癒しの心『相性診断』

癒しの心 カウンセリング

相性の良い悪いはない

よく相性を聞かれる事があります
自分と相性がいい人はどんな人なのかと
自分にとって相性がいい人は、自分が相性がいいと思った人です
そう答えています
それはそうかもしれないけど、でもね、そう思うかもしれません
私個人的には、人の相性に良い悪いはないと思うのです
相性の良い悪いがあると思うのは、相性が合う、合わないがあると思うからだと思います
相性が合う人は相性が良い人、相性が合わない人は相性が悪い人
そういう分け方をしているように思うのです
でも、本当に相性が合う、合わないという分け方はあるのでしょうか
相性が合う、合わないがあると思うのは、合わせ方の違いがあるからだと思うのです
相性が合う、合わないがあるのではなく、合わせ方の違いによる、合わせやすいと思えるか、思えないかがあるのだと思います
多くの人が合わせやすいと思うタイプの人は、相性が良い
多くの人が合わせるのが難しい思うタイプの人は、相性が悪い
そんな分け方になっているように思います
合わせやすい人が相性が良いでいいのではないか
そんな声も聞こえてきそうですが
合わせやすい人=相性が良いというのは、初めの内だけで、長い目を見たときには、合わせやすい人の方が、合わせにくい事もあるように思います
本当の相性の良さは、すぐに仲良くなる、意気投合しやすい事ではないように思うのです
本当の相性の良さは、長い間親密な関係を保つ事ができる関係だと思います
そうであるならば、相性は合わせやすい、合わせるのが難しいで判断するのではなく、相性をあわせたいと思うか、思わないかで判断する必要があると思います
どんなに、合わせやすい相性でも、自分で何も意識しないままで相性が合い続ける事は無いように思うのです
初めは、相性が合いやすいので、特に意識していなくても、お互いがお互いの事を理解できているように思うかもしれません
しかし、月日が流れ、お互いの一緒にいる時間が増えてくると、今まで合っていると思っていた相性に微妙なずれが生じてくるように思います
今までは気にならなかったちょっとした事が気になり始め、今まで相性が良いと思って許せてたことが、許せなくなり始める事があるように思います
相性の良い、悪いがあると思ってしまうと、良いと思っている内は良いのですが、悪くなったら取り返しがつかなくなってしまうように思います
しかし、相性の良い、悪いは、合う、合わないではなく、合わせたいと思うか思わないかであるとするならば、相性は、いつからでも、どんな状態からでも、合わせて良くする事ができるのだと思います

相性が良いと言われる場合は、自分と同じ思考や行動がある場合だと思います
自分と同じような思考や行動がある人ならば、自分と考えている事は似ているので、一緒にいてもストレスを感じる事が少ないように思うのです
それだけではなく、共感できる事も多くあるので、一緒にいて楽しい、自分をそのまま出していても大丈夫、そんな気がしてくるのだと思います
しかし、どんなに自分と思考や行動が同じであっても、他の人は他の人で自分ではありません例え一卵性の双子であっても、全く同じ思考や行動になる事はありません
自分では何も意識する事なく、相性の良さだけで相手と接していると、時間が経つにつれ相性が合わなくなる事はよくある事だと思います
これは、最初に相性が良いと思ってしまえばしまうほど、その後に相性が悪くなる可能性は高まってくるように思います
人は、慣れてくると細かい事が良く見えてくようになります
自分と同じような思考と行動がある、自分の事を良くわかっている、と自分本位な考えが、時間が経過して慣れてくると人の心の中には蔓延してくるように思います
相手に対してそう思うようになると、なまじ自分と合う所が多いがゆえに、ちょっとした違いが気になってくるのだと思います
今までは、気にならなかったことが、時間が経ちお互いの関係が深まれば深まるほど、ちょっとした違いが気になってしまうのだと思います
ちょっとした違いが気になりだすと、人はその事ばかり気になってしょうがなくなります
何とかしたいと思いますが、ちょっとした事なので何とかする事ができない
相手にその違いを伝える事ができない、そんな状態になっていきます
大きな違いであるなら、相手もその違いに気づき、お互いが修復していこうと思うかもしれません
しかし、ちょっとした違いは、相手にはわからず、何に不満を抱いているのかがわかりません
相性が良いと思っていた相手が、実はそうでもなかったと思った瞬間、今まで最良のパートナーだった人が、最悪のパートナーになってしまうのです
熟練夫婦の離婚が増えているのも、もしかしたらそんな要因があるのかもしれません
最初の相性の合わせやすさだけで、相性が良いとおもってパートナーを選んでしまうと、後々大変なことになってしまうように思います

逆に、相性が悪いと言われる場合はどうなのでしょうか
基本的に相性が悪いと言われる人と、親密な関係になろうと思う人はいないように思います
しかし、相性が悪いと言われている人は、相性が合わない人ではなく、相性をあわせる範囲が狭く難しい人なのだと思います
相性が良いと言われる人のように、共通する部分が少なく、どちらかと言えば自分と真逆な性格で、反発を覚える事も多いかもしれません
しかし、それは決して相性が合わないという事ではなく、相性が合うポイントが見えにくいので、合わせづらく感じているだけなのだと思います
相性が悪いと言われる人は自分と共通点が少ない、そうであるならば、自分に無いモノを多く持っている可能性がある、そう考える事も出来ます
相性が悪いと思える人の方が、もし相性が合わせられる事があるならば、これ以上ないほど相性が良い状態が維持できるように思うのです
相性が悪いように思えるのは、相性を合わせる事が簡単にはできないからだと思います
お互いの個性がぶつかり合い、相性を合わせるポイントが見えにくくなっているだけだと思います
それは、ただ見えにくいだけで、合わせる事が難しいわけでもなく、できないわけでもありません
どう合わせるのが良いかが、見えにくくて出来ていないだけだと思うのです
相手の事を良く見て理解していこうとする気持ちがあれば、相性を合わせるポイントは見えてくるはずです
相性が良いと言われる人とは違い、相性が合わせずらい状態から始まるので、相性が合わせられる事ができれば、その後ずれる事はほぼないように思います
例え、ちょっとしたズレがあったとしても、初めのズレから見れば大した事はない、これくらいはいくらでも修正できるとして、相性を合わせ続ける事ができように思うのです
最初は喧嘩ばかりしていた人なのに、ある事をきっかけに理解し合う事ができ、最高のパートナーになる事はよくある話だと思います
ケンカするほど仲が良い
人間関係は、最初に苦労をしていた方が、後々良いパートナシップになるのかもしれません

人の相性に良い、悪いは無いように思います
あるのは、合わせるのが簡単だと思うのか、合わせる事が難しいと思うのかだけだと思います
相性を合わせる事が簡単な人を相性が良い人、相性を合わせる事が難しい人を相性が悪い人
そうしてしまうのは、自分にとって本当に相性が良い人を見逃してしまう、或いは、失ってしまう事に繋がってしまうように思うのです
相性の良い、悪いは、自分が相性を合わせたいと思うか、思わないか、その違いだけだと思います
相手の性格や態度は関係なく、自分が相手に相性を合わせたいと思えば、相性は良くなり、思わなければ相性は悪くなる
それが、本当の相性の良し悪しなのだと思うのです
どんなに相性が合っていると思っていても、自分が相性を合わせたいと思っていない相手の相性は最悪だと思います
そんな相手との間あるその後の人生は、いばらの道なのだと思います
どんなに相性が合わないと思っていても、自分が相性を合わせてみようと思っている相手の相性は最高なのだと思います
そんな相手との間にあるその後の人生は、バラ色なのだと思います

あなたは、相手との相性が気になりますか
もし、そうであるなら
相性を気にする前に、気にかけてみて下さい
相性を合わせるポイントはどこにあるのか
それを見つけてみて下さい
安易に合う所に着目するのではなく
自分が相手に合わせてみたいと思う所に着目する
そうすれば、相手の本当に良い所が見えてくはずです
相性は自分が合わせにいくものです
相手との相性が良くなるのも、悪くなるのも
自分しだいです
相手に気になるところがあるなら
良い所でも、悪い所でも
合わせてみるのも良いと思います
自分から合わせてみて、合わない相手なら
その相手とは相性が良くない
そう自分で判断することができます
相性の良し悪しを他に判断してもらうのではなく
自分で判断していく
それが、良きパートナーを見つける第一歩だと思います

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癒しの心『自分を理解する』

癒しの心 カウンセリング

自分の事をわかっていますか

自分の事をわかって欲しい、そう思う事はありますか
自分の事を誰もわかってくれない、そう思う事もあるかもしれません
自分の事を誰もわかってくれないと思う心には、自分の事がわからない自分がいるように思います
自分で自分の事がわからなくなり、誰かに「それで良いよ」と、言って欲しい心の思いがそこにはあるような気がするのです
自分で自分の事がわからないのに、周りに自分の事をわかって欲しいと思う事は難しい相談だと思います
自分はいつも周りの事を考えているのだから、たまには周りが自分の事を考えてくれてもいいんじゃない
そう思う気持ちもわからなくはないです
でもそんな自分は、周りの事を考えているつもりでも、実際は、自分の事ばかり考えてしまっているのではないでしょうか
そんな事はない、周りの事を考えている
そう言う声も聞こえてきそうですが、本当にそうなのでしょうか
周りの事を考えているのであれば、そもそも、自分の事をわかって欲しいと思う事はないように思います
自分の事をわかって欲しいと思うのは、自分の事だけを考えてしまっているからではないでしょうか
自分の事がわからず、自分の事ばかり考えてしまうから、自分をわかって欲しいと思うのではないでしょうか
人は、自分の事がわからず自分を見失っている時に、自分をわかって欲しいと思うような気がします
自分ってどんな人、という感じで、自分の事がわからず自分を見失なっているのだと思います
自分の事がわからなければ、自分以外の周りの事を考える余裕はないように思います
人は基本的には自分の事を考えます
これは生命があるものであればごく自然なことで、自分の事を考えているから人は生きてい行けるのだと思います
自分の事を考えているから自分の人生が歩め、自分の人生を歩んでいるから他の人の事が考えられるのだと思います
なので、自分の事がわからなければ自分の事を考える事ができないので、周りの事も考える事はできないように思います

自分の事がわからない人は、いつも周りから自分がどう見られているかが気になってしまうように思います
自分で自分の事がわからないので、周りの反応から自分の事を知ろうとしてしまいます
周りを気にしている行動は、周りの事を考えているように思えますが、実際は自分の事を考えているだけだと思います
自分の意識は常に周りにあるので、どんな時でも周りの事を考えているように思いがちですが、その行動にある真意は、自分の事を知るためにあります
自分の事を知るために周りの事を考えるのは、周りの事を考えているのではなく、ましてや、自分の事を考えているわけでもなく、自分の事ばかり考えている事になっているのです
自分の事がわからない人は、周りの事を考えているつもりでいても、実は、自分の事ばかり考える思考になってしまっているのです
自分の事がわからなければ、自分で自分の事を考えることはできません
自分の事がわからず自分の事を理解していない状態で自分の事を考えようとしても、それは自分の事ばかり考える思考になってしまうと思います
自分の事を自分がわかっていなければ、自分の事を考えることはできず、自分の事ばかり考えてしまうのだと思います
人は誰でも、自分の事は自分が決めています
例え、誰かに決められた事をしていても、誰かに決められた事をすると決めたのは自分だからです
これは考え方や理屈とかではなく、人の体の仕組みがそうできているという、事実でしかありません
自分の事は自分が決めていると思えるかどうかは、自分の決断に自分の意思があるかないかだと思います
自分の意思がある人は、自分で自分の事を理解する事ができます
自分はどんな人なのか理解する為に、常に自分と正面から向合っていくからです
自分に意思のない人は、自分で自分を理解する事ができません
自分はどんな人なのか理解する事を避け、自分と正面から向き合う事ができないからです
自分の意思がある人は、自分と向合い自分のすべてを受け入れるので、自分だけではなく周りの事も含めて、自分の事を考えていきます
自分の意思がない人は、自分と向合う事がなくすべてを受け入れないので、自分の事も周りの事も考えられず、結果的に自分の事ばかり考えてしまいます
自分の意思がない人は、自分のために周りの事を考えているだけなので、自分の事ばかり考えているのと同じことになっているのです
そんな自分の事ばかり考えてしまう人の気持ちをわかる人は、誰もいないのだと思います

自分の事がわからないのは、自分の心に意思がないからだと思います
人は誰でも、自分の行動は自分が決めているのに、何かあるごとに、自分は悪くない、運が悪いだけ、環境が悪いなど、他のせいにしていると、自分の意思がなくなり、自分で自分の事がわからなくなります
と言うよりは、わかろうとしなくなります
自分で自分の事をわかる意思を持つには、自分が自分に責任を持つ必要があります
誰かに対してではなく、自分が自分に責任を持つ必要があるのです
自分の行動の責任はすべて自分に責任があります
それは、社会のおける責任とは別に、自分が自分に対してだけ持つ責任になります
自分への責任はあくまでも自分の中だけの話なので、他の人や社会には何の関係もありません
そこが、社会における責任とは違う所です
なので、自分に対する責任は、自分が判断するしかありません
自分に対する責任を他の人に肩代わりしてもらう事はできないのです
しかし人は、自分をわかって欲しいなどと、他の人に自分に対する責任の保証を求めてしまうのです
SNSで「いいね」が欲しくなるのは、人としての承認欲求だけではなく、自分に対する責任を他の人に保証してもらいたい行動の一つだと思うのです
他の人に、自分に対する責任を保証してもらっている内は、自分の意思を持つ事はなく、自分の事がわかることもありません
それどころか、自分の事を理解する事をやめ、周りに流されていく人生を選択していくようになります
確かに周りに流されていく人生は楽かもしれませんが、所詮それは自分の本当の人生ではありません
楽な事に、本当の楽しみや喜びは生まれないからです
楽をする事が楽しい事だと思っている人は、それは楽しいのではなく、辛い事や苦しい事から逃避しているだけだと思います
その事を辛く苦しいと思うのは、自分に意思がないからだと思います
大変な事や忙しい事と、辛い事や苦しい事は違います
同じように思える事もあるかもしれませんが、自分の意思がある時は、大変や忙しいと思い、自分の意思が揺らいだり無い時は、辛く苦しいと感じるのだと思います
「楽」と言う字は、楽(らく)と呼んでいる限りは、楽しいと読む事はありません
物事も同じだと思います、楽をしている時は決して楽しい事になる事はないのだと思います

自分の事を誰もわかってくれないと思う時は、自分の意思がない自分に気づいてきた証拠だと思います
周りにただ流されたくない、その他大勢の中に埋もれたくない、そんな心の想いが芽生えて来てるのだと思います
そんな時こそ、自分の事を理解するようにしていきましょう
自分ってどんな自分だろう、と自分に問いかけてみて下さい
初めは周りの人に聞いてみても良いと思います
自分ってどんな人なのか、周りの意見はとても参考になります
しかし、最終的には自分で判断する必要があります
逆に言えば、どんな自分も、自分がそう思った自分が、今の自分だと言えます
自分はどんな自分なんだろう
そして、自分はどんな自分になりたいのだろう
そう考えていく事が、自分の事を考えていく基本だと思います
そんな、自分の事を考える事ができれば
自分が周りに対して何をすればいいのかがわかると思います
自分ができる事で周りが喜ぶ事は何か
周りが楽しくなる事で自分ができる事は何か
そう考える事ができるのだと思います
自分の事を考えるから、周りの事も考えられる
自分の心に意思があるから
周りも自分の事を理解する事ができる
周りに自分をわかってもらいたいなら
まずは、自分の心と正面から向き合って
自分の心に自分の意思を持つ事だと思います

癒しの心『未来を見る心』

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「まっいいか」で心を前に向ける

人は前を向いて生活をしています
横を向いていたり、後ろを向いて生活をしていたら、何も見えずに危ないので、当たり前の事ですが前を向いて生活しています
実は、心も前を向いている必要があります
体は、物理的な不都合があるので、横や後ろ向きで生活をする人はいないと思いますが、心も同じなのです
心は物理的な障害が何かあるわけではないので、横を向いていようが、後ろを向いていようが関係ないと思えるかもしれません
しかし、体以上に心が前を向いていない方が、実は危険なのです
私たちは現在に生きています
今この瞬間である現在だけが現実の世界です
現在から時間が経てば、全ては過去の事になります
私たちの人生は、ドラマのように過去を編集する事はできません
過去は、過去のままです
現在は過去になりますが、過去が現在になる事はありません
現在になる事があるのは、未来だけです
未来におこりうる可能性がある事に、現在があるのです
心が前を向いているという事は、未来を見ている事です
現在でも、過去でもありません
人は自分の心が前を向いているから未来が見えるのです
未来を見ているから心が前を向いているのではなく、心が前を向いているから未来が見えているのです
同じようですが、実は大きな違いがあります
心が前を向いているには、「未来を見る」と自分の意志が必要にあります
他によって見せられている未来を見ていては、心が前を向いているとは言えないのです
それは他が関係しているからではなく、自分の意志があるか、ないかの違いなのです

あなたの心はどこを向いていますか
前を向いていますか、横を向いていますか、それとも後ろを向いていますか
前を向いていれば、未来が見えています
横を向いていれば、現在しか見ていません
後ろを向いていれば、過去ばかり見ています
今の自分がどの時間軸を意識しているかで、自分の心がどこを向いているかがわかります
私たちの生活にある時間は、過去、現在、未来の3つの時間軸で表されています
どの時間軸も誰にでも平等にあるものです
しかし、どの時間軸を意識しているかで、その人の人生は大きく変わってくるのだと思います
過去を意識している人は、終わったことだけで物事を考えていくので、何をしても自分ではなく他のせいにしていこうとします
既に終わった過去を言い訳にして、現在や未来にチャレンジしていこうとはしません
過去ばかり見て心が後ろを向いている人は、横にある現在は何となく視野に入りますが、未来はまったく視野に入りません
未来がまったく視野に入らない心は、自分の進む道に何があるのかわからないので、不安しかありません
未来は不安しかなく怖いとして後ろを向き続けても、人は未来に向かって前に進んでいきます
心が後ろを向いたまま何も見えない状態で進んでいく事は、自分の可能性を自分自身が潰している事になってしまいます

心が横を向いている人は、現在しか見ていない人です
今だけ楽しければいい、刺激を求めて衝動的な行動をしている、自分の事だけを考えている人は、心が横を向いています
心が横を向いていると、目の前にある事しか見ようとはしません
目の前の事しか見ないのであれば、先の事や自分の行動の結果を気にする事はありません
横を向いていると、前や後ろがかすかに視野に入る事があるので、過去と未来の存在はわかっています
しかし、それらを無視して横だけ見ようとしてしまうのは、自分に責任を持つのが怖いからだと思います
何か問題がおこると、すぐに他のせいにする、或いは、その行動を無かった事にしようとするのは、その表れです
過去も未来も見ず、現在だけを見ようとしている人は、実はただのお子ちゃまなのです
大人になれず、或いはなりたくない、子供のまでいれば、自分に責任を持たなくても社会は許してくれる
そんな甘えた依存体質があるように思います
現在はすぐに過去になります
そして、未来が今ある現在になっていきます
人は現在に生きているのは事実ですが、現在は過去と未来どちらも必要なのです
心が横を向いていては、過去も未来もなく、実は現在もないという、何もない人生になってしまいます

心が前を向いていると、未来を見る事ができます
未来は、まだ行われていないので、どんな未来が現実になるかは、時間が経過してみないとわかりません
どんな人でも、100%そうなるという未来は存在していないのです
ゆえに、人は未来に対して不安を感じるのだと思います
不安は、何かわからない事があると、人の心の中に芽生え始めます
どうしたらいいのか、あれやこれや考え、でもどうしていいのわからず、不安は更に大きくなります
不安には実態はなく、不安はその人がつくり出した幻想にすぎません
幻想である不安に現実の世界で対処する方法はありません
実際に存在しないものに対処する事は、誰にもできないのです
不安になるのは、わからない事があるからです
しかし、わからないから未来なのです
わかっている事は、現在か過去でしかありません
現在や過去に、人の人生は進んでいきません
理屈や精神論ではなく、事実です
未来の事はわからない
わからない未来に進んでいくのが人生であるなら、人生がわからなくて当たり前です
わからない事が当たり前の未来に、人は不安を抱きます
これもまた事実です
不安を抱かないようになれれば一番いいですが、そう簡単にもいきません
であるなら、未来を不安に思っても「まっいいか」と思う事が大切だと思います
色々と不安に思う事はあるけど、不安は幻想でしかないので「まっいいか」と思っても問題ない
そう思う方が良いと思います
「まっいいか」は不安を打ち消す最強の言葉だと思います

時間は前にしか進みません
止まったり、後ろに戻ったりはしません
時間を止めたり、戻したりできるのは、フィクションの世界だけです
現実の人生において、時間を止めたり戻したりする事はできません
なのに人は、自分の心の時間を止めたり、戻そうとしてしまいます
物理的に絶対できない事をしようとしてしまうこと自体に、問題がある事に気がつきましょう
過去は過去、現在は現在、未来は未来
現在になる事があるのは未来だけです
唯一現在になる事がある未来を見ていなければ、今である自分を見る事はできないのです

あなたの心は、過去ばかり気にして後ろを向いていますか
それとも、今だけ良ければいいと横を向いていますか
後ろでも横でも、人は前にしか進んでいきません
あーだ、こーだ言う前に、心を前に向けてみませんか
体の向きは他の人でも直す事ができますが
心の向きは自分で直すしかありません
自分の人生と向き合い
自分の心を前に向ける事ができるのは
自分だけなのです
いつでも、前を向いている心が
癒しの心だと言えます

癒しの心『Yes or No ?』

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人の心はあいまい

人は毎日、多くの選択をしています
多くは目の前にある選択を、するか、しないか、Yes or Noで選択されていきます
しかし、人の心はそんなにはっきりとYes or Noという2択に分かれるものなのでしょうか
多くの人は、その事を決められないからNoの選択をしていたり、皆がそうだからYesの選択をしている事が多いように思います
確かに物事を行っていくには、やるかやらないか、Yes or Noのどちらかを選択しなければいけません
あいまいな選択をしていては、その行動が有効なものになる事はありません
しかし、自分の人生における選択は、Yes or Noのように、どちらかを決める必要があるものばかりではないような気がします
その物事を絶対する必要があるならそうかもしれませんが、そもそも、自分の人生において絶対にしなくてはいけない事はそう多くはないと思うのです
皆が、周りが、社会がなど、多くの人がそうしているからと言って、無理にその選択をしなくても良いのではないでしょうか
人生において大事なのは、自分の周りに無数にある自分にとって必要な選択肢を見つける事だと思います
目の前にあるというだけで、自分には必要もない事まで選択していく事ではないように思います
常に目の前にある事をYes or No選択をしていくのではなく、自分の周りにある全ての事に目を向けて、まずは自分は何をしたいのか、いくつもある選択肢から決める事が大事だと思います
物事のYes or No選択をする前に、自分の人生において本当に必要な選択肢を見つける必要があると思います

誰しも、人生における選択肢は無数にあります
人生の選択肢が無数にあるのに、目の前の事だけを選択してYes or No選択ばかりしていると、自分にとって本当に必要な人生の選択肢を見逃してしまいます
今ある自分の目の前の事だけに囚われてしまい、自分がYes or No選択する必要がある選択肢を選べていない人が多いような気がします
その事をやるか、やらないかの前に、その選択肢を本当に選ぶ必要があるかどうかが必要だと思います
選ぶ必要もない事をYes or No選択している事自体に意味はないと思います
自分で選んだ選択肢であれば、やるか、やらないか、Yes or No選択する事が必要だとは思います
でも、そもそも選択する必要がない事を、ただ自分の目の前にあると言うだけでYes or No選択していると、自分が本当にやりたい事がわからなくなってしまいます
~しなければ、それが普通だ、皆そうしている、と言う言葉がつく行動は、その人が選択する必要がない事、或いは、気持ちが固まってない事を、無理やり選択している状況のサインだと思います
目の前の事をYes or No選択のする前に、自分は何をしていきたいかを考えて、周りにある他の選択肢に目を向けて探す事が大事だと思います
最終的にはYes or No選択は必要ですが、それは、自分が何をやりたいかの選択肢が明確になった後の事だと思います
何故それをする必要があるのか自分の中でわかっていない、或いは、理解していない人に、その物事を最後までやり遂げる力があるとは思えません
その時の感情や周りの状況に流されて選択したYes or No選択では、何もは成し遂げられないように思います

Yes or No選択をする前に、自分は何をしていきたいのか、自分にとって本当に必要な事は何なのかを考えてみましょう
その物事が必要だとハッキリと思えれば問題ないですが、いつでもそんなにスパっと思えるとは限りません
その時は「必要だ」と思ったかもしれませんが、時間が経つと「そうでもないかも」と思う事の方が多いように思います
物事に対する人の思いは、言葉でいう程Yes or Noではありません
Yes寄りの時もあれば、No寄りの時もある、或いは、どちらでもない
意外とあいまいなものだと思います
自分の心があいまいで、選択肢が定まっていないのに、物事をYes or No選択するから問題が起こるのです
行動の選択は、Yes or No選択しなければ行動にはなりません
しかし、自分の周りにあるたくさんの選択肢に気づかないまま、Yes or No選択していてはなりたい自分になる事はできないと思います
物事のすべてが、Yes or Noで決まるわけではありません
法律や規則、社会のルールで決まっているなら別ですが、そうでない事に関しては、全てがYes、或いは、全てがNoという事はないと思います
どちらの要素も含みながら、自分はどんな選択肢を選んでいくのか、一人ひとりが決めていくものだと思います
皆がそうしているからと言って、目の前にあるからと言ってYes or No選択をしていく必要はないのです
例え、選択を拒否しても、それはその道をNoと否定した事ではなく、自分は違う選択肢を選んだという事だけだと思います

人はどうして、自分と違う行動をする人がいると「認めたくない」と思ってしまうのでしょうか
気持ちはわからなくもないですが、それでは自分にとって本当に必要なものが見えなくなってしまうように思います
自分と違う行動を容認できないのは、自分が周りと違う行動をしていると怖いからだと思います
自分の意見が持てずに周りと同じような行動をする事で、安心感を得ようとしているのかもしれません
それ自体がいけない事だとは思いません
それも人生の選択肢の一つだと思います
しかし、だからと言って自分と違う選択をしている人を「なんで」と、あたかも相手がおかしいように位置付けて、自分の不安をなくそうとしていくのはやめた方が良いと思います
他の人に合わせるという自分と同じ選択を相手がするように、他の人に接していく事は自分の視野を狭くしてしまいます
他の人の選択に合わせる事も一つの選択なので自信を持てばいいのに、同じようにしてくれない人がいると不安になって「なんで」を連発したり、頼まれてもいないのにお節介して相手をコントロールしようとしてしまうのです
それでも相手が同じようにしてくれないと、その人を否定して、誹謗中傷するようになっていきます
そんな目先ばかりのYes or No選択では、幸せな人生を歩む事はできないと思います

周りと違う事をあなたは選択できますか
周りと違う選択をする人をあなたはどう思いますか
法律や規則、ルールを守らない選択はダメです
しかし、そうでない選択は人それぞれ自由だと思います
周りと同じ選択をするのも良し
周りと違う選択をするのも良し
どんな選択でも
自分でその選択肢を選んだと思えるなら良いと思います
いくつになっても可能性は誰でもあります
自分にどんな可能性があるのか
目先のYes or No選択は一度やめて
自分の周りにある選択肢を探して
そこから自分の可能性を見つけてみませんか

癒しの心『競争と競創』

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競い争うより競い創り上げる

今の社会には、競争による弊害があるように思います
一時期、運動会で手を繋いで皆一緒にゴールする、と言うのが話題になった事がありました
競争してビリの子が嫌な思いをするからと言う理由のようですが、だからと言って、皆一緒にゴールする事が良いとは思いません
その理由であるなら、競争する事をやめるのではなく、ビリになった子が嫌な思いをしないように、周りがケアしてあげれば良いと思います
もし、ビリの子が嫌な思いをする事がケアできない、そして、その事がその子の人生に大きな影響を与えるなら、そんな社会の方が変わった方が良いと思います
競争して順位が付くのは当たり前の事だと思います
競争がいけなくなるのは、競って順位が付くからではなく、順位によって人の価値を決め、その事で争うからだと思います
競う事は多くの有益な事を生むと思いますが、争う事は何も生まないように思います
もちろん、そういう意味で競争という言葉が使われている訳ではないのかもしれませんが、今の社会にある競争は、競う事がなく争うだけの競争になっているように思うのです
競争は字にあるように、競い、争う事です
争うと言う字には、戦うという意味のほかに、張り合うという意味もあります
競争にある争うの意味は、張り合う事だとは思うのです
しかし、競わない競争にある争いは、ただ戦うだけを意味してしまい、どちらの力が強いのかだけを争っていく競争になるように思います
競争する事が社会にとって有益なのは、競う事が前提にあるからだと思います
競争によって順位が付くことがいけないとするのは、競争は競う事のない争い戦う事だと思っているからだと思います

人に順位をつける事は必要がないと思いますが、物事に順位が付く事は必要だと思います
同じ条件化で何かを行えば、順位が付くことが自然だからです
なのに、同じ条件化で行われている事なのに、順位を付けずに皆が同じという事には賛同できません
見た目は公平で、全員に配慮されているように思えるかもしれませんが、私から見たらその方が公平さを欠いているように思います
みんな同じにするという事は、個人の違いを無視している事になると思うからです
そんな事はない、みんな同じ行動なので平等になっている、と思うかもしれませんが、みんな同じ行動である事がすでに平等ではないと思います
平等とは、どんな違いがあっても同じに対応する事であって、皆に同じ行動をしてもらう事ではないと思います
それぞれ違いはあるけど、みんな同じ権利があり、同じ対応になる事が平等だと思います
皆が同じ行動をする必要がない事に対して、皆に同じ行動を促すことは不自然な事のように思うのです
何か物事が行われるのであれば、皆が同じ行動であるわけがありません
上手くできる人もいれば、そうでない人もいます
それが、当たり前です
本当の平等は、上手くできた人もそうでない人も、その物事を行った事を評価するべきです
できない事がマイナスの評価になる事がおかしいのだと思います

競争が良いのは、競い合う事でより良いものが生まれるからです
決して争って勝つ事が良いわけではありません
しかし、今の社会にある競争は、ただ勝つ事だけを目的にする競争ばかりが目立ちます
競う事はせず、どちらの力が強いのかで争っているだけの競争が目につきます
それは、数字による結果だけを求める社会になっているからだと思います
誰のために何をするかでなく、ただ数字があがれば全て良しとする、社会になっているからだと思います
数字が良い事は大事だと思います
数字は、その行動がどれだけ有益だったかを表す指標になるからです
しかし、数字だけ良ければ有益な事になっているかと言うと、そうではない事が今の社会では多く存在しています
何か有益な事で生み出されるものではなく、今あるものを奪い合う事であがる数字が多くなっているように思います
そんな社会には本当の競争はなく、ただ争って他から搾取していく競争しかないように思います
今の社会で、適切な競争を字で表すなら、競争と言う字は不適切で、競い創造していく、競創とした方が良いと思います
或いは、ともに競うと言う意味で、競双とするのも良いように思います
どちらにせよ、競争するのであれば、競い合ってみんなが喜ぶ事を創り上げる事を求めて欲しいと思います
力あるものが競う事なく、勝つ事だけを目的にした、力任せな方法で戦う競争にだけはなって欲しくないと思います

競争が必要なのは、競い合い張り合う事で、より良いものができあがるからです
勝った負けたは、結果としてありますが、より良いものができあがらない競争で勝っても、何も意味がありません
私たちはいつから、物事を勝ち負けで判断するようになったのでしょうか
勝った負けたは、結果でしかありません
結果は終った事、過去の事です
過去の事がこれからの未来の事に関係する事はありません
未来を考えていくための材料にはなりますが、過去が未来に何かしてくることはありません
なのに人は、過去である勝ち負けにこだわるのでしょうか
勝ち負けの結果が出た時点で、その競争は終わっています
どんなに競争をしていても、ただ勝つ事だけ考えていては、未来に何も役立ちません
勝ったと言う結果だけでは、未来を進んでいく為の材料にはならないのです
同じ条件で何かを行えば、必ず勝ち負けはあります
しかし、勝つ事だけ考えている行動には、未来を向けた有益な材料はないように思います

あの人には負けるけど、あいつには勝っている
そう思う事で、満足している事はありますか
そんな他と比べて自分を評価している事はありませんか
誰に勝とうが、誰に負けようが、自分は自分です
勝ち負けで、自分の価値を見てしまう人は
競う事のない、争うだけの競争に囚われている人だと思います
お互いが競い合う事のない、争うだけの競争です
争うだけの競争が多くなったら、世の中どうなるのでしょうか
その答えは、あなたの心の中にあると思います
周りは関係ない、自分だけ良ければいい
心にそんな思いがある人は
争うだけの競争をしている人だと思います
争うだけの競争社会は、自分の事しか考えない社会だと思います

本当に自分が良くなりたいと思うなら
自分の事しか考えない、争う競争ではなく
競い張り合って、より良いものを創り上げる競創をしましょう
そんな競創する行動には、癒しの心があります

癒しの心『おかしいと思う』

癒しの心 カウンセリング

「わかる」と「理解する」の違い

自分が理解できない事をする人に対して「おかしい」と思う事はありますか
自分には理解できない事をおかしい事だと思う事は不思議ではありません
しかし、自分が理解できない事をおかしいと思った事が、実際におかしい事であるかどうかは自分が思っただけでは判断できません
自分には理解できなくておかしいと思う事でも、他の人には理解できておかしくないと思える事もあるからです
法律やルールでその事がおかしいと決まっているなら別ですが、そうでない事であるならその事をどう思うかは人それぞれだと思います
時に私たちは、自分が理解できない事があると、その事を「おかしい」と決めつけて排除しようとしてしまう事があるように思うのです
しかし、自分が理解できない事を「おかしい」としては排除してしまうのはもったいない事だと思います
自分が理解できない事は、自分が成長していくために必要な課題を表してくれるからです
固定観念にとらわれて頭がガチガチになって、物事の一部しか見えていない自分の心の狭さに気づかせてくれるヒントになると思うのです
自分が理解できない行動をする人を、自分勝手でわがままな人だと思うのは、どこかに自分も自分勝手でわがままな事をしたいという願望があるのかもしれません

自分が理解できない事をする人がいたら、あなたはどうしますか
その事を「おかしい」とその人に言いますか、それとも言いませんか、或いは、理解できないけど理解したフリをして「いいね」と言いますか
多くの人は「おかしい」とは言えないのだと思います
「おかしい」と思うけど言わないのではなく、「おかしい」と言いたいけど言えないのだと思います
相手に「おかしい」とストレートに言ったら角が立つので言えない事がほとんどだと思います
相手に「おかしい」とはっきり言う人は、そんな事はお構いなしの自分の事しか考えていない人かもしれませんが、意外と根は素直な人なのかもしれません(おかしい事を非難する場合は別ですが)
一番問題をややこしくするのは、理解したフリをして、おかしいと思う事を誤魔化していく人だと思います
「わかる」と同調して理解しているようにしてしまう人です
自分が理解できない事がわかることは、当たり前ですがありません
もし理解できないのに「わかる」と思うなら、それは、初めからその事を理解する気がなくただ合わせていればいいと思っているだけだと思います
自分は何でも許容できる心の広い人だとアピールする事で、上手くいけば自分にとって得になる事があると思っているだけかもしれません
何も理解しないで相手に同調している人は、相手の為ではなく自分の為にしているだけだと思います

自分が理解できない行動があっても、まずはその行動自体を認識していきましょう
その行動を認める必要ありませんし、理解しよとする必要もありません
まずは、そんな行動もあるのかと頭の中に留めて、ただ認識してみて下さい
無理に理解しようとすると、理解できない自分がおかしいと思ってしまい、自分を否定してしまう事にもなります
それはおかしいと否定する事で片づけてしまうのです
自分にはわけわからない事でも、その人にはそれなりの理由があります
それが理解できないからその事をおかしいとすることは、自分の成長を自分で止めてしまっているのと同じです
自分が理解できないから相手をおかしいと言っているのは、自分は完璧な人間で自分が理解できない事はないと思っているのと同じです

自分が理解できない事をおかしいとして処理する事はやめましょう
自分だけの判断で、他の人の行動をおかしいと判断するのは危険です
自分が理解できない事をすべておかしいとしていては、本当の真実を理解する事ができなくなります
理解できるできないは、相手の問題ではなく自分の問題です
自分がわからない事をそのままにしていては、その事を正しく判断することはできません
良く「わかっているけどできない」と聞くことがありますが、わかっている事ができないことはありません
それは、わかっているのではなく、知っているだけなのだと思います
本来、「わかる」と「理解する」は同じ意味で使われます
しかし私たちは、ただ知っているだけの事をわかっていると言ってしまう事があるように思います
知っているだけならその事ができるとは限りません
なので、知っている事とわかっている事を同じ意味で使われてしまうとちょっと困ってしまします
そこにあるのは、わからないと思われたくない、人と違うと思われたくないという自己防衛の心があるのかもしれません
自分が理解できない事は何でも理解する必要はないと思いますが、だからと言って理解できない事を排除していく必要もないと思います
理解できない事をおかしいと思ったとしても、その事を否定して排除せずにその事実のみ肯定する事が必要だと思います
事実は肯定する事で初めて認識する事ができ、わからない事を理解できるようになる心の準備ができるのです
自分がそれを行うかどうかは別として、なぜそう言う事があるのかが少しづつ理解していけるのだと思います

自分が理解できない事をおかしいと思ってしまう事は問題ないと思います
問題なのは、その事を理解しないでおかしいと結論付けてしまう事にあるのだと思います
理解できない事をおかしいと思う事がおかしいのではなく、理解できない事を理解しないまま、なぜその事をおかしいと思うのかを知ろうとしない、自分の心がおかしいのだと思います
自分が理解できない事を排除して、今の自分にある常識の尺度だけで物事を見てしまう事が、世の中にある色んな差別を生んでいるように思います
人は、自分に理解できない事がある心の不安から逃れるために、理解できない事を「おかしい」としているだけなのかもしれません
自分がおかしいと思っただけで排除するのではなく、おかしいと思った事をきちんと理解できるようにしていく事が大切なのだと思います

自分に理解できない事があったら、それは自分を成長させるチャンスです
自分が理解できない事をおかしいと思うのは
理解できない事を理解しようとしない自分がいる証拠です
理解できない事だけをまずはただ認識してみて下さい
そんな事もあるのかと心のはてなボックスに入れてみて下さい
はてなボックスにある事が理解できたとき
人はより良く成長していくのだと思います

今の自分に理解できない事はありますか
もしあるのなら、おかしいと排除せず
心のはてなボックスに入れましょう
そして、それを少しづつ認識しましょう
その存在を認められる事が
その事を理解する第一歩になります

癒しの心『ありのままの自分』

癒しの心 カウンセリング

ダメなままの自分にはならない!

ありのままの自分とは、どんな自分なのでしょうか
その答えは、自分自身の心の中にしかないのだと思います
人は誰しも、良い所もあれば、ダメな所もあると思います
ありのままの自分とは、良い所もダメな所もすべて自分であると認めて受け入れる事ができる、自分のことを言うのだと思います
今の自分ってどんな自分なんだろうと、自分で自分の事を客観的にじっくり見て、見えた自分を全部「そだねぇ」と女子カーリングの選手みたいに受け入れる自分が、ありのままの自分なのだと思います
もしあなたが、今の自分のすべてを受け入れられないと思うなら、それは何故でしょうか
今の自分を受け入れる事は、自分が受け入れると決めれば誰にでもできます
誰かの許可や承諾をもらう必要もなければ、「いいね」の数やインスタ映えを気にしていないとできないというものではありません
なのに、今の自分を受け入れられないと思うのは、自分自身の心の問題なんだと思います
自分に良い所なんかない、ダメな所しかないと思っている人は、自己卑下して周りの同情を買おうとしている、ただの甘えん坊なのかもしれません
逆に、自分にダメな所なんかない、良い所しかないと思っている人は、自惚れる事でしか自己主張できない、ただ臆病な人なのかもしれません
どちらにしても、甘えん坊や臆病さで自分を受け入れられないのは、周りの事を気にしているからではないでしょうか
自虐的な言動で同情をかったり、大げさに自慢して自分を大きく見せる事で、周りの目を欺こうとしているのだと思います
そこには、全ての物事を良い悪い、正しい正しくないで判断しようとする、私たちの間違った価値観があるように思います
本来、物事の良い悪い、正しい正しくないは、その人それぞれの主観で判断されているものです
良いのか悪いのか、正しいのか正しくないのかと言う判断は、個人の主観によるものだと思います
そう言った意味で、物事の良い悪いや正しい正しくないという正義を判断するには、個人の主観ではない、共通するルールによって判断する必要があるのだと思います
しかし私たちは、「普通は」「皆が」「一般的には」などと言う言葉を使って、主観的の正義を正当化しようとする事があるのだと思います
やたら「いいね」を欲しがる、或いは、やたらと見映えを気にするのは、その表れのような気がします
また、何かと人を否定したり、強引に同意を求めてくる人も同じように思います
この事が、ありのままの自分でいることが、ダメなままの自分であると思う弊害になっているように思うのです

ありのままの自分を認めましょう、言葉でいうのは簡単ですが、やろうと思うと中々難しいものだと思います
特に自分のダメな所を認めて受け入れる事は、頭でわかっていても感情的には難しいのかもしれません
それはわかるけど、ダメなものはダメで、例え受け入れたとしてもダメなままでしょ
もし、ダメな自分を受け入れてしまったら、ダメなままの自分になって何も変わらないじゃないか、そう思う人はいるかもしれません
ダメなままの自分では嫌だ、ダメな自分を変えたいから、ありのままの自分ではいけない、そう思う人もいるかもしれません
ありのままの自分と、ダメなままの自分は同じことではありません
言葉は似ていますが、意味はまったく違います
ありのままの自分は、ダメな自分を受け入れている事ではありますが、同時に、良い自分も受け入れている事を言います
ダメな自分を受け入れると、ダメなままの自分になると思ってしまう人は、自分の良い所を受け入れられていない人だと思います
自分にある良い所を受け入れてしまうと、ダメな自分が浮き出てしまい、自分のダメな所が余計に目立ってしまうという心理が働いているのかもしれません
大事なのは、周りからどう思われるかではなく、自分がどう思うかです
周りや自分がダメだと思っていなくても、ダメな所はダメです
逆に、周りや自分がダメだと思っていても、ダメな所はダメです
周りが思っても思っていなくても変わりはないですが、自分が思っているか思っていないかは、今後のダメな自分にとっては雲泥の差になります
自分がダメと思っていなければ、ダメな部分は自分の中ではない事になっているので、気持ちの上では良いかもしれません
しかし、あるものを無いとしてしまうのは、その後の自分の行動にとても大きな弊害を生む事になります
であるなら、自分はダメだと思っていた方が良いのだと思います
自分がダメだと思う事で何か得するかはわかりませんが、大きな弊害を生む事は避ける事はできると思うからです

人は、ダメな自分をどうして認めたくはないのでしょうか
ダメな事を思ってしまうのと、実際にその行動するのとは違いますし、仮にダメな行動したとしても、ダメな行動してしまったと自覚するのと、そんな事はしていないと自分を正当化するのでも違うと思います
私にも、ダメな自分がいますし、いつまでたってもダメな所はダメなままです
そんなダメな自分を突き離すのではなく、これも自分なんだなぁと、その都度向き合って受け入れていきます
だからと言って、ダメなんもんはダメだからしょうがない、のように開き直っているわけではありません
ダメな自分だけど、ダメはダメなりに、迷惑かけないようにそれなりに頑張るようにしています
ダメな事を良い事にしようとしても、大抵は上手く行きません
逆に、余計にダメな事にしてしまうことの方が多いように思うのです
ダメな事を良くしようと思うから、上手く行かないし、苦しくなるのだと思います
ダメな事を、それなりにする事は実はそんなに難しい事ではありません
自分を良く見せようとはせずに、自分の良い所に着目していけばいいのです
一番の方法は、自分ができる事を誰よりも率先して行うことです
自分の良い部分を活かして、自分ができる事をしていけば、ダメな自分でしなくてはいけない事は少なくなります
仮に、自分のダメな部分で何か失敗しても、自分の良い事で周りに貢献していると、ダメな所を責めたり、恥ずかしいと思う事はなく、逆に周りからは、そんな一面もあるんだねと、親近感を持たれる事にもなります
それでも、自分のダメな部分を使わなければいけない事になったら、とにかくこなす術を見つける事です
上手くできるとか、かっこつける事は考えず、その事をするために最低限必要な事をだけを、自分のできる範囲で行っていくのです
もうちょっとできるかもと色気を出さずに、最低限必要な事だけに集中しましょう
周りから良く思われたいという思いは誰にでもあります
だからこそ、ダメだと思われる事は嫌なんだと思うのです
しかし、何でも周りから良く思われたいという欲張りな考え方は捨てましょう
それができれば、自分のダメな所が目立ってしまうような場面に遭遇する事もなくなると思うのです
攻撃は最大の防御と言いますが、自分の良い所を率先して出していく事が、ダメな自分を守る最大の防御になると思います

あなたは、ダメな自分を受け入れる事ができますか
ダメな自分を受け入れると、ダメなままの自分になると思いますか
それとも、ありのままの自分になると思いますか
良い所だけしかない、そんな人間は存在しません
ダメな所があるから、良い所があるのです
ダメな所を認めないのは、良い所も認めないという事です
ダメな自分と良い自分を認めて受け入れる
ダメなままの自分ではない、ありのままの自分でいる
そこには『癒しの心』があるのだと思います