癒しの心『過去の経験』

癒しの心 カウンセリング

過去は今の自分が作っている

過去に戻ってやり直したいと思う事はありますか
もちろん、過去をやり直す事はできません
そもそも、仮に過去をやり直す事ができたとしても、やり直したい過去をもう一度経験したからといって、自分が満足できる結果になるとは限りません
自分が満足できる結果になるまで過去を何度もやり直していては、その後の人生が本当に自分が満足できる人生になるとは思いません
やり直して上手くいくと思えるのは、上手くいかなかった過去があるからだと思います
どんな過去であっても、その過去をなかった事にしてしまう事は、それはやり直すのではなく、初めからその経験はしていない事になってしまいます
やり直したい過去があるのは、過去が今の自分を作っていると思っているからかもしれません
確かに、過去の自分は、昔は今の自分であったので、過去が今の自分を作っていると思ってしまうのかもしれませんが、過去は過去で今ではありません
過去が今の自分を作っているのではなく、今の自分を作っているのは今の自分だけになります
それは、今の自分だけでなく、過去も未来も、作っていけるのは今の自分だけになります

どんな過去があったのか、どんな未来にしたいのか、その事を思い描けるのは、今の自分だけだからです
もちろん、過去の経験は今の自分が思い描く事に大きな影響を与えてはいますが、どんなに大きな影響を与えていたとしても、最終的に過去の経験はこうであったと作っているのは今の自分になります
過去に戻ってやり直したいと思ってしまうのは、過去の経験は過去が作っていて、今の自分ではどうしようもない事だと思っているからだと思います
確かに、過去に経験した事を変える事は今の自分にはできませんが、過去の経験した事をどう解釈していくかは、今の自分でも変える事ができます
過去の経験自体を変える事は誰にもできませんが、過去の経験に対する解釈を変えていく事は誰でも可能で、過去の経験に対する解釈を変えていく事ができれば、過去をやり直したのと同じような事ができるように思います
どんな過去の経験であっても、今の自分が思っている過去は今の自分の解釈によって作られています
もちろん、過去の経験がもとになってはいますが、今の自分が思っている過去は、過去によるものではなく、今の自分の解釈が作りだしているものになります
そうであるならば、仮にやり直したいと思う過去の経験があったら、もしその事をやり直すとしたらどうしたいのか、そして、やり直したらどんな自分になっているのかをイメージする事ができれば、本当に過去をやり直さなくても、過去をやり直したのと同じ効果があるように思います
過去の経験にいくらダメ出ししても、過去は何も変わりません
ダメ出しが有効なのは、未来に対して行っている時だけだと思います
終わった事をあーだこーだ言っていても、何も変わりませんし、何も解決しませんし、何も得るものはありません
それなのに人は、やり直したいと思う程の過去の経験があると、そんな経験をした自分にダメ出しをし続けてしまいます
もしかしたら、そんな経験をした自分を認めたくないからダメ出しをしているのかもしれませんが、過去の自分にダメ出ししている人が、ダメ出ししている自分より良い自分になっていけるとは思いません

自分が自分にダメ出しをしていれば、他の人からダメ出しされても心ダメージが少ないと思って、自己卑下しているのかもしれませんが、その行動は逆に自分の心を傷つけていきます
確かに、過去の出来事を他の人にいじられて嫌な思いをする事もあるかもしれせんが、だからと言って、自分で自分にダメ出ししていても何も解決はしません
人は、自分で自分にダメ出しする事は許せても、他の人からダメ出しされる事は許せないように思います
それは、過去は変える事ができず、過去の経験による汚点はいつまでたっても汚点のままであると思っているからだと思います
過去の汚点を汚点だと思っているのは自分であって、他の人がいくら過去の事をいじってきても、自分がその事にダメ出しをしなければ、その過去は自分の中では汚点になる事はありません
自分から自分にダメ出ししていく事は、何も自分の心を守っていく事にはなっておらず、他の人にダメ出しされるよりも、心のダメージは自分では気付かないうちに深いものになってしまうのでやめましょう
自分にダメ出ししている自分がいたら、ダメ出しをしているダメな自分ではなく、ダメな自分にダメ出ししている自分を自分が許してあげるようにしていきましょう
やり直したいダメな過去の経験を許すのではなく、そんな経験をしてしまった自分をダメ出ししている自分を許してあげましょう
許せないと思っている事をそのまま許す事は難しいですし、許せないと思っている事を無理やり許してしまう事の弊害はとても大きいといえます
許せない事を許す必要はないとは思いますが、許せないと思っていく必要はありません
許せないと思う事でも許せるほうが良いとは思いますが、今の自分ではまだ許す事ができないのに許そうとしていく事は、心に大きな負担を掛けていく事になります
それなのに、すべてを許したほうが良いと思って、許せない事を無理やり許そうとしてしまうから、結局その事を許せなかった自分を自分が許せなくなり、過去をやり直したいと思ってしまいます
確かに過去の経験で許せないと思うような事はあるかもしれませんが、その事を自分が許しても許さなくても、どちらでもその事が何か変わっていく事はありません
自分が許しても許さなくても、過去の経験は何も変わらないのに、自分が許すか許さないかで、過去の経験への自分の解釈は変わってしまいます
自分が許せないと持っている事があるのは、その事が許せないというよりは、その事を許せないと思っている自分を自分が許せないだけのように思います
許してはいけないと思う事も確かにあるとは思いますが、だからといって、その事を許せないと思い続けているのは、その事が許してはいけない事だからではなく、その事に対応できなかった自分を自分が許せないからだと思います
どんなに衝撃的な過去の経験であっても、その経験を前に進んでいくステップにしてく事ができるのか、そこから動かないようにする重石にしてしまうのかは、そんな自分を自分が許す事ができるかどうかで決まっていきます
過去をやり直したいと思っている自分を自分が許していきましょう
自分の事を自分が許す事ができるようになると、許せないと思っていた過去の経験を許すとまでは思えなくても、許さないとも思わないようになっていきます
すぐには、許せないと思っていた事を許す事はできないとは思いますが、許せないと思わないようにしていく事は誰にでもできます
許さないと思わない事は決して、許す事にはなりません
許さないと思わない事は許す事だと思ってしまうから、許せない事をいつまでも許せないと思ってしまうのです
許せないとまでは思わなくなってきたけど、許すともまだ思えない、そうであるならば、許さないと思う事だけやめていきましょう
許さないと思う事をやめたからといって、その事を許した事にはならないという事実をもとに、許す事ができない事を許さないと思っていこうとする自分を、自分が許していきましょう
そうする事で、過去の経験は今の自分が作っている事を実感する事ができると思います

今の自分に許せないと思う事はありますか
自分が自分を許す事は誰にでもできます
それは、自分を「許す」と自分が思えばいいからです
もちろん、社会のルールや道徳に違反した行為は許してはいけません
許してはいけませんが、そんな事をした自分は許しましょう
罪を憎んで人を憎まず、そんな諺もありますが
ダメな行動を許す必要はありませんが
ダメな行動した自分は許していきましょう
ダメな行動はダメですし、ダメな行動を許してはいけません
しかし、ダメな行動した人まで許さない事は
ダメな人が良くなっていく機会を奪う事になってしまい
ダメな行動を良い行動にしていく事ができなくなります
自分が自分を許していくという事は
自分がしたダメな行動を許す事ではなく
ダメな行動を良い行動をしていく為に
ダメな自分を自分が許していく事です
自分が自分を許していく、それができるようになれば
自分からダメな行動はなくなってくると思います

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癒しの心『選択疲れ』

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自分にとって必要な選択をする

情報が多すぎて何を選択して良いのかがわからなくなってしまい、選択疲れを起こしてしまう事があるように思います
選択肢が多すぎて何を選択して良いのかがわからなくなってしまう事は誰にでも経験がある事かもしれませんが、選択疲れを起こしてしまう事の多くは、自分にとって必要な事は何であるかがわかっていない時のような気がします
何を選択して良いのかがわからなくなるのは、その事が自分にとって必要な事か必要ではない事かの情報が乏しいからであり、そんな時に人は選択を間違えて損をしたくないという利己的な思いが心の中に湧きあがってしまいます
損したくないという思いが心の中に湧きあがってくること自体は何も問題はありませんが、その事で選択疲れを起こしていては、本当に自分にとって大事な選択肢を間違えてしまう事に繋がっていきます
人は毎日多くの事を選択していきますが、本当に自分にとって必要な選択をしているかといえば、必ずしもそうとは言えないように思います

すべての選択を無駄がないように行っていくという事ではなく、自分が行っている選択が自分にとって必要な事なのか必要ではない事なのか、或いは、今の所はどちらでもない事なのかを知る事が、情報が多すぎて選択肢が無数にある中から選択していくのに必要な事だと思います
本来は、選択肢が多ければ多いほど、選択していく側にとっては喜ばしい事だとは思います
もちろん、すべての情報を網羅していくには時間が掛かってしまいますし、すべての事にそんなに時間をかけていく事はできませんが、今の自分にとって必要な事は何で、それを理解する為に何が一番のポイントであるのかがわかっていれば、無数にある情報を一から十まで見ていかなくても、自分が選択していくのに必要な情報は手にできると思います
闇雲に自分でも何が良いのか良くわかっていないけど、皆が選択しているからと選択していると、自分が必要かどうかの判断をする事なく、何かを選択してしまう事になってしまいます
自分にとって必要かどうかわからない事を選択していては、そこにある情報を的確に吟味していく事はできません
少しでもその事の必要性が判断できていれば、同じような情報に惑わされる事はなくなるのですが、そこが良くわかっていないと、同じような情報でも違う情報のように見えてしまい、実は同じ情報ばかりで、ただ情報量が多いだけの情報に惑わされてしまう事になります
そこに、損をしたくないという利己的な思いが横やりしてくると人は選択を誤ってしまう事があり、そんな経験が大なり小なりあると人は、選択疲れを起こしてしまうように思います

選択肢が多くて選択できなくなるのは、自分にとってその事が必要なのかそうではないのかを、自分でも理解できていないからです
必要かもしれないけど必要ではないかもしれない、周りが必要だというから必要なように思うけど、実際には大して必要でもないようにも思う、そんな思いで物事を選択していると、情報が多すぎる事によって選択疲れを起こしていきます
周りの人の言葉を自分がどんな選択肢を選んでいくのかの参考にするのは良いのですが、周りが選択しているからという理由で選択肢を選んでいては、選択疲れを起こしていくのもわからなくはありません
確かに、自分が知らない事で周りの人から便利だからと必要性を訴えかけられると、何となく自分にも必要なのかと思ってしまう事もあるかもしれませんし、周りから知らないのと言われてしまうと、尚更そう思ってしまう事もあるかもしれません
しかし、いくら周りがこれ知らないのと言ってきても、自分にとって必要のない事であれば知らなくても問題ありませんし、実際にその事を知らない事による損失があると思わされる事があっても、その情報が自分にとって特に必要ではない事であれば、その情報に時間をかけている行動の方が、その情報を知らないで損をするよりも自分にとっての損失が大きい事もあります
目先の損得だけ見ていれば、便利な事に乗っていた方が良いと思えるかもしれませんが、特に自分に必要ではない事に便乗して目先の利を得ている方が、ただ便利や得という言葉に踊らされて自分の時間を無駄に浪費している事になってしまう事もあります
選択する事に疲れてしまうのは、選択しなくていい事が自分でわかっていないからです、これをしていないと損する、得するという情報に踊らされて、自分で選択する事ができなくなっているように思います
周りの意見を何も聞かない事は良くないとは思いますが、周りの意見を聞きすぎる事も良くないとは思います
どうしても人は周りの事が気になってしまい、他の人が良いという事は自分にも良いのではないかと思ってしまい、周りが良いという事を選択してしまいます
そして、実際に選択した事が自分にとって良くない事であっても、それを認めてしまったら選択した事が無駄になると思ってしまい、その選択が自分にとって良くはないけど悪くなければ、良かったようにふるまってしまいます
そんな良くも悪くもない選択ばかりしてしまうと人は、今度は選択に失敗したくないと自分に必要な事を理解していくのではなく、無数にある選択肢のすべてを知ろうとして選択疲れを起こしてしまうように思います

選択疲れを起こしてしまう人の口癖は、良くわからないけど、という言葉があるように思います
自分は良くわからないのに、周りが良いよというだけで選択をし続けていては、自分にとって本当に必要な事を理解していく事はできません
選択肢は、自分が何を選択したいかがわかっているから絞っていく事ができるのであって、自分が何を選択するかは、自分が何をしたいのかを自分がわかっていなければできません
自分が何をしたいのかを自分がわかっていて初めて、今の自分に必要な事を理解していく事ができます
自分が何をしたいのかではなく、自分が何をしていれば周りから評価されるのかを意識してしまうから、自分に必要な事を理解しようとしていないのです
自分が何をしたいのかを自分がわかって自分に必要な事を理解していれば、すべての情報を知らなくても選択に迷う事はありません
自分が何をしたいのかが自分の中で明確になっていれば、今の自分に必要な事が何であるかがわかり、それを理解していく事ができるようになります
自分に必要な事を理解していれば、自分に必要な選択肢を探して選択していく事ができるようになります
そこには、選択肢がどれだけあるかなど関係なく、自分に必要な選択肢だけを見つけていけばいいのです
自分に必要な事を理解していると、同じような選択肢に惑わされる事もありませんし、他の人の選択に流されていく事もありません
自分に必要な事を理解していれば、無数にある情報から自分にとって必要な情報を見つける事はそんなに難しい事ではありませんし、周りの人の選択に流されるのではなく、活用してく事ができるようになります
どれを選択して良いのかわからない、そう思う事があるなら、そもそもその事を選択する必要があるのかを考えてみましょう
周りの皆が選択しているのに自分だけ選択しないわけにはいかない、そう思うのであれば選択しても構いませんが、そうであっても、その事は自分にとって選択する必要がある事なのか、選択する必要がある事なら、どうして選択する必要があるのか理解していきましょう
今の社会に、すべての人が便利だと思う新しい事はほとんどないように思います
今のトレンドにあるのは、必要な人もいれば必要でない人もいるものばかりだと思います
自分にとって必要な事は何なのか、それは何故か、その事を自分が理解していく事ができれば、今の社会にある無数の選択肢の中から自分が必要な選択肢を見つける事ができるようになり、選択難民になる事もなくなってくると思います

今の自分は良くわからないと思いながら何かを選択している事がありますか
もしあるなら、あなたの心は選択疲れを起こしているかもしれません
便利かも、得かも、皆が、など、主語に自分がない時の選択には注意が必要です
何を選択して良いのかわからないと思う事があるなら
その事を選択する必要があるかどうかを考えましょう
本当にその事を選択する必要はあるのか
そして、選択しなかったらどうなるのか考えてみて下さい
もし考えて結論が出ない事であれば
その事を選択する必要は今はないといえます
それでも選択しなければいけないと思うなら、選択肢しても構いません
構いませんが、その選択の結果で損をしたと思っても気にしないようにしましょう
あっちの選択にすれば良かったと思ってしまうと
あなたの心は選択疲れを起こしてしまい、選択難民になってしまいます
自分は何をしたいのか
そして、その為には何が必要なのか
それが自分で理解していく事ができた時に
社会にある無数の選択肢は
自分の人生を幸せにしてくれる、宝物に見えてきます

癒しの心『自分と会話をする』

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自分の事をわかっていますか

自分の事は自分が一番わかっている、確かにそうですが、自分の事を一番わかっていないのも自分のような気がします
自分の事であるならば、本人である自分がすべてを知る事ができるので、自分の事で自分が知らないという事はありません
自分のすべてを知る事ができるから自分の事をわかっていると思うのかもしれませんが、知る事ができるからといって自分の事がわかっている事になるかというと、それはまた別の問題になります
知っている事をわかっていると思ってしまうのは、物事にある本質を理解しているとはいえません
その事を知っていても、なぜそうなるのかが理解していなければ、知っている事がわかっている事にはなりません
しかし、自分の事だと知ろうとしなくても知る事ができるので、知っている事とわかっている事の違いに気づきにくいのかもしれません
知る事ができないことがあれば気づく事ができるのに、すべてを知る事ができるという特殊な状況が、知っている事とわかっている事の違いをわからなくしているように思います
人は、わからないと思う事があれば、その事を知ろうとしていくとは思いますが、わかっていると思ってしまうと、その事を知ろうとしてく事はありません
知る事ができないことがあるからわからない事があり、わからないと思うから知らない事に気づく事ができ、知らない事に気づく事ができるから、知らない事をわかろうと理解していくようになると思います
もし、すべて知る事ができる、そう思う事があったとしたら、その事でわからないと思う事はなく、わからないと思わなければ、それ以上その事を知りたいとも思う事はなく、ちゃんと理解するまでわかっていこうとする事もありません
わかっているという事を知っているという事だけで終わらせてしまうのか、もっと知りたいと思って、その事を理解していこうとしていく事なのか、どちらかになるかは、その事に自分が知らない事がどれだけあるかによって変わってくるように思います

自分はどんな自分だろうか、そう改めて考えてみた時に、どんな自分であるかをイメージできる人は少ないのかもしれません
どんな自分なのか、自分の良い所はどこで、ダメな所はどこなのか、そう考えた時に、こうですとハッキリ言える人の方が少ないように思います
しかし、どんな自分かをハッキリ言える、或いは、イメージできる事と、自分の事を理解しているかは必ずしも同じであるとは限りません
どんな自分かを明確に答えられる人の中には、自分の事を理解しているのではなく、他の人が理解しやすい自分を答えているだけの事があるからです
こんな自分だと言えば周りは自分の事を理解してくれるはずだと思って、自分が知る事ができる自分を知らない事にして、自分の思いとは全く違う自分を答えていきます
どんな自分かを明確に答える事ができる人の中にも自分の事を理解している人はもちろんいますが、自分を理解していると思い込んでいる、或いは、思い込まされているだけの人も多々います
自分を理解するという事は、自分の事を明確に説明できる人の事ではなく、自分で自分の事を理解していこうとしている人の事をいいます
自分を理解していると思う事ではなく、自分の事を理解していこうと思っていく人が、自分の事を理解している人だといえます
自分の事は、自分が知りたくないと思っていても、自分の心では知ってしまいます
自分の事を理解していると思っていると、今の自分が理解したくない自分を知らされる事があると、そんな自分を知る事をやめてしまい、今の自分とは別の自分を自分だと思い込むようになってしまいます
知る事ができることをやめてしまうのは、知らなければ違う自分になれると思っているからかもしれませんが、自分が知ろうが知りまいが自分は自分であって、周りに見られたい自分が自分である事はありませんし、それは自分の事をわかっているとはいえません
自分の事をわかる事ができるのは、自分を理解していると思う事ではなく、理解しようと思っていけるかいけないかがポイントになります
それは、他の人の事であっても同じで、他の人の事がわかるという事は、その人の事を理解していると思う事ではなく、その人の事を理解していこうと思っていく事をいいます
他の人の事であれば、理解していこうと思う事と理解していると思う事は同じ行動になるかもしれませんが、自分の事に関してはそうなるとは限りません
他の人の事であれば、自分が何をしなくてもすべてを知る事ができるわけではないので、その人を理解していくには、知らない事を知って理解していく事が必要になるからです
しかし自分の場合は、知らない事は初めからないので、知らない事を知って理解していくという事はなく、知っているから理解しなくていいになってしまうと、自分の事をわかっているようでわかっていない自分になってしまいます
他の人の事がわかるというのは、その人のすべての事を知っているからわかっている事を言うのではなく、知っていようがいまいが、何があってもその人の事を理解しようとしていくから、その人の事をわかっていく事ができ、それは自分に対しても同じだと思います

自分の事を理解しようとし続けていくには、自分が自分と会話していく事が有効だと思います
他の人の事を理解していくのに、他の人と会話していく事が一番有効なのと同じように、自分が自分と会話していくのが、自分を理解していくにも一番の方法だと思います
自分はどんな自分なのか、そして何をしていきたくて、何をしていきたくないのか、そんな事を自分に問いかけてみましょう
何ができるかできないかではなく、どんな良い所やダメな所があるかでもなく、何に優れていて何が劣っているかも関係なく、これから自分はどうなっていきたいかを考えてみましょう
今の自分ができる事で考えるのではなく、周りから見られたい自分を考えるのではなく、純粋に今の自分がしてみたい事は何か、なってみたい自分はどんな自分かを考えていきましょう
その事を考えていく事が、自分が自分と会話している事になっていきます
してみたい事やなってみたい自分が考えられない、そう思う人がいたなら、絶対にしたくない事や絶対になりたくない自分をまずは考えてみて下さい
ただのしたくない事やなりたくない自分ではなく、必ず「絶対」という言葉を前に付けて考えてみましょう
してみたい事やなってみたい自分が浮かばない人は、絶対にしたくない事やなりたくない自分がわかると、してみたい事やなってみたい自分が少しづつ見えてくるようになってきます
何かをできないと思ってしまうのは、その事ができるどうかわからないからですが、してみたい事やなりたい自分は、できるからそう思うのではなく、そうしていきたいと思うからそう思う事ができます
物事ができるかできないかは、よほど特殊な事でなければ、その事ができるまで続けていけばできるようになります
今の知る事ができる事だけで自分をわかっていると思っていては、できるかどうかわからない事をやってみようとは思いません
しかし、今の知る事ができる自分を理解していこうと思い続けていけば、今できるどうかに目がいくのではなく、その事をしていくには、なりたい自分になるには何をしたらいいのか、そんなこれからの自分の可能性に目を向けていくようになっていきます
こうしたい、こうなりたいという思いは誰にもあります
それらの思いを、今の自分が知っている自分だけで自分をわかっていると思ってできないとするのか、今の自分が知っている自分を理解していこうとして、今の自分ができないと思う事でもできるようにしていくのか、どちらの行動しているかで自分で自分の事をわかっているのか、わかっているつもりなのかがわかります

あなたは、今の自分を理解していますか
こんな事ができる、こんな良い所があるなど
自分をアピールする事ができるのと
自分が自分の事を理解しているのとは少し違います
自分をアピールしているだけでは
それは、自分の事がわかっているのではなく
他の人にわかってもらいやすい自分を演じようとしているだけです
わざと演じているのであれば、それでも良いのですが
演じている自分を本当の自分だと思っているならば
それは自分の事をわかろうとしていない自分になっています
自分の事をわかろうとしていない人が
自分の事をわかるようになる事は永遠にありません
もし、今の自分にそんな状態があるなら
自分ってどんな人なんだろう
どうしてそう思うのだろう
なぜそう感じるのだろう
自分ってこんな所あるようね、などなど
自分で自分の事を見つめ直して
自分と会話してみましょう
そうする事で、自分を理解しようと思う事ができ
自分を理解しよと思い続ける事で
自分の事がわからないという思いはなくなります

癒しの心『パートナーシップ』

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相手を尊重する気持ち

パートナーとは協力者や仲間、相棒といった意味になります
仕事のパートナー、趣味のパートナー、人生のパートナーなど、パートナーを組む関係は色々あると思いますが、自分以外の人と協力し合うと言う意味では同じだと思います
他の人と共に何かを行っていくには、自分だけではなく相手の事も考えていく必要があります
そうでなければパートナーシップは成立しません
自分の事だけ考えて相手の事を考えていない関係は、パートナーシップだとはいえません
相手に「そうだよね」と半ば強引に同意を得るような、相手の事を考えずに自分の事だけ考えている関係は、パートナーシップとはいえません
また逆に、自分の事は考えずに相手の事ばかり考えているのもパートナーシップではなく、ただの依存関係だと思います
パートナーシップの中でも、人生のパートナーシップを組んでいく事が一番難しいのではないでしょうか
それは、結婚して家族を形成していくのは、ある特定の事だけ協力するのではなく、自分や相手のすべてに関して協力し合う必要があり、お互いが日々協力しながら、共に人生を歩んでいく必要があるからだと思います
人生のパートナーシップにおいて他のパートナーシップと違うのは、相手に対する思いだと思います
そこにあるのは、好きという気持ちと、恋という気持ちと、愛という気持ちがあるのだと思います
好きという気持ちは、人生のパートナーに対してだけではなく、他のパートナーシップでも持つものだと思います
恋という気持ちは、これから人生のパートナーになるかもしれない人に思う気持ちだと思います
愛という気持ちは、人生のパートナーシップを組んでいくには欠かせない気持ちだと思うのです
好きや恋は、自分の思いの中にあるもので、基本的に相手がどう思っているかはあまり関係ありません
しかし、愛という気持ちは、自分の思いだけでなく、相手の思いを受け入れていく必要があります
好きや恋は、相手の良い所だけ見ていれば良いですが、愛は、相手の良い所もダメな所も見て、そして、受け入れる事ができて初めて愛になっていきます
好きや恋が愛になるには、自分が愛せる相手だけを受け入れるのではなく、自分が愛する相手のすべてを受け入れていく必要があります
好きや恋の内は、自分が受け入れたい事だけ受け入れていても、そんなに問題は起こらないのはまだ人生のパートナーシップになっていないからです
人生のパートナーシップには愛が必要であるといえ、好きや恋を愛にしていく事ができるかどうかが大きなポイントになっていきます

好きは、その瞬間に思う事で、時間や環境、状況などが変われば、何を好きだと思うかは変わってきます
恋は、特別に好きな人ができた時に持つものですが、それは一時的なもので、特別に好きな人とパートナーシップを組むまでの、心のモチベーションをあげる為のカンフル剤のようなものだといえます
恋する気持ちがあるから、好きな人の事をもっと知りたいと思うようになり、もっと知る事でパートナシップが組めるかどかがわかってきます
恋する相手とパートナーを組んでいくには、自分の気持ちを恋から愛に進化させていく必要があります
恋は自動的に愛に進化していくものはではないので、自分で進化させていく必要があります
それなのに多くの人は、恋から愛に自動的に進化するものだと思っているから、いつまでたっても恋がしたいと、恋にあるカンフル剤の力によってパートナシップを継続していこうとしていきます
恋のカンフル剤はあくまで、人生のパートナシップを組むまでのものに過ぎません
恋にあるカンフル剤はあくまでもカンフル剤なので、その内に効果はなくなります
だからと言って、恋にあるカンフル剤が欲しいとパートナーとは別の人に恋にあるカンフル剤を求めていっても、それは他の人とパートナーシップを組むためのカンフル剤であって、今の人生のパートナーとのカンフル剤にはなりません
好きや恋は、自分が意識しなくても感じるものですが、愛は感じるものではなく、自分が意識して育んでいくものです
恋する相手を人生のパートナーかもと思った時に芽生えた愛を愛だと思ってしまうから、愛が育まれる事はなく、恋にあるカンフル剤の効果が切れてきたら愛がなくなったように思ってしまうのです
そんな心に初めから愛はなく、愛は感じるものでも、もらうものでもなく、育んでいくものになります
愛が育むものであるならば、自分が育むと意識しなければ、そこに愛は存在していません
好きや恋しかない関係は、人生のパートナーシップとはいえず、その関係は、友達でもなく、ただの知り合いでしかありません
ただの知り合いを人生のパートナーだと思っているから、ある日突然、パートナーの言動全てが許せなくなり、別れた後の関係も最悪なってしまうのだと思います
好きだけであれば、その人を嫌いになる事はありますが、愛していたのであれば嫌いになる事はなく、愛した相手をそこまで嫌いになれるのは、そこにあったのは愛ではなく、ただ恋に恋した自分がいただけだと思います

今のあなたは、自分の大事な人に対して、どんな気持ちがありますか
人生のパートナーであるならば、その人のすべてを受け入れて愛する事ができているはずです
好きの内は相手の嫌いな所は受け入れない、恋する内は嫌いな所に気づかないようにする、しかし、愛になるには嫌いな所も受け入れていく事がひつようになります
好きだから恋になって、恋から愛にする事ができた時に、真のパートナーシップになっていくのだと思います
好きから恋は自分が意識しなくても自動的になりますが、恋から愛にするには自分が意識しないとなりません
何も意識しないで恋を愛だと思えるのは、自分で自分を愛していない自己愛の足りない人だと思います
自分で自分を愛していない人は、誰かの愛で自分への愛を埋めようとして、自分の心を自愛でなく他愛で満たして溺れていきます
他愛に溺れていく人は、自分は相手の事を考えているのに、相手は自分の事を考えてくれていないと思うようになってしまいます
相手が自分の事を考えてくれないのは、自分が相手の事を考えていないからです
そんな事はない、自分は相手の事を考えている、そう思うかもあるかもしれませんが、それは、自分が考えたい相手の事を考えているに過ぎません
自分が許容できる事や賛同できる事の範囲で相手の事を考えるけど、そうでない事は考えない、そんな状態だと思うのです
自分が考えたい範囲だけで考えていては、相手の事を考えているとはいえません
相手に自分の事を考えていないと思う時は、自分のすべての事が対象になっているのに、自分が相手の事を考えているという時は、相手のすべての事が対象にならないのはフェアではありません
相手の事を考えるのであれば、相手の嫌な所もすべて含めて考える、自分はしないかもしれないが相手ならするかもしれない、そう考える事が相手の事を考えることだと思います
自分の事をちゃんと考えて欲しいなら、自分の都合がいい相手の事を考えるのではなく、まずは相手の長所も短所も踏まえて、相手の事を考えていく姿勢が大事だと思います

しかし人は、相手の事を考えているつもりが、自分の事だけを考えてしまう事があるように思います
相手の事を考えているつもりでも、相手にとっては単なる押付けにしか思えない事もあるように思います
基本的に人は、自分の事をまずが考えます
その事自体は何も問題はないのですが、問題なのは、相手の事を考えているつもりで自分の事だけを考えてしまう事です
相手の事を考えるには、まずは自分の事を考えた方が良いとは思います
自分の事を考えるとは、自分の周り全体を見て、自分は何をしていくかを考える事であり、決して自分の事だけ考えていく事ではありません
自分の事を考える事で、相手に何ができるのか、自分はこう思うが相手はどう思うのか、など、自分と相手の思いをそれぞれ別々に考える事ができるようになります
しかし、自分の事を考えないで、自分の事だけ考えて相手の事を考えてしまうと、相手がどう思っているかばかり気になってしまい、ありもしない妄想に駆られたり,相手の事を考えているようで、ただ相手の立場で自分がやりたい事を考えているだけになってしまいます
人は自分の事をまずは考えます、であるなら、パートナーシップにおいてもまずは自分の事を考えた方が良いと思います
自分はどうしていきたいかを自分の中でしっかりと考えていく中で、相手の事も考えていく事が、お互いを尊重できる考え方だと思うのです
対人関係において、相手に自分が思った事を一方的に伝えて相手に折れてもらう事は、自分の事を考えている事ではなく、自分の事だけ考えている事になります
或いは、相手の言う事に自分が折れているばかりいる事も、相手の事を考えているのではなく、自分の事だけ考えている事になります
相手の事を考えるという事は、まずは自分の事を考え、その中で相手の事を考え、そして、お互いがの気持ちを尊重しながら、どうしていく事が一番いいのかを考える事だと思うのです

今のあなたの心に、愛はありますか
愛は誰かが与えてくれるものではなく
自分が育んでいくものです
誰かを愛するという事は
相手の全てを受け入れていく必要があります
どうやって相手の全てを受け入れていけばいいのか
そう思う事があったら
まずは、自分が自分の全て受け入れていきましょう
そして、自分に対して愛を育んでいくようにしていきましょう
これまでの恋の結果が良くないものになっているなら
その恋が愛に進化できていなかった事を表しています
恋から愛に進化できなかったのは
自分が自分の事を愛していないからです
自分に愛を向けてみましょう
自分で自分を愛してみようと思う事で
自分の心にある本当の自分の思いがわかってきます
自分の心にある本当の思いと向き合って
そんな思いのある自分を自分が愛する事ができれば
恋を愛に進化させる事は自然とできるようになっていきます

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癒しの心『事実を見る』

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事実のみを見て受け入れる

自分に起こっている事の事実を見る事ができていますか
目の前にある事が受け入れられないからと言って、そこにある事実を見ないようにしていても、そこにある事実が変わる事はありません
そこにある見たくない事実を見ないようにしていれば、その事を自分が受け入れる事ができる、そう思って自分が見たくない事実を見ないようにしても、自分がその事を受け入れた事にはなっていません
或いは、自分が見たい事実だけを見て、そこにある事実の全てを見ていると思って、そこにある事を受け入れていると思ってしまうと、自分の人生に大きなお問題が生じてきます
事実は事実です、事実が自分にとって良いのか悪いのか、正しいのか正しくないのかは、その事実を受け入れていく為には何も関係がありません
ただそこに何があるのか、その事を知る事が事実を受け入れる事であって、その事実を自分が受け入れる事ができなければ、その事に対して適切な対処をしていく事ができません
事実を事実として見る事ができれば、その事実が、良い悪い、正しい正しくないに関係なく、その事実に対して自分が何をしていけばいいのかがわかります
そこにある事実を自分がそのまま見て、受け入れて、対処しようとするから、そこにあるのが現実であって、真実になるのです
それなのに、事実を見ず、受け入れず、対処しようとしないで他に頼っているから、事実を他実にしてしまうのです
或いは、自分が見たいように事実を見て、受け入れ、対処してようとしているから、事実を自実にしてしまうのです
事実を事実のまま見ていく事ができないと、事実を自分の都合の良いように歪めた、他実や自実を事実だと思うようになっていきます

事実を他実にしてしまう人は、事実をそのまま見る事ができません
もちろん、自分にある事実を見ないようにしたからと言って、その事実がなくなる事はありません
なので、事実を他実にしてしまう人は、見ないようにしている事実を他の人に頼る事で対処していこうとしていきます
自分では見ることができない事実を他の人に見てもらい、自分が受け入れられるような事実になるように他の人にしてもらおうとしていきます
他の人に自分が見れる事実にしてもらう事で、その事実を受け入れたと思っていっても、それは事実を受け入れたのではなく、他実を受け入れただけになります
事実を他実にしてしまうと、物事の現実や真実は、幻実や願実になっていってしまいます
他実による現実は、今そこにある現実ではなく、他実による幻想によって見ている幻実で、他実による真実は、自分が意志でではなく、他の意志に頼って「こうだといいな」と願っているだけの願実になります
事実を他実にしていく事は、自分にある現実や真実を、他の人に頼る事で捻じ曲げて見ていこうとしているだけにすぎません
更に、事実を自実にしてしまうと、自分の都合の悪い事は見ない、自分の都合の良い事だけ見ていくようにしていきます
もちろん、勝手に自分の都合の良いように見ているだけなので、その事で事実が変わる事はありません
なので、事実を自実にしてしまう人は、どんな事があっても自分の都合の良いように物事を解釈していくようになります
何があっても、自分は悪くない相手が悪い、と他のせいにしたり、自分は正しい、と自分を正当化したりしていきます
事実を自実にしてしまうと、物事の現実や真実は、妄実や欲実になってしまいます
自実による現実は、自分の妄想によって見えている妄実で、自実による真実は、自分がただ欲している事だけを見ようとしている欲実になります
事実を自実にしていく事は、自分にある現実や真実を、自分勝手でわがままなである利己的な思いで見ていこうとしていく事になっていきます

現実が現実であり、真実が真実であるには、事実がもとになっている必要があります
事実は事実です、自分が、知りたくない、認めたくない、受け入れたくない、と思って、見ようとしない、或いは、見たいように見る、そんな事を自分がしていても、事実は事実でしかありません
事実を事実として見ようとしていない人が、自分のすべてを受け入れる必要あるからといって、目の前にある事実を、他実や自実にしていては、自分のすべてを受け入れている事にはなりませんし、そこには現実や真実もありません
事実をそのまま見る事ができなくなる人は、ある意味、根は正直で素直な人なのかもしれません
事実をそのまま見たら、ダメな自分、できていない自分、怠慢な自分がわかってしまう、そんな自分ではいけない、そう、今のダメな自分ではいけない事がわかっているからです
ダメな自分ではいけない事が自分でわかっているということは、ダメでない自分にしていく事も自分でしていけると言えます
ダメな自分ではいけないとわかっていない人が、ダメでない自分になっていこうとしていく事は絶対にないからです
自分にある事実を事実として見ようとしない人は、物事をできる、できないだけで判断しているように思います
それはそうでしょう、そう思うかもしれせんが、物事をできる、できないだけ判断してしまう人は、できる10かできない0で物事を判断しているように思うのです
10できていない事は全部できない0である、そう思ってしまうから、自分にある事実を見たくないと思ってしまうのです

人生において、全てが順調に進んでいく事はないと思います
中々前に進むことができない事もありますし、時には、後退してしまう事もあります
事実を事実として見れなくなってしまう人は、順風満帆に人生が進んでいる時は、事実を事実として見る事が出来ますが、どこかで障害となる事が出たり、困難な事が起こったりして、自分の思っている通りに進む事ができなくなると、事実から目を背けていくようになってしまうように思います
どんな障害があっても、どんな困難な事が起こっても、前進していこうとする気持ちがあれば、事実を事実として見る事ができ、事実を事実として見る事ができれば、例え後退している事があっても、その人の人生は雨に進んでいるといえます
逆に、ちょっとでも進みが遅くなっている事を気にして、そんな自分はダメだ、自分はもっとできるはず、などと思って、事実を見ようとしなくなる人が前に進んでいく事はできません
できる10は、できる1の積み重ねによって10になります
できる1は、できない-1を一つ一つクリアして0にする事で手にする事ができます
自分の人生においては、できない0の自分ができる1を積み重ねていく事で、初めてできる10の自分になる事ができるものです
できる10の自分になるには、できない0の自分にある事実を事実として見ていく必要があります
できる10自分でなければ見る価値がない、できる10自分だけ見ていればできるようになる、そんな勘違いをしているから、いつまでたっても、できるでもない、できないでもない、どちらでもない中途半端な自分になってしまうのです
周りから見たら、昨日と同じ1しかできていない状態かもしれせんが、前に進む気持ちがあれば、その1は、昨日と同じ1ではなく、その1は、1.1、或いは、1.01になっています
誰でも、物事が順調にできている時は、自分にある事実を事実として見る事ができますが、それは、順調だから見れるのではなく、自分が何をしていきたいかが明確になっている志望があるから見れるのです
自分がこれをしていくと、志望によって何をしていきかが明確になっている時は、途中で障害や困難な事があって停滞したり後退したとしても、自分は前進していると心の中で思っているので、事実を事実として見る事に何も抵抗を感じていないだけです
自分にある事実を見る事ができないのは、自分が何をしていきたいかが明確になっていないからだと思います
自分は何をしていきたいのか、その為には何をしていくのが良いのか、そんな自分の志望が明確になれば、事実を事実として見ていく事ができるようになります

自分にある事を事実として見る事ができていますか
見たくないと他実にして、現実や真実を、幻実や願実にする
見たい事だけ見ると自実にして、現実や真実を、妄実や欲実にしている
そんな自分がいたりしていませんか
どんなに受け入れたくない事であったとしても
他実や自実にしていては、前に進む事はできません
事実を他実や自実にしても、事実が事実である事は変わりません
その事を自分がどう思おうが、事実は事実のままです
その事に気づくことができれば
あなたの人生は、どんな困難な事があっても前に進んでいけます
この前はできなかったけど、今回は上手くできたなど
一喜一憂してしまう事があってもいいです
自分にある事実を事実として見ていくようにしていきましょう
その事実で周りが自分をどう思うかではなく
事実を自分がどう思うかが大事になります
そこに何があるのか
物事に対する周りの評価を見るのではなく
物事に対する事実だけを見る
それができると、常に前に進んでいく事ができます

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癒しの心『わかっているけどできない』

癒しの心 カウンセリング

何事も理解しないとできる事はない

わかっているけどできない、と思う事はありますか
わかっているけどできないと思った事のある人は、意外と多いように思います
その時の気持ちはわかるような気もしますが、わかっているけどできないは、その時の状況を正確に表している言葉だとは思いません
わかっているならその事はできます、それなのに、その事ができないと言うのには矛盾があります
わかっているけどできないではなく、わかっているけどやりたくないであるなら、矛盾はありません
逆に、その事をわかっていないのであれば、わからないからできない、なので、その事ができない事は理解できます
わかっているけどできない、その事には矛盾がある、そう理解して、対外的に使っているだけであるならば、まだ問題はないかもしれませんが、自分の心の中でも、わかっているけどできない事があると思ってしまうのは問題があるように思います
わかっているけどできないという事を、そういう事もあるよね、表向きに同調しているだけなら良いですが、みんなが同調しているからと言って、自分の心の中でも、そういう事はあるかもと思ってしまう事は、後々自分の行動にマイナスの影響を及ぼす事になってしまいます
人はどうして、わかっているけどできない、という言葉を「そうだね」と受け入れてしまう事があるのでしょうか
そこには、わかっているという言葉の解釈に問題があるように思います
わかっているは、言葉の意味としては、その事の内容をわかっている、つまり理解しているという事だと思います
その事を理解しているという事は、その事ができるという事を意味していると思いますが、それなのに、できないという事が成立するのは、わかっていると思ったけど、やってみたらわかっていなかったからできなかった、そういう時だと思います
そこまで言うのは長いから、短くしてわかっているけどできないにした、というのであれば、それは。わかっているけどではなく、わかっていたけどと、過去形にする必要があるように思います
しかし、わかっているけどできない、という人のほとんどは、そうではないように思います
わかっているはずだけどできない、自分はちゃんと理解してわかっているけど、自分ではどうしようもない理由があってできない、そう思っているように思います
できていない事には理由があります、その理由が本当にわかっているならば、わかっているけどできないではなく、この理由があるからできないと言うはずです
それが自分でも対応できないものであるなら、それが何であるかはわかっているはずです
それがわかっていなければ、その事が自分が対応できない事であるかどうかを、自分が判断すること自体ができないからです
わかっているけどできないという時の、わかっているという言葉には、そのわかっている事が、自分が受け入れられるか、受け入れられないか、そんな違いがあるように思います

人は、自分ができないと思う事を行う事はできません
いつでも、どんな時でも、人は、自分が決めた事しか行動しませんので、できない、と決めている人が、できる行動をする事はないのです
本当はわかっていない事なのにわかっていると言い張る人は、別の問題がありますが、自分ではわかっているつもりだと思っている人は、わかっている内容の対象がちょっとずれている人だと思います
その人にとってわかっていると思っている内容が、その事をわかっていると言うには不十分な内容なのに、その事をわかっていると自分では思っている状態のように思います
そこには、わかっていると理解しているとの違いがあるように思います
わかっていると理解しているは、言葉の意味としては同じ意味を指しているとは思います
しかし、その事のどの部分を把握しているかを見たときには、意味の違いが出てくるように思います
わかっている場合は、その事を主観的に自分がわかっている、つまり、自分から見た解釈で把握できている事を表すときに、わかっている、という言葉になると思います
理解している場合は、その事を客観的に自分が理解している、つまり、自分の解釈ではなく、第3者にも説明できるくらい、事実による解釈で把握できている事を表している言葉だと思います
主観的にわかったのか、客観的に理解しているのか、その違いが、二つの言葉にはあるように思います
人は、わかってるけどできない、とは言いますが、理解しているけどできない、とはあまり言わないように思うのです
何であっても、その事をできるようになるには、その事を理解している必要があると思います
もし今、わかっているけどできない、そう思う事があるならば
それは、あなた自身はわかっていると思っているかもしれませんが、その事の全貌は理解していないと言えます
いや、そんな事はない、ちゃんとわかっているし理解もしている、そう思っていても、本当にわかっているのであればその事はできますし、もしできないのであれば、わかっているけどできないと言うのではなく、できない理由を上げていくのだと思います
わかっているけどできないは、できない理由は自分でもわかっている、でもそれは言いたくない、そんな時に使う言葉かもしれません
周りから、こうすればいいじゃん、と言われる、そんなのわかっているけどできない、自分でもそれをできない理由はわかっている、その理由は、他の人にとっては何でもない事かもしれないが、自分にとっては大変である
でもその事を周りに言ったら自分はダメな奴だと思われる、そんな事はただのワガママだ、そう思われてしまう、そんな思いがあるのかもしれません
その事ができない理由は、人それぞれだと思います
確かに周りから見たら馬鹿にされそうな理由だと思う事もあるかもしれません
そんな状況の時には、わかっているけどできない、と周りにいう事もあるかもしれません
でも、自分の心の中までも、わかっているけどできないとしてしまうのは、いけません
周りをごまかしても、自分が自分の心をごまかしていくのはよくありません
自分が自分の心をごまかしてしまうと、自分の周りにある事実をありのまま見る事ができなくなってしまうからです

わかっているけどできないと思うのは、その事が自分ができないと自分が認めたくないと思っているからです
自分が認めることができる、自分ではできない、或いは、やりたくないと思っている事であるならば、わかっているけどできないなどといって、周りをごまかそうとはしないと思います
わかっているけどできないと思う事は、自分でもできなくない事ではあるが、できればやりたくはない、どうすればできるかはわかるけど、それはやりたくない、そんな時だと思うのです
しかし、その事をそんな風に思ってしまうのは、その事を理解できていないからだと思います
自分ではわかっていると思っているけど、まだ理解できていない事がある事を表していると思うのです
そこには、自分では見たくない事実があるのかもしれません
そんな事実は見たくない、受け入れることができない、そんな思いがあるように思います
その事を理解するには、その事にある事実をありのまま見て、受け入れなければ、その事を理解していくことはできません
しかし人は、その事に自分が受けれたくない事実あると、全てを受け入れていないのに、わかったとしてしまうのだと思います
そんな時に、わかっているけどできない、という事態が起こってしまうように思います
わかっているけどできない、そんな時には、その事で自分が目を背けて理解しようとしていない事実がどこかにある、そう思って下さい
もし、どうしても事実をありのまま受け入れる事ができないと思ってしまうなら、そこにある事実を受け入れるか受け入れないかは置いといて、認識する事から始めてみましょう
事実をありのまま認識することができれば、受け入れる事ができなくても、その事の対処法は見えてくるはずです
わかっているけどできない状態は、できることにも、できない事にもなっていきません
ずっとあなたの心の中で、どっちつかずのまま、漂っていきます
そのまま漂わせていたいのであれば、それでも構いませんが、そうではないのであれば、わかっているから理解するにしていきましょう
その事を行うか、行わないかは、一旦置いといて
徹底的に、その事を客観的に理解していくようにしましょう
どうしても理解できない、そう思ってしまうなら、その事を認識していくようにしましょう
自分は理解できないけど、現実にそういう事実がある、そう認識していくのです
そんな事もあるんだね、と認識した事実だけを受け入れていくのです
そうすれば、その事をできるようにしたほうが良いのか、できなくても問題がないのかがわかってきます

今のあなたに、わかっているけどできない、という事はありますか
もしあるならば、その事を理解していきましょう
どうして、何故だ、と疑問をぶつけていくのではなく
どういう事なのか、何故そうなのか、と問いかけていく
そうする事で、理解は深まっていきます
その事を、良い悪いで判断する必要はありません
法律や規則、ルールで決まっていない事を良い悪いで判断しても
物事を理解していく上では、何の役にも立ちません
物事を理解していく上で大切なのは
事実を見て、それをただ受け入れる事です
現実は客観的で真実は主観的ですが
事実はどちらでもなく、ただ事実なだけです
ただの事実を見ていけば
どんな困難な問題でも答えは見つかるはずです
これってどうしてだろう
そんな素朴な問いを理解していく事が
わかっているけどできない事を
できる事にしていける一歩だと思います

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癒しの心『惑わされる心』

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嘘によって事実を知ろうとしない悲劇

ネットではフェイクニュースが花盛りです
災害時に、フェイクニュースが善意ある人によって拡散していくのは、本当に悲しい事だと思います
これまでのフェイクニュースは、「これって本当?」と思うようなものが多かったように思いますが、最近は情報元を信頼できる機関にして信憑性を高めようとする、捻じれた承認欲求があるように思います
自分が作った嘘で多くの人が信じて拡散してくれる事で、自分の承認欲求を満たそうとしているのかもしれせん
そこには、自分は多くの人が信じてしまう嘘を創る事ができるとして、優越感に浸っているかのようにも見えます
普段の社会生活では認めてもらえない、でも自分は他の人より優れているはずだ
そんな満たされない欲求のはけ口が、フェイクニュースに限らず、ネットの社会には多く存在しているように思います
しかし、嘘や空想、或いは幻想の世界で活躍しても、現実の世界では何の役にも立たない事は、本人が一番わかっているように思うのです
災害時における情報収集は、検索サイトやソーシャルメディアのトップページにNHKのHPのリンクを貼れば良いように思います
何もNHKでなくても良いのですが、災害時の情報を一つの機関にまとめる事で、災害譲歩はここを見て、そこに載っていない情報は真贋を確認していくようにするだけで、フェイクニュースの被害は少なくなるように思います
フェイクニュースを拡散させて面白がるのはどうかと思いますが、世界ではお金を稼ぐ目的でフェイクニュースが横行しているようです
そうなると、良い悪いという観点が根底から崩れてしまいます
そこには、自分は小説を書くかのように、人が興味を持ちそうなフィクションニュースを創作しているだけで、嘘を信じる方がいけない、という考え方があるようです
確かに、情報の真贋も解らない状態で、フェイクニュースが話題になるのはどうかと思います
これには、ネット上における広告収入の問題が大きく関係している事は間違いありません
何でもかんでも規制しろとは言いませんが、フェイクニュースに貼られたバナー広告に広告費を払わないようにする対策は必要な気がします
ネット関連の会社は、自分が損する事に関しての対応は早いのですが、他が損する事には対応が遅いのが気になります

フェイクニュースは何もネット社会になってから出てきたものではないと思います
ネットが無い時から、噂話としてフェイクニュースは誰もが耳にしていたものだと思います
実はあの人って~らしいよ、と誰から聞くと、そうなんだ、と結構信じてしまう人は今でも多いように思います
特に何の根拠もないのに、そう思ってしまうことは多いように思うのです
ただの噂話の内は問題ないのですが、嘘が嘘を呼び、嘘が横行してくると、ただの噂話が真実として独り歩きしていく事も多々あります
噂話のほとんどは、嘘でも本当でもどちらでもいいものが多いのですが、時に、人間関係に大きく作用してしまうものもあります
自分が良く見られたいという気持ちでつく嘘が、時には相手を貶める事でその欲求を見たそうとしていく事があると思います
ただ嘘をついている人だと、ほとんどが嘘ばかりなので、その内その人の言う事を信じる人は誰もいなくなります
嘘をつく人の心の中にあるのは、自分をわかって欲しいという思いがあるように思います
嘘の中には、どこか理想の自分であればできることが混じっているように思うのです
嘘ばかりつく事はいけませんが、そんな人は、心の歪みから表現方法が間違っているだけで、本当は純粋で素直な人なのかもしれません
一番たちの悪い嘘つきは、所々に真実を散りばめてくる人です
話の中の真髄とは関係ない所に本当の事を散りばめ、肝心なところは嘘ばっかりな人です
物事は肝心なところが人にはわかりづらく真贋が付きにくいものです
そこに付け込んで、もっともらしい嘘をついて人を惑わしていくのです
もちろん、もっともらしい事を言っても嘘は嘘なので、いつかはわかってしまうのですが、その嘘自体がその後に大きく影響してしまうのです
一番多いのは、嘘をつかれた事で人間不信になり、誰の言っている事が真実なのか知ろうとしなくなる人です
人は、誰かに嘘をつかれると、この人も嘘をついているのではないかと思うようになります
冷静に考えれば、そんな大きな嘘をつく人はほんの一握りなのに、一つの嘘によって真実を見究める事ができなくなります

嘘を並べて、人を疑心暗鬼にしていくのはいけませんが、嘘で混乱して、真実を知ろうとする事をやめてしまうのも問題だと思います
もう何も聞きたくないとして、真実に必要な事実を知ろうとする事をやめてしまうのです
嘘で惑わせれてしまい、何が事実であるかを聞く事をやめて、もう関わらない事で自分を守ろうとしているのです
その行動は、自分を守っているようで、実は、一番自分を守ってはいません
事実を知ることなく、正しい判断をする事は誰もできません
嘘の中にちょっとだけ本当のことを散りばめて、惑わしてくる人が一番いけないのはそうなのですが、だからと言って、事実を知ろうとはせずに、惑わされた事に関する情報を全てシャットアウトしていては、最終的にその事で一番傷つき続けるのは自分なのです
惑わされている時は、何が本当の事なのか解らず、止むを得ず情報を遠ざけてしまう事があっても、惑わされた心が落ち着き、平静を取り戻せた後には、事実を知ることが必要だと思います
一時的な逃避として逃げるのは時には必要ですが、永遠に逃げ続ける逃亡が必要な事はありません
一度逃亡する自分を認めてしまうと、何か傷つきそうなことがある度に逃亡していくようになります
最初は逃避のつもりが、心を平静に戻す作業をしないままその事を避け続けていくと、いつの間にか逃げ続ける逃亡になってしまいます
逃亡した状態が続いていると、ちょっとでも自分が傷つきそうな事があると、すぐに逃亡するようになってしまいます
逃亡に逃亡が重なっていく心は疲弊し、何か些細なことがあっても傷つきやすい、ガラスの心になってしまいます
何が正しいか正しくないかは、それぞれの人の主観が大きく関係してきます
特に、全体で取り決められた規則やルールがないものに関しては、それぞれの主観であるマイルールによって正しいかどうかが判断されていきます
本当に大切な事は、何が正しいか、正しくないのかではなく、何が真実で真実ではないのかでもなく、何が事実であるかだけだと思います
その情報が事実であるかどうかを見ていく事が必要だと思うのです

嘘をまき散らす人の話を良く聞いてみると、肝心なところは人から聞いた「そうらしい」と曖昧な言い方をしている事が多いように思います
そして、その話の内容に関してどうでもよいエピソードを「そうだ」と断定して、それが事実である事を証明できる情報を一緒に伝えてきます
あまり重要でない事実を伝える事で、重要な事でついた嘘を信じ込ませようとしてきます
ハッキリと断定できる事実の情報を先に伝えて、周りに自分を信用させて、その後の曖昧な嘘をまるで事実であるように信じ込ませていこうとするのです
もし、あなたの周りにネガティブ情報を流す人がいるとしたら、その情報の核心部分を「そうだ」と言っているのか、「そうらしい」とまた聞きのように言っているかに着目してみましょう
もし「そうらしい」でいっている場合は、その情報は参考までにとどめる、或いは、聞き流してしまっても良いと思います
もし、どうしてもその情報が気になってしまうのであれば、その人に、どこの誰が言っていて、何故そう言えるのかを、その発言者に突っ込んで聞いてみましょう
その質問にしどろもどろになる、或いは、どこの情報か言えないようであれば、その情報の信憑性はない事になりますし、逆切れしてきたら、嘘をついているか、ただ、皆の注目を浴びたい為に話をかなり盛ってしまっているかのどちらかだと思います
「そうらしい」と言ってきた事を「そうなの」と真に受けるのではなく、「そうなんだ」と軽く受け流していきましょう
事実を自分が確認できるのであれば、自分で確認していく事だと思います
一番大事なのは、その事実を確認できるか、できないかだと思います
事実が確認できれば、その事実をもとに自分で判断していく、確認できなければ、事実がわかるまで判断しない
どちらかわからない情報に対して、自分が何かの判断をしてしまう事自体が世の中に誤解を生み出してしまう大きな元凶のように思うのです

あなたは、噂話が好きですか
噂話は、あくまでも噂話である
そうやって、楽しむ分にはいいかもしれません
でも、そう思っていたのが
いつしか、噂話で自分の良し悪しを判断する
そんな自分になっていたりはしていませんか
真実は、人の解釈次第で変わるのだと思います
しかし、事実は一つしかありません
あなたは物事の判断を
真実から判断しますか
それとも、事実から判断しますか
もし、真実で判断するのであれば
その真実の中で「わからないけど」が無いようにしましょう
「わからない」という言葉がある事に
事実はないように思うからです
その物事の事実は何であるか
その視点が
良い人間関係を構築していく秘訣だと思います

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