創り上げる事を求めて欲しいと思います
力あるものが競う事なく、勝つ事だけを目的にした、力任せな方法で戦う競争にだけはなって欲しくないと思います

競争が必要なのは、競い合い張り合う事で、より良いものができあがるからです
勝った負けたは、結果としてありますが、より良いものができあがらない競争で勝っても、何も意味がありません
私たちはいつから、物事を勝ち負けで判断するようになったのでしょうか
勝った負けたは、結果でしかありません
結果は終った事、過去の事です
過去の事がこれからの未来の事に関係する事はありません
未来を考えていくための材料にはなりますが、過去が未来に何かしてくることはありません
なのに人は、過去である勝ち負けにこだわるのでしょうか
勝ち負けの結果が出た時点で、その競争は終わっています
どんなに競争をしていても、ただ勝つ事だけ考えていては、未来に何も役立ちません
勝ったと言う結果だけでは、未来を進んでいく為の材料にはならないのです
同じ条件で何かを行えば、必ず勝ち負けはあります
しかし、勝つ事だけ考えている行動には、未来を向けた有益な材料はないように思います

あの人には負けるけど、あいつには勝っている
そう思う事で、満足している事はありますか
そんな他と比べて自分を評価している事はありませんか
誰に勝とうが、誰に負けようが、自分は自分です
勝ち負けで、自分の価値を見てしまう人は
競う事のない、争うだけの競争に囚われている人だと思います
お互いが競い合う事のない、争うだけの競争です
争うだけの競争が多くなったら、世の中どうなるのでしょうか
その答えは、あなたの心の中にあると思います
周りは関係ない、自分だけ良ければいい
心にそんな思いがある人は
争うだけの競争をしている人だと思います
争うだけの競争社会は、自分の事しか考えない社会だと思います

本当に自分が良くなりたいと思うなら
自分の事しか考えない、争う競争ではなく
競い張り合って、より良いものを創り上げる競創をしましょう
そんな競創する行動には、癒しの心があります