癒しの心『おかしいと思う』

癒しの心 カウンセリング

「わかる」と「理解する」の違い

自分が理解できない事をする人に対して「おかしい」と思う事はありますか
自分には理解できない事をおかしい事だと思う事は不思議ではありません
しかし、自分が理解できない事をおかしいと思った事が、実際におかしい事であるかどうかは自分が思っただけでは判断できません
自分には理解できなくておかしいと思う事でも、他の人には理解できておかしくないと思える事もあるからです
法律やルールでその事がおかしいと決まっているなら別ですが、そうでない事であるならその事をどう思うかは人それぞれだと思います
時に私たちは、自分が理解できない事があると、その事を「おかしい」と決めつけて排除しようとしてしまう事があるように思うのです
しかし、自分が理解できない事を「おかしい」としては排除してしまうのはもったいない事だと思います
自分が理解できない事は、自分が成長していくために必要な課題を表してくれるからです
固定観念にとらわれて頭がガチガチになって、物事の一部しか見えていない自分の心の狭さに気づかせてくれるヒントになると思うのです
自分が理解できない行動をする人を、自分勝手でわがままな人だと思うのは、どこかに自分も自分勝手でわがままな事をしたいという願望があるのかもしれません

自分が理解できない事をする人がいたら、あなたはどうしますか
その事を「おかしい」とその人に言いますか、それとも言いませんか、或いは、理解できないけど理解したフリをして「いいね」と言いますか
多くの人は「おかしい」とは言えないのだと思います
「おかしい」と思うけど言わないのではなく、「おかしい」と言いたいけど言えないのだと思います
相手に「おかしい」とストレートに言ったら角が立つので言えない事がほとんどだと思います
相手に「おかしい」とはっきり言う人は、そんな事はお構いなしの自分の事しか考えていない人かもしれませんが、意外と根は素直な人なのかもしれません(おかしい事を非難する場合は別ですが)
一番問題をややこしくするのは、理解したフリをして、おかしいと思う事を誤魔化していく人だと思います
「わかる」と同調して理解しているようにしてしまう人です
自分が理解できない事がわかることは、当たり前ですがありません
もし理解できないのに「わかる」と思うなら、それは、初めからその事を理解する気がなくただ合わせていればいいと思っているだけだと思います
自分は何でも許容できる心の広い人だとアピールする事で、上手くいけば自分にとって得になる事があると思っているだけかもしれません
何も理解しないで相手に同調している人は、相手の為ではなく自分の為にしているだけだと思います

自分が理解できない行動があっても、まずはその行動自体を認識していきましょう
その行動を認める必要ありませんし、理解しよとする必要もありません
まずは、そんな行動もあるのかと頭の中に留めて、ただ認識してみて下さい
無理に理解しようとすると、理解できない自分がおかしいと思ってしまい、自分を否定してしまう事にもなります
それはおかしいと否定する事で片づけてしまうのです
自分にはわけわからない事でも、その人にはそれなりの理由があります
それが理解できないからその事をおかしいとすることは、自分の成長を自分で止めてしまっているのと同じです
自分が理解できないから相手をおかしいと言っているのは、自分は完璧な人間で自分が理解できない事はないと思っているのと同じです

自分が理解できない事をおかしいとして処理する事はやめましょう
自分だけの判断で、他の人の行動をおかしいと判断するのは危険です
自分が理解できない事をすべておかしいとしていては、本当の真実を理解する事ができなくなります
理解できるできないは、相手の問題ではなく自分の問題です
自分がわからない事をそのままにしていては、その事を正しく判断することはできません
良く「わかっているけどできない」と聞くことがありますが、わかっている事ができないことはありません
それは、わかっているのではなく、知っているだけなのだと思います
本来、「わかる」と「理解する」は同じ意味で使われます
しかし私たちは、ただ知っているだけの事をわかっていると言ってしまう事があるように思います
知っているだけならその事ができるとは限りません
なので、知っている事とわかっている事を同じ意味で使われてしまうとちょっと困ってしまします
そこにあるのは、わからないと思われたくない、人と違うと思われたくないという自己防衛の心があるのかもしれません
自分が理解できない事は何でも理解する必要はないと思いますが、だからと言って理解できない事を排除していく必要もないと思います
理解できない事をおかしいと思ったとしても、その事を否定して排除せずにその事実のみ肯定する事が必要だと思います
事実は肯定する事で初めて認識する事ができ、わからない事を理解できるようになる心の準備ができるのです
自分がそれを行うかどうかは別として、なぜそう言う事があるのかが少しづつ理解していけるのだと思います

自分が理解できない事をおかしいと思ってしまう事は問題ないと思います
問題なのは、その事を理解しないでおかしいと結論付けてしまう事にあるのだと思います
理解できない事をおかしいと思う事がおかしいのではなく、理解できない事を理解しないまま、なぜその事をおかしいと思うのかを知ろうとしない、自分の心がおかしいのだと思います
自分が理解できない事を排除して、今の自分にある常識の尺度だけで物事を見てしまう事が、世の中にある色んな差別を生んでいるように思います
人は、自分に理解できない事がある心の不安から逃れるために、理解できない事を「おかしい」としているだけなのかもしれません
自分がおかしいと思っただけで排除するのではなく、おかしいと思った事をきちんと理解できるようにしていく事が大切なのだと思います

自分に理解できない事があったら、それは自分を成長させるチャンスです
自分が理解できない事をおかしいと思うのは
理解できない事を理解しようとしない自分がいる証拠です
理解できない事だけをまずはただ認識してみて下さい
そんな事もあるのかと心のはてなボックスに入れてみて下さい
はてなボックスにある事が理解できたとき
人はより良く成長していくのだと思います

今の自分に理解できない事はありますか
もしあるのなら、おかしいと排除せず
心のはてなボックスに入れましょう
そして、それを少しづつ認識しましょう
その存在を認められる事が
その事を理解する第一歩になります

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癒しの心『ありのままの自分』

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ダメなままの自分にはならない!

ありのままの自分とは、どんな自分なのでしょうか
その答えは、自分自身の心の中にしかないのだと思います
人は誰しも、良い所もあれば、ダメな所もあると思います
ありのままの自分とは、良い所もダメな所もすべて自分であると認めて受け入れる事ができる、自分のことを言うのだと思います
今の自分ってどんな自分なんだろうと、自分で自分の事を客観的にじっくり見て、見えた自分を全部「そだねぇ」と女子カーリングの選手みたいに受け入れる自分が、ありのままの自分なのだと思います
もしあなたが、今の自分のすべてを受け入れられないと思うなら、それは何故でしょうか
今の自分を受け入れる事は、自分が受け入れると決めれば誰にでもできます
誰かの許可や承諾をもらう必要もなければ、「いいね」の数やインスタ映えを気にしていないとできないというものではありません
なのに、今の自分を受け入れられないと思うのは、自分自身の心の問題なんだと思います
自分に良い所なんかない、ダメな所しかないと思っている人は、自己卑下して周りの同情を買おうとしている、ただの甘えん坊なのかもしれません
逆に、自分にダメな所なんかない、良い所しかないと思っている人は、自惚れる事でしか自己主張できない、ただ臆病な人なのかもしれません
どちらにしても、甘えん坊や臆病さで自分を受け入れられないのは、周りの事を気にしているからではないでしょうか
自虐的な言動で同情をかったり、大げさに自慢して自分を大きく見せる事で、周りの目を欺こうとしているのだと思います
そこには、全ての物事を良い悪い、正しい正しくないで判断しようとする、私たちの間違った価値観があるように思います
本来、物事の良い悪い、正しい正しくないは、その人それぞれの主観で判断されているものです
良いのか悪いのか、正しいのか正しくないのかと言う判断は、個人の主観によるものだと思います
そう言った意味で、物事の良い悪いや正しい正しくないという正義を判断するには、個人の主観ではない、共通するルールによって判断する必要があるのだと思います
しかし私たちは、「普通は」「皆が」「一般的には」などと言う言葉を使って、主観的の正義を正当化しようとする事があるのだと思います
やたら「いいね」を欲しがる、或いは、やたらと見映えを気にするのは、その表れのような気がします
また、何かと人を否定したり、強引に同意を求めてくる人も同じように思います
この事が、ありのままの自分でいることが、ダメなままの自分であると思う弊害になっているように思うのです

ありのままの自分を認めましょう、言葉でいうのは簡単ですが、やろうと思うと中々難しいものだと思います
特に自分のダメな所を認めて受け入れる事は、頭でわかっていても感情的には難しいのかもしれません
それはわかるけど、ダメなものはダメで、例え受け入れたとしてもダメなままでしょ
もし、ダメな自分を受け入れてしまったら、ダメなままの自分になって何も変わらないじゃないか、そう思う人はいるかもしれません
ダメなままの自分では嫌だ、ダメな自分を変えたいから、ありのままの自分ではいけない、そう思う人もいるかもしれません
ありのままの自分と、ダメなままの自分は同じことではありません
言葉は似ていますが、意味はまったく違います
ありのままの自分は、ダメな自分を受け入れている事ではありますが、同時に、良い自分も受け入れている事を言います
ダメな自分を受け入れると、ダメなままの自分になると思ってしまう人は、自分の良い所を受け入れられていない人だと思います
自分にある良い所を受け入れてしまうと、ダメな自分が浮き出てしまい、自分のダメな所が余計に目立ってしまうという心理が働いているのかもしれません
大事なのは、周りからどう思われるかではなく、自分がどう思うかです
周りや自分がダメだと思っていなくても、ダメな所はダメです
逆に、周りや自分がダメだと思っていても、ダメな所はダメです
周りが思っても思っていなくても変わりはないですが、自分が思っているか思っていないかは、今後のダメな自分にとっては雲泥の差になります
自分がダメと思っていなければ、ダメな部分は自分の中ではない事になっているので、気持ちの上では良いかもしれません
しかし、あるものを無いとしてしまうのは、その後の自分の行動にとても大きな弊害を生む事になります
であるなら、自分はダメだと思っていた方が良いのだと思います
自分がダメだと思う事で何か得するかはわかりませんが、大きな弊害を生む事は避ける事はできると思うからです

人は、ダメな自分をどうして認めたくはないのでしょうか
ダメな事を思ってしまうのと、実際にその行動するのとは違いますし、仮にダメな行動したとしても、ダメな行動してしまったと自覚するのと、そんな事はしていないと自分を正当化するのでも違うと思います
私にも、ダメな自分がいますし、いつまでたってもダメな所はダメなままです
そんなダメな自分を突き離すのではなく、これも自分なんだなぁと、その都度向き合って受け入れていきます
だからと言って、ダメなんもんはダメだからしょうがない、のように開き直っているわけではありません
ダメな自分だけど、ダメはダメなりに、迷惑かけないようにそれなりに頑張るようにしています
ダメな事を良い事にしようとしても、大抵は上手く行きません
逆に、余計にダメな事にしてしまうことの方が多いように思うのです
ダメな事を良くしようと思うから、上手く行かないし、苦しくなるのだと思います
ダメな事を、それなりにする事は実はそんなに難しい事ではありません
自分を良く見せようとはせずに、自分の良い所に着目していけばいいのです
一番の方法は、自分ができる事を誰よりも率先して行うことです
自分の良い部分を活かして、自分ができる事をしていけば、ダメな自分でしなくてはいけない事は少なくなります
仮に、自分のダメな部分で何か失敗しても、自分の良い事で周りに貢献していると、ダメな所を責めたり、恥ずかしいと思う事はなく、逆に周りからは、そんな一面もあるんだねと、親近感を持たれる事にもなります
それでも、自分のダメな部分を使わなければいけない事になったら、とにかくこなす術を見つける事です
上手くできるとか、かっこつける事は考えず、その事をするために最低限必要な事をだけを、自分のできる範囲で行っていくのです
もうちょっとできるかもと色気を出さずに、最低限必要な事だけに集中しましょう
周りから良く思われたいという思いは誰にでもあります
だからこそ、ダメだと思われる事は嫌なんだと思うのです
しかし、何でも周りから良く思われたいという欲張りな考え方は捨てましょう
それができれば、自分のダメな所が目立ってしまうような場面に遭遇する事もなくなると思うのです
攻撃は最大の防御と言いますが、自分の良い所を率先して出していく事が、ダメな自分を守る最大の防御になると思います

あなたは、ダメな自分を受け入れる事ができますか
ダメな自分を受け入れると、ダメなままの自分になると思いますか
それとも、ありのままの自分になると思いますか
良い所だけしかない、そんな人間は存在しません
ダメな所があるから、良い所があるのです
ダメな所を認めないのは、良い所も認めないという事です
ダメな自分と良い自分を認めて受け入れる
ダメなままの自分ではない、ありのままの自分でいる
そこには『癒しの心』があるのだと思います

癒しの心『気にしないの真実』

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気にしないは気にしたくないとは違う

あなたは、周りのことが気になりますか
気にならないと言ったら嘘になる、そんな気がします
周りを気にするのは決していけない事ではないと思います
気にしすぎるのはどうかと思いますが、逆に、全く気にしないのもどうかとは思います
周りがどう思っているかが気になってしょうがない、周りの意見と自分の意見が違う
そんな時、あなたならどうしますか
周りの事は気にしない!
そんな意見を耳にする事があります
私も、その意見には賛成ではありますが、「気にしない」の部分が「気にしたくない」であるなら話は別のような気がします
「気にしない」という言葉だけをフォーカスして、自分が気にしたくない事を気にしないとしている事があるように思えるからです
個人的な感想なのかもしれませんが、最近はこの「気にしない」が、自分が気にしたくない事を気にしないで良い、と解釈されている事があるように思うのです
確かに、SNSの世界では、そこに書いてあることをいちいち気にしていたらしょうがない事があるかもしれません
しかし、SNSの一部のたわいもない話だけでなく、全てに対して自分が気にしたくない事は気にしないようにするのはどうかと思うのです
こうなってしまうと、気にしないではなく、気にしたい事だけ気にするという、最悪の状況になっているように思うのです
周りの意見の中には、聞きたくないが自分にとって役立つ耳の痛い言葉もあります
気にしない事を、自分が嫌な事は聞かないとしてしまうと、自分にとって必要な耳の痛い言葉がまったく聞けない状態になってしまうのだと思います

今、フェイクニュースが度々世間を賑わせています
トランプ大統領やおまとめサイトなど話題に事欠かない状態です
フェイクニュースは名前の通り、嘘の記事です
フェイクニュースの目的は、誰かを陥れる事にあるように思うのです
フェイクニュースは、それがまったくの出まかせであっても、相手の信用を無くす事ができるからだと思います
私もそんな経験をした事があります
ある事ない事を周りに言われ、多くの人の信用を失った経験があります
フェイクニュースは、それを真実と思わせる必要はありません
逆に、真実なのかどうかわからない方が、より効果を発揮するように思うのです
フェイクニュースを聞かされた相手が、その真贋がわからなければわからないほど、その効果は絶大です
多くの人は、わからなくて自分が判断できない事があると、その事に関わる事をやめることで自分を守ろうとするからです
今となっては、フェイクニュースで信用がなくなる程度のものだったんだと、その時の自分の能力の未熟さを実感していますが、救いだったのはそれでも何も変わらずに接してくれる人たちがいた事です
私に対するフェイクニュースを流していたのが、その当時の会社のトップだったことは、今なっては半分笑い話みたいなもののようになっています
しかし、ここまでフェイクニュースが溢れているのは、別のニーズあるように思います
フェイクニュースに対する他のニーズは、ポスト・トゥルースにあるように思うのです
ポスト・トゥルースとは、真偽は関係なく、感情的なメッセージが世論に大きな影響を与える社会の有り様を意味するようで、信じたい人が信じがたいニュースを信じる状況の事だそうです
フェイクニュースが横行しているのは、ポスト・トゥルースの感情が世の中の人に多く存在してるからではないでしょうか

私が問題視している「気にしない」の解釈も、このニーズから生まれているように思うのです
自分が聞きたい事だけ聞いて、自分が聞きたくない事は聞かない「気にしたくない」を「気にしない」としているように思うのです
自分の聞きたい事だけ聞いている人は、周りを気にしないのではなく、周りを無視しているだけだと思います
周りを無視していれば、気にしないどころか、気にする事自体がないのだと思います
ポスト・トゥルースである、信じたい人が信じがたい事を信じている社会に明るい未来はあるのでしょうか
周りを「気にしない」と言えるのは、周りを気にしている人にしか言えないように思うのです
周りを気にかけながら、自分だけでなく、周り全体の事を考えた時に、気にする必要がある事を気にでき、気にする必要がない事は気にしないようになるのだと思います
何かが気になってしょうがないのは、それが気にする事なのか気にしない事なのかが、自分でわからないからだと思います
自分が悩んで嫌な気持ちになるからと言って、その事自体を無視して「気にしない」にしていては本末転倒になります
相手が嫌な思いをするかもと思って、自分が我慢して「気にしない」としていては、本当の気にしない状況からどんどん遠ざかっていくだけです
気になってしょうがない事があるなら、その事を徹底的に気にしてみましょう
そしてそれが、本当に気にする事なのか、それとも、気にしない事なのかを整理して判断していきましょう
周りがではなく、あなた自身が判断していくのです
自分だけが良くなるのではなく、皆が良くなると思える思考でです

周りの事を気にかけて行きましょう
そして、キチンと判断していきましょう
ただの誹謗中傷や悪口なのか
それとも、辛口な建設的な意見なのかを
感情ではなく、理性で言葉の意味を捉えるのです
耳が痛い言葉の中に、成長の種があるものです
気にしたくない事を、気にしないと解釈しない
気にするけど、気にしない
そこに『癒しの心』があると思います

癒しの心『逃げるは恥とは限らない』

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役に立つ逃げると役に立たない逃げるがある!

あなたは、逃げる事は恥だと思いますか
本当に自分が危険だと思う状況であれば、誰もが逃げる事を選択するのだと思います
あるテレビを見ていた時に、自分を守る能力が一番ある人は、足が速い人だと言っていました
それは、自分を確実に守れる最強の方法は逃げる事で、相手より足が速ければ逃げる事ができるからというのが理由でした
自分を守ることを考えたら、逃げる事が一番確実な方法なのかもしれません
であるなら、逃げる事が恥になるとは限らないように思います
誰もが逃げる必要があると思える状況であれば、逃げる事を恥ずかしいと思う人はいないと思います
ここで問題なのは、逃げる必要があると思う状況が人によって違うという事です
自分の中では逃げる必要がある危険度があっても、周りにそう思わない人がいる場合もあるのだと思います
そんな時、なぜ逃げているかという理由は無視され、ただ逃げるという行動だけで恥だと思わされてしまっているように思うのです
自分では危険から自分を守るために逃げているので恥ではない事はわかっていても、周りにそう思わない人がいる事で恥だと思ってしまうのだと思います
しかし、逃げる必要がある状況は個々によって違うのだと思います
であるなら、いくら他の人が逃げる必要がないと思っているからといって、自分が逃げる必要があると思って逃げた事を恥だと思うことはないように思うのです
他の人が逃げていない事から逃げる事が恥ずかしいわけではなく、自分が逃げてはいけない事から逃げるのが恥ずかしいのだと思います
その事から逃げる必要があるかどうかは、自分にしかわかりません
逃げる必要がある状況かどうかは、自分にしか決める事ができないのだと思います
だからと言って、何でもかんでも危険だとして逃げてばかりいるのは恥どころか論外だと思います
逃げた事が恥かどうかは、自分の心に正直でいれば、自分が一番わかるはずです
たまたま逃げていないからといって、逃げている人を恥だと非難する事は、誰にもできないのだと思います

逃げるには、逃避と逃亡があるように思います
逃避は、避けるという字が含まれ、逃げる事で危険を避ける事を意味するので恥でないと思います
逃亡は、亡くすという字が含まれ、自分が逃げた事自体を亡くそうとしているので恥だと思います
逃避は、恥ではなく役に立ちますが、逃亡は恥で役に立たない行動だと思います
もしあなたが、今の自分ではどう頑張ってもできない事に遭遇したらどう対応しますか
今の自分ではできない事を認めて「できません」と言いますか
それとも、できない事を認めたくないので「できます」と言いますか
人には、こんな選択に迫られる事があるのだと思います
「できない」と言うことは、逃げるので恥になると思うかもしれません
「できる」と言うことは、逃げていないので恥にならないと思うかもしれません
できない事を「できない」と言うのは「逃避」ですが、できない事を「できる」と言うのは逃亡になります
逃避は逃げている事が誰からもわかりますが、逃亡は逃げている事を周りに隠してしまいます
その事で何もなければ、逃亡は逃げた事にならないと思うかもしれません
しかし、自分の責任を放棄して、できない事をできるとして何も問題が起こらないわけがありません
大抵の場合は、初めから「できない」と言っていた時と比べものにならない損害を周りに与えるものです
その時に、できない事を認められればまだ良いのですが、逃亡した人の多くは、自分は悪くないと責任転換を周りにしてくるのです
やろうと思ったけど他のせいでできなかったと言ったり、挙句の果てには、できませんと言えなかったと、頼んだ方に非があるように言って、自分が逃げている事を亡くそうとしていくのです
誰でもできないと思われるのは嫌な事だとは思います
しかし、頑張らなければいけないとわかっていても、できない時はあるのだと思います
そんな時に「できません」という事は決して恥ずかしい事ではありません
確かに、その事で周りに迷惑を掛け、非難される事もあるかもしれません
しかし、自分ではできないと思っている事を無理に行う事の方が、もっと周りに迷惑を掛けてしまう事になるのです
しかも、自分で頑張れなと思っているのに、周りの目を気にして無理やり行ってしまうと、頑張れない自分にやらせた周りが悪いと、自分の心の中で周りのせいにしてしまうのです
その瞬間、逃避する事が逃亡する事に変わってしまうのだと思います
逃避は危険からは逃げますが責任からは逃げません、逃亡は危険から逃げませんが責任からは逃げます
最近は、危険からは「逃避」しないけど、責任からは「逃亡」する人が多いような気がします

人生において、逃げてばかりいては何もできません
しかし、時には逃げる事があっても良いのだと思います
まずは、逃げる事で自分を守る必要がある事を自分が知る
もし、自分を守るために逃げたなら、その事を自分が認め、受け入れる
そして、どうしたら逃げずに自分を守れるかを考えれば良いのだと思いますあなたは、逃げる事を恥ずかしいと思いますか
もし思うなら、それは自分から逃亡しているからでないでしょうか
逃げない勇気があるなら
逃げる勇気もあるのだと思います
逃げる勇気がない人の逃げない勇気は
ただ無謀なだけで、周りに迷惑を掛ける無責任な行動なのだと思います

逃げたい時は逃げましょう
そして、逃げた事を恥じるのではなく役に立てましょう
どうしたら、逃げなくて良いのか考えてみるのです
自分が逃げたいと思う事には自分を成長させる課題があります
その課題には、逃げる勇気がある人しか気づく事ができません
課題をクリアする事で、逃げない勇気が手にできるのです

今のあなたに逃げたい事があったらチャンスです
逃げる勇気を持ってその課題をクリアしましょう
そしたら、どんな事でも対応できる
逃げない勇気が持てるようになるはずです

癒しの心『自分は悪くない』

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「自分は悪くない」は恥だが役に立つ

「自分は悪くない」と思ってしまう事はありませんか
心に余裕がある時はできるが、心に余裕がなくてやらなかったことがあった時、そう思ってしまうのではないでしょうか
「こうした方が良かったのに」と思えることを、できなかった時ではなく、やらなかった時に思うのだと思います
できなかった理由を探して「やろうと思ったけどできなかったので自分は悪くない」として、やらなかった事実を隠そうとしているのだと思います
自分の利己的な思いからやらなかっただけなのに、「自分は悪くない」と自分に言い訳している事は自分に対して恥なのだと思います
しかし、「自分は悪くない」と思ってしまう事は恥かもしれませんが役に立つのだと思います
私も恥ずかしながら「自分は悪くない」と思ってしまう事があります
そんな時「自分は悪くない」は恥だが役に立つと考えて、その事を今後の自分の成長につなげていこうと考えています
「自分は悪くない」と思ってしまった行動の中に、自分が成長できるヒントがたくさんあるからです
人は、何でも完璧にできるわけではありません
心に余裕があればできる事が、余裕のない時にはやれない事もあるのだと思います
「何でやらない」と、余裕がない自分の心に鞭打っても、心のストレスがただ大きくなるだけです
「自分は悪くない」と思ってしまう行動のどこかに、できるのにやらない行動が隠れているように思うのです
できるけどやらない行動を、どんな時でもできる行動にしていくにはどうしたら良いのか
そう考える事で「自分は悪くない」という恥ずかしい思いが、「自分を良くする」という成長する思いに変わっていくのだと思います

「自分は悪くない」と思ってしまう事の恥を責めて、思ってしまう自分の心がいけないとするのはやめましょう
心の中で思ってしまう事自体をいけないとしてしまうのは、自分で自分の心を否定する事になります
自分の心を否定してしまうと自分に自信がなくなり、自分にできる事がわからなくなってしまいます
そうなってくると、自分は何もできないと思い、周りに依存していくようになっていきます
周りに依存してしまっては、自分を成長させていく事はできないのだと思います
大切なのは、「自分は悪くない」と思ってしまう自分を否定するのではなく
「自分は悪くない」と思ってしまった行動には、できるのにやらなかった自分の心の弱さが隠されている事に気づいてあげる事だと思います
心の弱さには「もっと良くできたのにやらなかった」という自分なりの後悔があるのだと思います
私個人的には、後悔する気持ちはあった方が良いと思っています
後悔を引きずる事は良くないですが、後悔することで今後の自分を良くしていくために必要な事に気づくことができるからです
後悔するのは良くないとされる考え方が、「自分は悪くない」と思ってはいけないと否定する心につながっているのではないでしょうか
どんな事でも思ってしまう事を無視したり否定していては、自分で自分を信じる事ができなくなるのだと思います
思ってしまった事の中にある成長のためのヒントを、どのように活用していくかが大切なのだと思います
「こうすれば良かった」と気づいているのに、「~があったからできなかった」とやれない理由を探して、やらなかった事を正当化していてはいけないのだと思います
「こうすれば良かった」と思う行動を、いつでもできるようになるにはどうしたら良いかを考える事が必要なのだと思います

「自分は悪くない」と思った恥ずかしさに耐え切れず、「自分は悪くない」という事を周りに言い続ける事は、もっとやめましょう
周りに「そうだね」と同調してもらって、恥ずかしさを紛らわしていても、自分の行動は良くなっていかないからです
「自分が悪くない」と思った行動の中には、自分でも良くないと思える行動があるからそう思ったのだと思います
確かに「自分は悪くない」と思う事は、自分だけが悪かったというわけではないかもしれません
しかし同時に、自分の行動が良かったと言えるかというと、そういうわけでもないのだと思います
「自分は悪くない」と思うのは、悪い行動だったとは思わないが、良くない行動ではあった思うときに思うのだと思います
「悪くない」と「良くない」は言葉は違うかもしれませんが、言葉に込められた意味は同じだと思います
どちらも「良い」と同じ意味になる事はありません
「悪くない」行動も「良くない」行動もどちらも、良い行動にしていく必要がある行動だと思います
自分の良くなかった行動を悪くないと主張して、自分が良くない事を認めなければ良いと思う考え方は間違いです
そんな考え方では、周りの役に立つ事はありませんし、自分の役に立つ事もないのだと思います
自分の良くなかったところは無かった事にして、自分は悪くないと自分の心に嘘をついていてはいけません
最初はちょっとした嘘なので、心の中の違和感はあまりないかもしれません
しかし、自分の良くなかった事を無かった事にして「自分は悪くない」と主張して嘘を重ねていくと、心は歪んできてしまうのだと思います
自分の心に嘘をつくのはやめましょう
悪くないと思っているという事は、良かったとも思っていないという事に気づきましょう
悪くないけど、良くもない
であるなら、自分の心の恥を認めて、良いと思える行動は何であったかを考える必要があるのだと思います
自分は悪くない事を主張していても、心の中にフラストレーションが溜まって行くだけだと思います
最悪な場合は、周りに自分勝手な人だと思われる事もあるかも知れません
「自分は悪くない」と思ってしまったら、「自分は悪くない」と周りに主張する前に、ひと呼吸おいて落ち着きましょう
そして、自分は悪くはないかもしれないが、良くもない事に気づきましょう
自分が悪くない理由をいっぱい並べて、周りに同調してもらうのではなく
「こうすれば良かったかもしれない」という事を考えていくのです
「自分は悪くない」と思い続ける心と、「もっとこうすれば良かった」と思う心とでは、自分にとってどちらが良いでしょうか
人はいつでも、自分が良いと思う事ができているわけではないかもしれません
しかしいつでも、こうした方が良いと思えることを考えていく思考になる事はできるのだと思います
そんな思考になる事で「自分は悪くない」と思ってしまう事も役に立つのだと思います

何か良いことをしたいと思うなら
「自分は悪くない」と思った事にそのヒントが隠れているかもしれません
そんな時は、もっと良い行動が何であったかを考えてみて下さい
そんな思考癖になれば、マイナスな思いこそ、自分を成長させるヒントになるのだと思います
「自分は悪くない」と思う事はありますか
もし、あるならば、その時が自分を成長させるチャンスです
どうしたら良くなるかを考えてみましょう
「自分は悪くない」は恥だが役に立つ!
そこに、あなたが幸せになるヒントがあるはずです

癒しの心『マイルールにご用心』

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マイルールによる正義

自分が良いと思う事を人に伝えたい
それは、いい事だと思います
しかし、自分が良いと思う事を伝えた相手がそれを行うかどうかは、それを聞いた相手が判断することだと思います
自分がどんなに良いと思っても、共通のルールで決められたものでなければ、その事を良いと思うかどうかは個人の自由です
共通のルールによって決められていない物事の良し悪しを決めているのは、人それぞれのマイルールによるものだと思います
どんなに自分が絶対良い事だと思っていても、相手の意志による同意を得ずに押し切ってしまったら、それはただの強要でしかありません
いくらその人に「yes」と言わせても、それは、あなたのマイルールをその人に押し付けただけなのだと思います
人には、それぞれのマイルールがあると思います
同じようなルールの人もいれば、全く違うルールを持っている人もいるのだと思います
どのルールが正しいかは、その状況やどんな人たちの中で適用するかで全く変わってくるのだと思いますそこで、どんな世界にもマイルールとは別である共通のルールがあります
社会には法律があり、会社や学校には規則があります
スポーツにもそれぞれの競技ルールがあります
共通ルールがあるから人は、共通の「正しい」という判断ができるのだと思います
どんなにアウトローの人達でも、その人達の共通ルールは存在します
人が集まるところには、マイルールではない、何かしらの共通ルールが存在しているものだと思います
人が集団を形成している中では、共通のルールが必ず必要なのだと思います

人の社会における共通ルールは法律です
法律がなければ社会は成り立ちません
もし、法律がなければどうなるでしょうか
物事の善し悪しを決める判断が個人のマイルールに委ねられてしまい、全く不公平な歪んだ社会になってしまうのだと思います
実際に、国が違えば法律も違います
日本人が特に問題にしない事でも、他の国に行けば法律違反になることもあります
よく「正義」という言葉が使われますが、それはお互いの「正義」に関する共通観念がある時だけ使える言葉だと思います
共通観念がない人達が「これが正しい」「いやあれが正しい」と言っても、何も決まりません
正しいを判断する共通観念がなければ、何が正しいのかを決める基準が同じになる事はないからです
「絶対こうした方が良い」そう思う事はあるかもしれません
ただ思うだけではなく、筋の通った理由もちゃんと説明できるかもしれません
「それは正しい」と同意してくれ人もいるかもしれません
しかし、その物事が、これが正しいですという共通したルールをもとにしていなければ、その物事は、ただのマイルールによる意見に過ぎないのだと思います
どんなに同じ意見の人がいても、共通のルールではないマイルールのままでは、一個人の意見となんら変わりがないのだと思います
しかし残念ながら、何の共通ルールにもなっていないマイルールが、他の人もそうだと言っているという事で共通ルールのように用いられることがあります(実際には他の人はそうは思っていない事が多いのですが)
また、他の人がそうだと言っていても、その他の人のほとんどが、本当にその事が良いかどうかわからない、或いは、判断すらしようとしていない事もあるようにも思います

時に差別は、このマイルールによっておこるのだと思います
差別は、自分と違う事を受け入れられない、マイルールに原因があるのではないでしょうか
自分と違う事を受け入れられない人が、自分を守るためにその事を拒絶しているのだと思います(もちろん、そんな事をしても自分を守る事はできませんが)
誰もが、人を罵倒する事を良い事だとは思っていません
どんな悪人であっても、それが良い事だとは思っていません(だからといって、しないというわけではありませんが)
何かに対応できない「不安」から自分を守るために、差別という行動に出るのではないでしょうか
そこには常に正しい事する「正義」という観念が、間違った解釈をされている事が大きく関係しているように思うのです
正義は自分に対して問うもので、他の人に対して問うものではないのだと思います
もし他の人に正義を問うのであれば、自分のマイルールを基準にするのではなく、社会全体のルールを基準にするものだと思います
それが、漠然とした「不安」から自分を守りたいという気持ちだけが前に出てしまうと、マイルールが基準になってしまうように思うのです
自分のマイルールによる正義の基準を社会に押し付けてしまうのだと思います
何かしら大義という名目を掲げ、ただのマイルールを社会の共通ルールのようにしてしまうのです
人は、正義や大義という言葉に弱いのか、ただの保身によるマイルールを社会ルールのように惑わせているように思います

個人は、常にマイルールを基準に物事を判断にしているのだと思います
その事自体は何の問題もないと思いますし、それが無くなってしまったら大変だと思います
マイルールがない人は、周りが言う事に振り回されているただの烏合の衆にすぎなくなります
マイルールは、自分がどう生きて行きたいかを見つけていく上で絶対必要なものだと思います
しかし、マイルールはあくまでもマイルール
自分の心の中でしか使う事ができません
自分の心の中でしか使えないマイルールを基準に、世の中を判断してしまうのはとても危険です
あなたが何が正しいと思うかはマイルールが必要です
しかし、世の中で何が正しいかをマイルールだけで判断してはいけないのだと思います
本当のマイルールは、世の中の事を考えた上で基準が設けられたルールの事です
社会全体のことを考えてマイルールを決めている人は、決して自分の意見を押し通そうとはしません
しっかり自己主張はしても、最終判断はその人に委ねます
どんなに自分のマイルールが正しいと思っても、それを強要しようとはしません
なぜなら、マイルールはあくまでも、自分だけのルールだからです

あなたにはマイルールがありますか
そのルールは正しいですか
もし、正しいと思うことがあるなら
そのマイルールをもう一度見直しましょう
本当に社会全体の事を基準に置いたマイルールなのか見直しましょう
そうすれば、言葉ではなく、行動に出てきます
こうする、あーするという言葉で人を動かそうとはせず
自分が行動する事で周りに気づかせる事ができるはずです

あなたの最も良いマイルールは何ですか
日々、そのマイルールに従って行動していますか
もっと良くなると思うことを自分がする
そんなマイルールが『癒しの心』につながります!

癒しの心『自分を否定しない』

癒しの心 カウンセリング

自分にできる事を知る!
できない自分が嫌なんです!
カウンセリングでそんな事を聞く事があります
できない自分が許せなくて、自分で自分を否定しているのだと思います
確かにできない自分を否定する事で、一時的な心の非難にはなっているのかもしれません
しかし、自分を否定して心を非難させる事は、その後の事を考えるとリスクが高いように思います
自分を否定する事は痛み止めのモルヒネみたいなもので、どうしても心の痛みが我慢できない時に使う事があるかもしれません
しかし、それでは心の状態は何も解決しない事も同時に理解しなければなりません
そうでなければ、できない事をできるようになりたい、でもできない負のジレンマに陥ってしまいます
確かに、できないよりはできる方が良いかもしれません
でも、何でもできる人って世の中にいるのでしょうか?
そう問いかけてみると、ほとんどの人が「いない」と答えるのだと思います
ではなぜ人は、できない自分が許せないのでしょうか
何でもできる人間はこの世に存在しない
であるならば、自分にできない事だってあるのは当たり前なはずです
しかし、自分にできない事があると嫌な気持ちになる
とても不思議なことかもいしれません
人は、誰かに認められたいという思いがあります
できる自分は認められ、できない自分は認められない、そんな風に考えてしまうのかもしれません
しかし、必ずしもできる人が認められていて、できない人が認められていないとは限りません
できすぎる事が仇になり誰もが認めたくないと思う事もあれば、できない事が幸いして誰もが認めてあげたくなる事もあります

できない自分が嫌なのは、できない事で認められなかったらどうしようという「不安」がそうさせているのだと思います

できない自分が周りからどう思われているかは、自分ではわかりません
仮に、周りがあなたの事をできないと思っていたとしても、あなたの事を認めていないとは限りません
大抵の場合は、特に何とも思っていない事が多いのだと思います(他の人にとってはどちらでも良い事なので)
できない自分が嫌なのはあなた自身が勝手に思っている事なので、物事ができるできないに関わらず、自分の中で解決するしか方法がありません
もし、あなたが周りから認められていないと感じるなら、それは、あなたにできない事があるからではなく、あなたのできる事が周りにわかってもらっていないからだと思います
あなたに何ができるかがわかれば、周りはあなたを認めてくれます
あなたが、できない自分が嫌になるのは、自分にできる事を自分自身が知らないからではないでしょうか
自分にできる事は、物事をもっとより良くしていけると思える事です
その物事をもっとより良くしていけると思える事は、その物事が何のために必要かがわかっているかで決まります
物事ができるようになるには、まずはそれが何のために必要かを知ることなのだと思います
何のために必要かがわからない事をいくら頑張っても、できるようにはなりません
こなす事はできるかもしれませんが、それは本当にその事ができた事になりません
物事の本質が理解できておらず、できていたと思っていたことが、ただこなしていただけで、実は何もできていなかった事に気づかされるだけだと思います
何も知らない人同士が何もわからないまま行っている、ある特定のルールにとらわれて間違った解釈のもとに行われている
そんな場面を会社勤めの頃はよく見かけたものでした
他の人と比べるのではなく、今の自分自身と比べて、どうなりたいかではないでしょうか
自分は何がしたいのか、そして、何ができるのか
そこに、できない自分から打破できる鍵があるのだと思います

今の生活の中で、周りの人より自分ができると思えれば満足ですか?
もしそうであるならば、あなたの心は疲れているかもしれません
身近な誰かよりできていればいい、自分が一番下でなければいい
いつから、私たちは何に対しても順位をつけることに違和感がなくなってしまったのでしょうか
世の中で一番人気があるものが、自分にとって一番人気のものでなくても、何も困りません
自分ができない事があっても、それ以上にできる事があれば、人は認めてくれます
できない事に目を向けるよりも、できる事に目を向けた方が楽しい人生になるのだと思います
そして、楽しい事は決して「楽」ではないのだと思います
同じ「楽」という字を使いますが、この字を「らく」と呼んでいるうちは、本当に楽しい事が行えているとは言えないのだと思います
「楽」する事を楽しい事だと思い込むことで、自分を誤魔化しているだけなのかもしれません
できる事を見つけることは、自分が興味ある事をみつけること
「誰かに喜んでもらいたい」そんな気持ちで考えてみれば、誰でも興味ある事が見つかります
周りと比べること無く、順位など関係ない
人気No1のスイーツではなく、全く人気がないスイーツが美味しいと思う人もいます(私は意外とそうです、ちょっと天邪鬼なのかもしれませんが…)
誰かを喜ばしたいと思って物事を行っていれば、必ずそれが必要な人に巡り合うのだと思います

自分ができる事をしていきましょう
自分ができる事は、あなたが興味あることです
こうしたらもっと良くなるかもと思える事です
自分ができる事を積極的にしていると
自分ができない事が減ってきます
自分ができる事に意識向けて全力で行っていると
不思議と、できない事を頼まれることがなくなります

もし今、できない自分が嫌であるならば
できる事を積極的にしていきましょう
誰かに言われるのではなく
自分から「これ出来ます」と言ってみましょう
それが『癒しの心』なのです