癒しの心『質問のマジック』

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質問の意図を知る

先日、飲みにケーションはありかなしかのアンケート結果を見かけました

ありとないは半々くらいの結果だったと思いますが、なしを選んだ人の理由が興味深かったです

飲みにケーションはなしと答えた人は、コミュニケーションがないからという理由が多かったように思います

確かに、コミュニケーションのない飲み会はなしというのはわかります

しかし、飲みにケーションという造語はコミュニケーションのある飲み会の事だと思うので、コミュニケーションがない飲み会は飲みにケーションにはならないように思います

飲み会でコミュニケーションは取れないというのであれば、飲みにケーションはなしというのもわかりますが、アンケートでなしと答えた人の多くはコミュニケーションがのない飲み会は嫌なだけで、コミュニケーションのある飲み会であればありという人が大半でした

そうであるならば、ほとんどの人が飲みにケーションはありになるはずなのに、実際には半々の答えという結果になっていました

質問した側がコミュニケーションがない飲み会はありかなしかを聞きたいのであれば、その結果でいいのかもしれませんが、もし違うのであれば、質問の意図が質問される側に伝わっていなかっといえるると思います

もしかしたら、飲みにケーションをコミュニケーションがない飲み会の事だと思っていたのかもしれせんが、コミュニケーションのある飲み会である飲みにケーションを、コミュニケーションがない飲みにケーションと混同する事があっては、適切な統計が取れる質問になっていないように思います

飲みにケーションに関する質問がどちらの意図でされたのかはわかりませんが、ありかなしという二択の質問は、質問をした人と質問をされた人と間に質問の意図に関するズレが生じる事があるように思います

ありかなしかの二択で聞かれてしまうと、質問で聞かれている事の意図とは違う解釈をしてしまう事があるように思います

多くの事がありの事もあればなしの事もあり、どちらでもないという事もあるように思います

科学の正解においてもあるという事は証明できても、なしという事を証明する事はできないという事を聞いた事があります

そのため、科学的な専門家がなしと言っている事は、正確に表現すると科学的にあるという事が証明できていない事がある、という事になるそうです

個人的にその事がありかなしかは個人が決める事だとは思いますが、個人的に思うありかなしかで一般的なありかなしかかが決まる事はないと思います

規則やルールで決まっている事であるならば、ありかなしかはそれ従って決めれば良いと思いますが、そうではない事に関しては、どちらになるかは人それぞれ違っていてもいいと思います

ありかなしのアンケートはただどちらが多いのか統計を取りたいだけかもしれせんが、その質問が人の思考を狭めてしまい、質問の意図が理解されない答えを誘導してしまう事があるように思います

ありかなしかの質問は答えが明確である反面、物事にある事実や人の心の思いを的確に表しているとはいえない事が多いように思います

男女の友情はありかなしかという質問も良く耳にしますが、実際にあるかないかでいえばあるだと思います

もちろん、質問している側は個人的な意見の統計を取っているだけの時もありますが、ありかなしかの質問の答えがどちらか片方だけが多かった時は、なぜか少数の方がおかしいという事になる事があるように思います

実際にそうする人がいればその事はあるという事になると思うのに、なしと思う人が多いという理由だけでありはおかしいとしていくのは違うように思います

ありかなしかの質問は、実際にあるかないかを聞いているのではなく、自分はどう思うかを聞いているだけなのに、自分の意見が多数派になった時に少数の人の意見を「おかしい」とするのは違うと思います

あっても何も問題がない事を自分と違う少数意見だからというだけで「おかしい」と否定するのは、その事の方がおかしい事だといえると思います

ありかなしかの質問は質問している側が何を聞いているのか、その意図を理解せずにいると思わぬもめ事に発展する事もあるように思います

人は質問の意図を理解しないまま、その質問に答えてしまう事があるように思います

もちろん、質問している側が意図を理解してもらいやすいように質問をしていない事にも問題はあるとは思いますが、何を質問しているかがわかりにくい時は「それはどういう事ですか」と聞き直す事が必要だと思います

質問されたらすぐに答えなければいけないという事はなく、質問されたらすぐに答えなければいけないと思ってしまうと、質問の意図を理解できない事にまで応えようとしてしまう事があるように思います

世間話のような会話であればそれでもいいかもしれませんが、質問されたらすぐに答えなければいけないと思ってしまうと、質問の意図を理解しないと答える事ができない事にまで答えてしまう事があるように思います

特に、ありかなしかのような二択の質問に場合は、質問の意図を理解しないまま答えてしまう事があるように思います

そのよう事を続けていると、自分でも気がつかない内にすべての事をありかなしかで考えてしまう事もあるように思います

この質問は何を聞きたいのか、その意図を理解しないまま自分の想像で答えていると、知らず知らずのうちに自分の意志とは違う方に流されてしまう事もあるように思います

質問に答えるにはその質問で相手が何を聞きたいのか、その事を理解する必要があるといえます

特に、質問する方が「どう思いますか」「どう何ですか」という抽象的な質問をしている時は、何に対してどうなのかを確認する必要があると思います

特に答える必要がない事であれば「どう」という質問に答える必要はないと思いますので、仮に答える必要がある事があっても自分の想像で答えていてはいけないと思います

その時は、「どう」は何に対して「どう」なのか、その事を理解する事が必要だと思います

相手はその質問をする事で自分の何を知りたいと思っているのか、そして、自分はその質問をしている人に何を伝えたらいいのか、それは質問の意図が理解できなければできないように思います

ありかなしかの二択の質問は答えやすさがある反面、人の思いを誤解させてしまう事がある質問の仕方だと思います

ありかなしかの議論をしていても有益なものが生まれる事はないように思います

ありかなしかの質問をされたもので、実際に存在し、法律違反ではなく、道徳や倫理違反でもないものであれば全部ありだと思います

社会的にあってはいけないものでなければ、実際に存在している事であれば、ありかなしかの質問はすべてありになると思います

自分はその事をしないと、その事がなしという事は違うと思います

存在していてもいい事に対してありかなしかの質問をしてなしという答えが出る事は、質問の答えとしては間違いだと思います

もしその質問をしたいのであれば「あなたはその事をしますかしませんか」になると思います

自分がするかしないかと、その事がありかなしかは全く別の話だと思います

質問の答えが全く別の質問の答えになってしまうと、人の思考に歪みが生じてきてしまい、その内に捻じれていく事もあるように思います

思考に歪みが生じ捻じれていくと、あってもいい事を自分がしないという理由だけでなしと思ってしまう事があるように思います

そう思ってしまうと、自分がしない事はすべてなしだと思うようになり、自分がなしと思う事をする人をおかしいと思ってしまう事があるように思います

それがエスカレートすると、ありかなしかではなく、自分と違う人をおかしいと思っていき、自分と違う人を阻害してしまう事があります

自分と違うというだけで誹謗中傷したり、差別してしまう事もあるように思います

自分がその事をするかしないかと、その事がありかなしかは違うという事を理解できれば、自分個人のありかなしかだけで、物事のありかなしかを決める事はしなくなっていくと思います

自分がしないという事だけで
その事のありかなしかを決めている事はありませんか

個人的なありかなしかは自分で決めても構いませんが

それ以外のありかなしかを
自分の個人的な意見だけで決めるのは良くないと思います

その事が法律や道徳、倫理に反していない事であるならば
自分がしないという理由ではなしにしてはいけないと思います

自分がなしと思っている事は本当になしの事なのか

よく耳にするありなしの統計に惑わされて
あってもいい事をなしだと思っていたりしませんか

ありかなしかの質問がされている時点で
その事はあってもいい事だと思いますので
あってもいい事のありかなしかの質問の答えは
すべて「あり」になると思います

ありかなしかの質問にある意図は
自分にとってはでありかなしかだと思え
例え自分の意見が多数派になったとしても
存在してい事がなしになる事はないと思います

その事がわかっていても
理解までしている人は少ないように思います

誰もがしてはいけないと思う事はなしだと思いますが
もしそうであるならば
ありかなしかの質問自体が成立しないように思います

自分がするからありで、自分がしないからなしは
その事がありかなしかの答えにはなっていないと思います

質問の答えになっていないものを答えだと思う事ほど
自分の思考が歪んでいく事はないと思います

その事があってもいいのに自分はしないという事で
その事がある事を否定している事はありませんか

もし、そのような事があるならば
思考が歪んできているかもしれません

思考が歪んできている時は
思考の歪みを元に戻す事が必要です

思考の歪みをそのままにしていると思考は捻じれていき
他の人や自分の心を傷つける行動が増えていきます

思考の歪みを戻すのは自分一人では難しい時もあるので
自分の心の思いのすべてと向き合う事で
自分の思考の歪みを元に戻していく
癒しのカウンセリングを活用するのも良いと思います

筆者の本
本3

癒しの心『きれい事』

癒しの心 カウンセリング

きれい事にある真意

「きれい事だ」そう思う事はありますか

きれい事と言う言葉を辞書で調べてみると、「実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄」と載っています

その他にも「手際よく美しく仕上げること」とも載っていますが、きれい事という言葉が使われる時は「実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄」の意味の方が多いように思います

確かに「きれい事だ」と言われる事に、そのような意味に該当する事があるようには思います

しかし、すべての「きれい事だ」がそうかといえばそうとは限らず、本当はきれいな事なのにの事をしていない自分を隠す為に、きれいな事をきれい事だと言っている事もあるように思います

きれい事だという言葉だけでは、それが体裁ばかりを整えた事なのか、きれいな事をしていない自分を隠そうとしているかは外から見ているだけではわからないように思います

それなのに人は「きれい事だ」という言葉の強さに惑わされてしまい、きれいな事をしていない事を隠そうとしている事を体裁ばかりを整える事であるできれい事だと思ってしまう事があるように思います

きれい事と言う言葉をきれいな事をしていない自分を隠す為に使う時にあるのは、楽をする心だと思います

きれいな事をした方が良い事はわかっていても、楽をしたいという思いが強いとそれをしようとしない事もあるように思います

そこには自分の事だけを考える思考があるように思います

誰もが自分の事を考えるとは思いますが、自分の事を考える事は自分の事だけを考える事とは違います

自分の事を考えるとは自分の事と同じように周りの事も考える事で、同じ自分の事であっても自分の事だけを考える事とは雲泥の差があります

しかし、自分の事と自分の事だけの間にはただ線が引かれているだけで、自分がその線を越えないように意識していかなければ簡単に越える事ができてしまいます

普段は自分の事を考えている人でも楽をしようと思ってしまうと、自分の事の線を越えて自分の事だけ考える思考に踏み入ってしまうようになります

楽をする事がいけないという事ではありませんが、楽をする事でした方が良いきれいな事をしていかないのであれば、その楽はしてはいけない楽だと思います

本当に体裁ばかりを整える為だけの事を「きれい事だ」と言っているのであれば何も問題はないと思いますが、そうでない時は問題があると思います

きれい事だと言われている事がどちらに該当しているのか、その事を自分がしっかり見極めていく事は必要だと思います

口が上手い人ほど、自分の良くない行動を隠す為にきれい事だという言葉を使う事があるように思います

本当にきれいな事をしていく為には、楽をしながらできる事はないように思います

楽をするどころかどちらかというと労力がいる事の方が多く、時には苦労する事もあると思います

きれいな事をする為の苦労が楽になるのは良い事だとは思いますが、苦労はしたくないときれいな事をきれい事だと偽って楽をしようとするのは良くないと思います

時おり見かけるのが、きれいな事をできないというよりはしたくないので、きれいな事をきれい事だと言ってきれいな事をしない自分を隠そうとする事です

こうした方が良いと思った事を提案すると「良いのはわかるがそれはきれい事だと」とサラリーマン時代に言われた事があります

良いのがわかると言っている時点で、その人もその事が良い事であると思っているといえ、良いと思う事をきれい事だというのは言葉としては適切ではないと思います

その後に何度も提案し直してもきれい事だの一言で取り合ってもらえない事がありました

今から思えば、私の提案の仕方にも不十分な所があったとのかもしれませんが、その時は自分の思いが強すぎて相手の状況を見る事ができていなかったように思います

後から思えばきれい事だと言っていたのは、良い事であっても自分はその事をしたくないがそれをしたくないと言えなので、きれい事だと言って突っぱねていただけのように思います

した方が良いきれいな事をきれい事だと言われてしまう事があるのは、した方が良いきれいな事をしたくないという思いが隠されている時だと思います

きれい事と言われる事が本当にきれいな事であるならば、そのきれい事はした方が良い事だと思います

きれい事という言葉は、きれいではない事の体裁を整える為に使われているのか、きれいな事をしたくない為に使われているかは意外とわかるような気がします

それなのにきれい事という言葉が使われると、きれいな事であってもきれいではない事のように思ってしまう事は良くあるように思います

きれいな事をしていない事の責任から逃れる為に、きれい事という言葉を利用している事もあるように思います

時にはきれいな事をする事が難しいかどうかで、その事がきれい事かどうかが決まってしまう事があるように思います

そこに居る人の多くが難しいと思う事であればきれい事になり、そでなければきれいな事になる、そんな事があるように思います

個人的には、その事がした方が良い事であれば、どんなにきれい事だと言われる事があってもそれができるようにしていく方が良いと思います

例え、現状ではできない事であっても、その事をきれい事だとしてその事から目を逸らしていく事は良くないと思います

多くの「きれい事だ」と言われる状況には、きれい事だ言っている事をした方が良いのはわかるけどできないという状況があるように思います

仮に、したくてもできない状況があるならば、少しでもそのきれい事と言われているした方が良い事ができるようになる状況になる為に今の自分たちができる事をした方が良いと思います

それなのに、そのような行動をする事もなく頭から「きれい事だ」と言っている事は、その事からただ逃げようとしているだけのように思います

そこには、自分が良ければいいと思う、自分の事だけを考える利己的な思考があるように思います

できる事ならした方がが良いと思う事であれば、どんなに多くの人がその事を「きれい事だ」と言っていたとしても、した方が良い事だと思います

その時に大事なのは、まずは今の自分たちにできる事から始める事だと思います

今の自分たちができない事ができる人はいません

できない事はまずはできるようになる事が必要で、できない事を「きれい事だ」と言って避けていてはできない事ができるようになる事はありません

「きれい事だ」と言っている事が、今の自分たちにはできない事でありならば、その事ができるようになる為に今の自分たちは何をしていけば良いのかを考えていく事が必要です

それを考えるには「きれい事だ」と言って避けるのではなく、その事ができていない自分と向き合う事が必要です

した方が良い事だけど今の自分たちにはできない事であっても、その事と向き合う事によって、自分たちが何ができるようになればその事ができるようになるかがわかってきます

今の自分たちができないした方が良い事を「きれい事だ」と言って向き合わないようにしていては、した方が良い事ができるようになる事はなく、自分たちが成長していく事もありません

今の自分たちができないした方が良い事を「きれい事だ」と言って、できない自分をできるように見せかけていくのはやめましょう

どんなに「きれい事だ」と言って、した事が良い事をしなくて良い事に見せようとしても、その事が本当にした方が良い事であれば、最終的にその事で困るのは自分だと思います

「きれい事だ」そう思う事は、体裁ばかり整えている事なのか、自分がしようとしていないした方が良い事なのか、どちらの意味で言っているかで、自分の人生は大きく変わってくると思います

きれい事という言葉にある真意を見間違えてしまうと、自分の人生にとって大きなマイナスになっていくように思います

した方が良いきれい事だは、きれい事と言うよりはきれいな事だと思って、そのきれいな事をしていけるようになる為にしていく事が必要だと思います

「きれい事だ」そう思う事はありますか

体裁ばかリを整えて実情がない事であるならば
その事はきれい事だと思います

しかし、そうでない事はきれい事ではないと思います

どんなに多くの人が「きれい事だ」と言っていても
本当はきれいな事であるならば
その事をきれい事と言うのは違うと思います

どんな事もきれいにできた方が良いと思いますが
すべての事が完璧にできる事はないと思います

それなのに人はきれいな事であるならば
すべて完璧にできなければいけないと思う事があります

すべての事が完璧にできる事がないのであれば
きれいな事がきれいにできない事もあるはずなのに
なぜかきれいな事に関しては
できない事はいけないと思う事があります

そう思ってしまうと
きれいな事ができない自分がいる時は
その事を「きれい事だ」と言って
きれいな事ではないように見せていくように思います

きれいな事を「きれい事だ」と言う事で
きれいな事でなくなる事はありません

きれいな事を「きれい事だ」と言って
その事をしなくても良いようにしている人が
なりたい自分になっていけるとも思いません

今の自分がきれいな事ができていなくても
きれいな事ができるようになる方が良いと思って
できていない今の自分を自分が認め、受け入れる事で
その事ができるようになる行動がわかってきて
なりたい自分になっていけるようになると思います

筆者の本
本3

癒しの心『知らない不安』

癒しの心 カウンセリング

答えを求めてしまう

知らないという事に不安を感じる事はありますか

知らない事があるならば知るようにすればいいのですが、それができない事もあると思います

それが何であるかがわかっていない事は、知ろうとしても知る事ができない事だとは思いますが、そうでない事であれば、その事は知る事ができない事ではなく自分が知ろうとしていない事だといえます

そこには、知らない事への不安が大きく関係しているように思います

人が知らない事に不安を感じる事があるのは、知らない事に自分が知りたくない事実があるかもしれないと思っているからかもしれません

どんなに知らない事でも、その事を知る事が自分のプラスになる事しかないと思っている事であれば、人は誰でもその事を知ろうとするとは思います

逆に、その事を知る事が自分にとってマイナスになると思う事であれば、誰もが知ろうとはしていかないように思います

知らない事に不安を感じている時は、その事を知る事がどちらになるかが自分でもわからない時だと思います

自分にプラスになる事であれば知りたいけど、マイナスになる事であれば知りたくない、そう思っている時のように思います

知らない事を知る事が自分にとってプラスになるのかマイナスになるのかは、自分がその事をどう捉えるかで決まると思います

どんな事であっても自分が知らないという事と向き合い、そこにある事実を受け入れる事ができれば、知らない事が自分にとってマイナスになる事はないと思います

自分にとってプラスかマイナスかは、その事を知っている、知らないで決まるものではないと思います

例え、自分がその事を知っていても知らなくても、その事から受ける影響は何も変わらないように思います

それなのに、知らない事に不安を感じるのは、知ってしまう事で今の自分がマイナスになる事を恐れているからだと思います

特に多くの事を知っていると思っている人ほど、知らない事を知る事を恐れていくように思います

知らない事を知る事を恐れてしまうと、知らない事を知らないと思わないように今の自分が知っている事で誤魔化そうとしてしまう事があるように思います

それだけではなく、知らない事に不安を感じる人は知らない事を恥かしいと思ってしまう事があるように思います

そんな事も知らないのと、他の人に思われるのを恥かしと思ってしまうと、知らない事を知ったかぶりをしたり、知らないという状況を避けようとしていくと思います

そこには、知らない事がある自分をダメだと思う心の弱さや不完全な自分を認めたくないという思いがあるように思います

そんな思いがある人は普段から知識がある事をアピールしたり、誰もが認める肩書を持とうとしたりしていくと思います

本当に知識がある人は知識がある事をアピールしたりしませんし、自分が知らない事は知らないとそのまま言えると思います

知らない事を知らないといえる人は、知らない事に真摯に向き合う事ができるので、知らない事を知る事を不安に感じる事なく、興味を持って知らない事を知ろうとしていくと思います

今の自分の知らない事には、自分が成長していく為に必要な新たな可能性が多くあるといえると思います

知らない事に不安を感じて自分が成長する為の可能性をスルーしていくのか、知らない事に興味を持って可能性を手に入れて今よりも成長していく事ができるかは、知らない事を恥かしいと思うかどうかに掛かっているように思います

知らない事にある可能性を手にできる人は知らない事を恥かしいと思う事なく、知らない事と向き合って受け入れる事ができると思います

知らない事を「知らない」と言っている人に、「そんな事も知らないの」と言っている人の方が、知らない事を恥かしいと思って、知らいない事に不安を感じていくように思います

 

人は自分でも気がつかない内に自分の問題の答えを求めてしまう事があるように思います

自分の問題の答えは自分が出すものだと思っていても、もしかしたら誰かが自分の人生の答えを知っているのではないかと思ってしまうと、答えを求めてしまう事があるように思います

人生の問題の答えは人の数だけあると思います

同じような問題であっても、人によって答えは違うように思います

それなのに知らない事に不安を感じる人は、自分と違う答えの人を「おかしい」と思ってしまう事があるように思います

その人の答えが人としておかしいのであれば、その人の答えをおかしいと思うのは何も問題はないと思いますが、自分と違うという事だけで思っているのであれば問題があると思います

それぞれの人の答えが違う時はあまり問題にはならないとは思いますが、何人かの答えが同じになっている時には問題になってくる事があるように思います

それぞれの答えが違うのであれば、一人が自分と違うというだけで「おかしい」と思っても、そんな事を思う方がおかしいと他の人に一蹴されていくように思います

しかし、「おかしい」と思う人と同じ答えの人が多い時は、自分たちと違うという事だけでおかしい事になってしまう事があると思います

ただ同じ答えになっている人が多いというだけで、それぞれ違う答えがあってもいい事を自分たちと違うという事だけで「おかしい」と思うのは、知らない事への不安があるからだと思います

自分の答えと違う答えがあるという未知の事を受け入れる事ができず、自分が知っている答えだけで物事を判断しようとしているように思います

人は誰もが初めは知らない事の方が多かったはずです

子供の事は誰もが、自分が知らない事に不安ではなく興味を示していたと思います

それなのに物心が付いて知っている事が増えてくると、今の自分が知らない事に興味を持つよりも不安になる事の方が多くなっていくように思います

自分が知っている事の世界にいれば知らない事の不安にさらされる事はなく、安心した生活をしていく事ができると思っているのかもしれません

しかしそうなってしまうと、自分の知らない事に直面する事があると知らない事に不安を感じて、誰かに答えを求めてしまうようになると思います

知らない事に答えを求めてもその答えが見つからない時は、今の自分が知っている事の中だけで無理やり結論づけようとしていくように思います

特に専門家という肩書を持っている人はその傾向があるように思います

専門家の人は自分が専門にしている分野において多くの事を知っている人だと思います

その事はすごい事だと思いますが、多くの事を知っている事とすべての事を知っているという事は違うと思います

一番多くの事を知っている専門家であれば、知らない事がないと思ってしまう人たちの認識にも問題があるとは思いますが、どんな専門家でも知らない事があると思います

そうであるこそ、専門家と言われる人たちは学び続けていくように思います

それなのに、知らない事を不安に思っている人たちが知らない事の答えを専門家に求めてしまうと、ミスリードが行われてしまう事があるように思います

これまでのコロナの情報を見ていても、まだ専門家でもわからない未知のウィルスにある知らない事の不安による情報のミスリードが多くあったように思います

まだわかっていないという、知りたくても知る事ができない状態である事を認識していれば、自分がどんな行動するのが良いかをある程度は判断できる事でも、知らない事の不安による情報の錯綜によってできなくなっていたように思います

今はまだ解明できない事に答えを求めれば求めるほどは、知らない事に興味を持つのではなく不安を感じてしまい、知らない事に正面からぶつかる事ができなくなっていくように思います

自分が知りたいと思う事に自分が望む答えが必ずあるとはいえず、自分が望む答えを求めてしまうと知らない事を知る事に不安を感じるようになっていくと思います

詳細がわからない事は世の中にはまだまだある、そう思っていけると、知らない事を不安に思うのではなく、逆に知らない事に興味を持つ事ができ、まだ知らない事にある事実だけを見ていけるようになっていくと思います

そこにある事実は何であるか、それを見ていく事で知らない事が不安になるのではなく興味を持つ事ができるようになると思います

 

あなたは知らないという事を不安に思う事がありますか

自分と違うというだけでおかしいと思う事がある人は
知らない事に不安を感じる人なのかもしれません

規則やルールで決まっている事を破っている
或いは、人としておかしい事をしているのであれば
その行動はおかしいといえると思いますが

そうでなければ、おかしいとはいえないと思います

変わっている、自分はしないと言えても
それだけで、その事をおかしいとはいえないと思います

知識がある人ほどそう思ってしまうのかもしれません

しかし、自分と違うというだけでおかしいと思う事は
違うという事を差別していく事に繋がるように思います

おかしい事であるならばその事はしてはいけない事であり
自分と違う事をおかしいとしてしまうと
自分と違う人はいけない人だと思ってしまい
差別を生む要因になってしまう事があるように思います

知らない事に不安を感じる事があるならば
それは自分が知る必要がある事かを見ていきましょう

もし、自分が知る必要がある事であれば
その知らない事にある事実だけを見る事が必要です

事実を見ていけば、知らない事に不安を感じる事がなく
興味を持って知らない事を知ろうする事ができます

もし、知らない事にある事実を見ていても
知らない事に興味が持てないのであれば
その事は今の段階では知らなくてもいい事だと思います

そのように、知らない事にある事実だけを見ていけば
知らい事を不安に思う事はなくなっていくと思います

 

筆者の本
本3

癒しの心『客観的に見る』

癒しの心 カウンセリング

客観的な視点を持つ

自分は自分で他の人は他の人、そう思う事はありますか

自分は自分であると思っていても、周りの目が気になってつい他の人と自分を比べてしまう、そんな事はありませんか

自分は自分でいる事は、周りの意見を聞かずに自分の以外を受け入れていかないという事ではなく、人は一人として同じ人はいなく、それぞれに違いがあるという事を受け入れていく事だと思います

自分は自分でいる事ができるようになるには、物事を客観的に見る視点が必要だと思います

人は自分の主観を通して物事を見ていると思います

自分の事であっても、周りの事であっても、人は物事を主観的に見ているといえます

主観的とは、自分一人のものの見方・感じ方によっているさまの事であり、主観的に見るという事とは自分の視点だけで物事を見ている事を指していると思います

世の中には全く同じ人は存在していないので、双子であっても、どんなに同じように見えていると思える人であっても、全く同じ視点で物事を見ている事はないと思います

そうであるならば、主観は一人一人違うものであり、ものの見え方が人によって違う事があっても何も不思議ではないように思います

ものの見方は人それぞれだとしても、物事にある事実は一つしかないと思います

物事の見え方は人の数だけあったとしても、そこに存在している事実は一つしかないといえます

事実は一つしかないから、誰もが自分の主観で物事を見ていても大きな問題にならないように思います

しかし、どんな事実があるかが良くわからない事に関しては、それぞれの主観がわからない事を補完してしまい、大きな問題になる事があると思います

誰もが自分の主観で補完しているだけの事を正しいと思ってしまい、収集がつかなくなる事もあるように思います

どんなにわからない事を主観で補完しても、事実がわからない事にある事実は、今はその事がわからないという事実が一つあるだけだと思います

それなのに人は、わからない事をわからないとする事できずに、わからないという事実とは違う事実を自分の主観だけであてはめようとしてしまう事があります

どんなに自分がわかりたいと思っていても、わからないという事実がある事がわかる事はありません

それなのに人は、わからないという事実がある事がわからないのは困ると自分が思ってしまうと、自分の主観だけでわかろうとしていく事があるように思います

それをしてしまうと、それまで事実がわかっていた事まで、事実とは違う自分の主観で補完した事実になってしまいます

自分は自分だという事を自分の主観だけで物事を見る事だと勘違いして、何でも自分の主観だけで物事を見ていくようになっていきます

それでは、人の数だけ物事の事実ができてしまい、それは事実ではなく私実になっていると思います

物事にある実ではなく、私の中で有効な実である私実でしかないように思います

自分は自分を勘違いして、自分の主観だけで物事を見てては、事実を私実にしていくだけだと思います

事実を私実にしない為には自分は自分を勘違いせずに、人それぞれ違いがある事を認めて主観的ではなく客観的に物事を見ていく事が必要だと思います

客観的とは、特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさまの事であり、人は客観的な視点を持つ事ができる事で自分は自分でいる事ができるようになると思います

自分の主観だけで物事を見ていては、本当の意味での自分は自分になる事はできないと思います

主観的ではなく客観的に物事を見ていくには、自分のわかりたいように物事をわかろうとするのをやめていく必要があります

人はどうしても、自分が見たいものだけを見てしまい、聞きたい事だけを聞いてしまい、知りたい事だけを知ろうとしてしまうものだと思います

それでは、自分が見たくないものは見ず、聞きたくないものは聞かず、知りたくないものは知ろうとしないようになっていき、、物事にある事実をそのまま見てく事ができなくなりせん

そんな自分の都合の良い事しか見ていない人が、本当に幸せな人生を送る事ができるとは思えません

物事を客観的に見れていくのと同時に、自分の事も客観的に見れるようになっていきましょう

自分の事を客観的に見る事ができるようになると、どんな自分であってもそのままの自分を受け入れる事ができるようになります

自分の事を受け入れられないと思う事があるのは、主観だけで自分の事を見ているからだと思います

主観だけで自分の事を見てしまうと、自分が見たくない自分は見ず、自分が聞きたくない自分は聞かず、自分が知りたくない自分は知ろうとしなくなるからです

それでは、誰であってもそのままの自分を受け入れる事はできないと思います

本来は、自分の事であれば自分のすべてを受け入れる事は誰もができるはずだと思います

それなのに、自分を受け入れられないと思う事があるのは、主観だけで自分を見てしまうからだと思います

主観だけで自分の事を見るのではなく、客観的に自分の事を見れるようになるにはどうしたらいいのか

人は、自分の事ではなく他の人の事であれば客観的に見る事は意外とできるものだと思います

もちろん、他の人の事を見る時も自分の主観が入りますが、自分の事を見る時のように主観だけになる事はあまりないように思います

他の人の事であるならば客観的に見れるのであれば、自分の事を他の人の事だと思って見る事ができれば、主観的に物事を見てしまう人でも客観的に物事を見る事ができるようになると思います

自分の事ではなく他の人の事である、そう思う事で、自分の主観を少し外す事ができるようになると思います

実際に「自分ではどうしていいのかわからない」という自分の問題から目を逸らしている人に対して、全く同じ問題を、自分ではなく他の人の問題として問いかけてみると、意外と的確なアドバイスをする事ができるものです

問題は同じなのに、他の人の問題だと解決する手段が思いつくのに、自分の問題だとどうしたらいいのかわからない、そう思ってしまうのは自分の主観が強いからだと思います

すべての問題がそうだとは言いませんが、少なくとも客観的に物事を見る事ができると、問題に対して自分は何をしていけば良いのかがわかってくるように思います

自分と同じ問題を抱えている他の人に対しては、自分の問題を解決できていない人でも他の人の問題の解決策はわかる事があるものです

それなのに、どうしたらいいのかわからないと思う事があるのは、自分でもわかっている問題の解決策を自分はやりたくないという思いがごどこかにあるからだと思います

そこには、問題を抱える自分を自分が受け入れる事ができていない自分がいると思います

どんな自分でも受け入れる事ができるようになる為には、客観的な視点を持つ事が必要だと思います

自分の主観があっても構いませんが、主観的な視点よりも客観的な視点の方を強くする事が必要だとえいます

自分はという視点が強すぎる時は、自分の事ではなく他の人の事であったらと思うようにしてみましょう

それでも、主観的な視点が大きいと思う時は、他の人はどう思うのか、自分とは違う視点を持っている人を具体的に思い浮かべて、その人がどういう捉え方をするのかを想像するのもいいと思います

そうしていく事で、自分の主観は弱まっていき、客観的な視点で物事を見れるようになると思います

しかし、客観的な視点で物事を見る為に主観をなくそうとするのは間違いです、主観が全くなくなってしまうと、自分で物事を判断しようと思う事がなくなり、すべての事を自分ではなく他のせいにしていくようになってしまう事があるからです

客観的な視点で物事を見るという事は、決して他の人にすべての判断を委ねて、自分の事を他の人のせいにする事ではありません

客観的な視点で物事を見るという事は、自分の主観と折り合いをつけて事実をそのまま見ていくようになるという事です

事実をそのまま見る事ができれば、どんな自分であっても受け入れる事ができますし、どんな自分であっても前に進んでいく事ができると思います

自分の事を客観的に見る事ができていますか

実際に見えているかという事よりも

見ようとしていく事が大事だといえます

人はどうしても物事を見る時には自分の主観が入ります

主観で物事を見ないようにする事はできないと思いますが

主観だけで物事を見ないようにする事はできると思います

今の自分が見ている事には自分の主観が入っている

そう思って自分が見えている事を見ていく事で

客観的に見ようとしていく事は少しずつできると思います

物事を「そうに違いない」と思っている時は

主観だけで物事を見ている時だと思います

本当にそうであるという事に対して

そうに違いないと思う事はないと思うからです

そうに違いないと思っている事にあるのは

自分の主観だけで「そうである」と思っている事にすぎません

始めは「そうかもしれない」というたたの想像が

「きっとそうだ」という妄想になっていき

主観による「そうに違いない」という思い込みになっているだけです

そうかもしれないというただの想像を

きっとそうだという妄想にしていくのではなく

実際はどうなんだろうという実相にしていければ

物事を客観的に見る事ができるようになっていきます

筆者の本
本3

癒しの心『心の整理整頓』

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心の思いを整理する

自分の心の思いを定期的に整理していますか

心の整理整頓をしていないと、自分の本当の思いが自分でもわからなくなってしまう事があります

周りの事が気になって周りに合わせる行動ばかりをしていると、心の中は周りに合わせるだけの思いで散らかり放題になる事があるように思います

周りに合わせるだけの思いは周りに合わせるだけの思いなので、自分の思いとは違います

周りに合わせるだけの思いと自分の思いが同じであれば、その思いは自分の思いだといえますが、周りに合わせているだけの思いが自分の思いと同じになる事はあまりないようには思います

自分の思いとは違う周りに合わせているだけの思いは、ゴミとまではいわなくても自分の心の中に置いとくには不要な思いだと思います

不要な思いであるならば心の中に残す事なく捨てればいいのですが、周りに合わせる事を一番に考えてしまう人は、そんな思いを「いつか必要かも」と思って捨てる事ができないように思います

それだと、いつ着るかと思って捨てる事ができな衣服が散乱していざという時に必要な服が見つからなくなっている部屋のように、周りに合わせているだけの思いが邪魔して自分の本当の心の思いが見えなくなっていくように思います

いつか着ると思っている服を着る事がないように、周りに合わせているだけの思いが自分の思いになる事はないと思います

そんな時は、心の整理整頓が必要です

心の整理整頓をする事ができれば、今の自分に必要ではない周りに合わせているだけの思いは捨てて、自分に必要な思いだけを残す事ができるようになります

周りに合わせているだけの思いでも、今の自分にとっては必要な思いもあるかもしれません

もし、自分に必要だと思う周りに合わせているだけの思いを残しておきたいと思うのであれば、周りに合わせているだけの思いとして残すようにしていきましょう

周りに合わせているだけの思いを周りに合わせているだけの思いとして残せないと、自分の思い混同してしまい、心の中が散らかり放題になってしまう事があるからです

心の中が散らかり放題になると、どれが自分の思いで、どれが周りに合わせているだけの思いかがわからなくなっていきます

そうなってしまうと、自分の思いを周りに合わせているだけの思いだと思ってしまったり、周りに合わせているだけの思いを自分の思いだと思ってしまう事があるように思います

この思いは本当に自分の思いなのか、そう自分に問いかけて、少しでも違和感がある思いがある時は心の整理整頓が必要な時だと思いま

普段生活している部屋であっても、整理整頓ができていないとどこに何があるのかがわからなくなり、生活に支障をきたす事があるように思います

心も同じように自分で整理整頓をしないと、心の中は散らかり放題のまま自分にどんな思いがあるのかがわからなくなってしまい、物事の判断に支障が出るように思います

部屋の散らかり放題は自分が生活していれば嫌でも目に入ってその状況に気づきますが、心の中の散らかり放題は自分がその事に目を向けようとしなければ気づく事がないように思います

何となく心の違和感があっても、日々の生活や周りに流されてしまい、そのままにしてしまう事の方が多いように思います

部屋が散らかり放題のままでは体の健康に良くないのと同じように、心の中が散らかり放題では心の健康に良くはないといえます

今の自分の心が散らかり放題になっているかどうかは、本当は自分が一番わかっているように思います

「だって、でも、どうして」という言葉が自分の思いに対してある時は、心の中が散らかり放題になっている時だと思います

もし、そうであるならば、そのまま心の整理整頓をせずにいると、なりたい自分とは全く逆の人生を歩んでしまう事もあるように思います

そんな時は、自分の心の整理整頓する時間を持つ為に、ちょとだけ立ち止る事が必要だと思います

自分の事は自分が一番わかっていると思っていても、自分が受け入れたい事しか受け入れていない状態でわかったとしていては、自分の事をわかっているとはいえません

自分が受け入れたくないと思う事を受け入れる事ができて初めて、自分の事を本当にわかっているといえると思います

自分が受け入れたくない自分を受け入れるには、自分の心の思いと向き合う事が必要です

心の思いと向き合い、自分の心の整理整頓していく事ができるようにもなります

人は日々の生活の中で様々な外からの影響を受けます

どんなに毎日が同じ事の繰り返しだと思っていても、まったく同じ影響しかない日はないように思います

人は様々な自分以外の思いの影響を受ける事で心の中の思いで散らかってしまい、そのまま自分で整理整頓をする事がないと、本当の自分の思いがどれなのかがわからくなっていきます

心の中が思いで散らかり放題にならない為には、1日の終わりに自分の心と向き合い、こまめに心の思いを自分で整理する事が必要だといえます

毎日部屋の片づけをしていると部屋が散らかし放題にならないように、毎日思いをしていると心の中が散らかし放題になる事はないと思います

部屋が整理されている方が生活しやすいように、心の思いも整理されている方が適切な判断がしやすくなるように思います

そうはいっても、毎日自分の心と向き合うのは無理かもと思う事があっても大丈夫です

例え毎日向き合う事ができなかっとしても、年末に行われる大掃除のように、一年に一回自分の心と向き合えれば心の整理整頓をしていく事はできます

年末に大掃除をすると部屋が単にきれいになるというだけではなく、これまで見えていなかった部屋の活用できる部分が見えてきたりする事もあると思います

年末の大掃除のように一年に一回は時間を掛けて自分の心と向き合い、心の整理整頓をする事で、これまで見えていなかった自分の心の奥にあった思いが見えてくるようになると思います

どんなに毎日部屋の掃除をしていても、年末の大掃除でなければ掃除できない所があるように、心の中もじっくり向き合わないと向き合えない事もあるように思います

1年に1回はじっくりと自分と向き合い心の整理整頓する事で、自分の心の思いのすべてを自分が理解する事ができ、受け入れたくない自分を受け入れる事ができるようになると思います

自分の心とじっくり向き合うのは言葉で言うほど簡単ではなく、自分では向き合いたいと思っていても向き合う事ができない事の方が多いようにも思います

そんな時に活用してもらいたいのが、相談する癒しのカウンセリングです

相談とは、問題の解決の為に話し合ったり、他の人の意見を聞いたりする事であり、決して誰かに答えを求める事ではないと思います

部屋の大掃除の場合は、掃除をする事を誰かに頼む事ができますが、自分の心と向き合う事を他の人に頼む事はできません

カウンセリングの和訳は相談です、癒しのカウンセリングは自分の心と向き合う為の相談するカウンセリングになります

カウンセラーに相談する事で自分が向き合いたくない思いと自分が向き合う事ができ、自分の心の整理整頓をする事ができるようになっていきます

部屋が散らかり放題だとどこに何があるのがわからないように、心の中が周り合わせるだけの思いで散らかり放題だと自分で自分の思いがわからなくなり、適切な判断ができなくなると思います

散らかっているものを何でもかんでも押し入れんしまって見た目だけきれいにしても、部屋が散らかっている時と本質は何も変わっていないように、心の場合も他の癒しで表向きだけ取り繕っても自分と向き合う事にはなっていきません

どんなに他の癒しで癒される事で、心の中の散らかっている思いを押し入れに押し込む事ができても、自分の心の奥にある本当の思いが見えるようになる事はないと思います

どの思いが自分の本当の思いなのかは自分にしかわかりません

大事な事は、心の中にあるすべての思いと自分が向き合っていく事だと思います

相談する癒しのカウンセリングなどで、自分の心の思いと定期的に向き合い心の整理整頓をする事で、ただ周りに合わせるだけではなく、自分の思いを踏まえて周りに合わせていく事ができるようになると思います

自分の心のすべての思いと向き合う事ができていますか

自分が向き合いたい思いとだけ向き合っていく事は
自分の心と向き合っているとはいえません

向き合いたくないと思う自分の思いと向き合う事が
自分と向き合う事だといえます

しかし人は、向き合いたくない思いと向き合えない事があります
そんな時の為に、相談する癒しのカウンセリングはあります

相談する事でどうしてその思いと向き合いたくないかがわかり
どうしたら、そんなお思いと向き合う事ができるのか
その事をカウンセラーに相談する事で
自分が向き合いたくない思いとも向き合う事ができるようになります

向き合いたくない思いと向き合う事ができて初めて
自分の心の整理整頓ができるようになります

自分で自分の心の整理整頓ができるようになると
周りに合わせるだけの思いに惑わされる事がなく
自分の本当の思いを理解する事ができ
自分だけではなく、自分が関わるすべての人が良くなる事を
考えていく事ができるようになっていきます

それができると、自分の思いを踏まえた
周りに合わせる行動ができるようになります

筆者の
本3

癒しの心『心にある落とし穴』

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未健康な心にあるダークサイド

自分の心は病気ではないけど健康かと言えばそうでもない、そんな状態を個人的には未健康な心と呼んでいます

未健康とは字の通り未だ健康ではない状態の事なので、健康ではないのであれば健康になっていく事が必要だといえます

未健康は病気や未病ではないから、未健康のままでも問題はないのでは、そう思うこともあるかもしれません

確かに未健康な状態でも、自分から健康になろうとしている人であるならば、未健康の状態であっても何も問題はないと思います

しかし同じ未健康の状態でも、自分で健康になっていこうとしていない人の場合は、未健康な状態だからこそ陥ってしまう大きな問題が存在しています

未健康な状態なのに自分で健康になろうと思う事がなく、他の癒しなどに依存していれば健康になれると思い込んでいると、未健康な心のダークサイドという落とし穴に陥ってしまう事があります

日々の生活にあるストレスによって慢性的に心の疲れている時は注意が必要です

心の疲れが慢性的になって今の自分のダメな所ばかりに目がいってしまい、自分と向き合いたくないと心の顔が下を向いている時に、未健康な心のダークサイドに陥ってしまう事が多いからです

事実を見たくないと心の顔が下を向いてしまうと、普段なら見える事のない未健康な心のダークサイドの扉が見えてしまう事があります

普段は見えないものが見えると何故か扉の向こう側が気になってしまい、開けてはいけない扉を自分から開けてしまって未健康な心にあるダークサイドに陥ってしまう事があります

心のダークサイドに陥ってしまうと、下を向いていた心の顔はやがて横を向いていき、最終的には後ろを向いてしまい心のダークサイドの一番深い底まで落ちてしまう事があります

そうなってしまうと、すべての事に後ろ向きになっていき、自分のダメな所はすべて他のせいだと思うようになってしまいます

こんな事を思ってはいけない、そう思ってそんな事を思った自分を否定している時は、自分と向き合う事ができずに心の顔が下を向き始めている時かもしれません

どんなに思ってはいけない事を思ったとしても、思った時点で修正していけば思った事が自分の思いになる事はないと思います

それなのに思った事自体がいけないと思った自分を否定してしまうと、常に良い事しか思わない自分としか向き合えなくなってしまいます

もちろん、良い事しか思わないようになれるのが一番いいとは思いますが、だからといって、良くない事を思った自分を否定していくのは良くないと思います

ただ思った事と自分の思いは違うと思います

その時に思った事は自分が思った事だとは思いますが、その事を思っていて良い事かどうかを見極めて、思っていても良いと思う事だけ自分の思いにすれば何も問題はないと思います

例え、思ってはいけない事を思ったとしても「今の思いは無し」と自分の中でダメな思いを消去していけば、それが自分の思いになる事はないと思います

それなのに、ダメな事を思ってしまう事自体を否定してしまうと、ダメな事を思った自分の心の顔は下を向くようになっていきます

自分が思った事自体を否定していく事は、自分そのものを否定していく事に繋がる事もあり、それだけではなく、思ってはいけない事を思ってしまう自分を否定してしまうと、思ってはいけない事がそのまま自分の心の中に残ってしまう事があります

思っていけない事が心の中に残ってしまうと、そう思っているのは自分のせいではない、いや、そもそも、誰もが思う事で思ってはいけない事ではないなどと、自分の思った事が間違っていると気づいていながら思った事自体を正当化しようとしていきます

未健康な心を自分で健康になると思わないでそのまま放置していると、良い自分だけと向き合いけどダメな自分とは向き合わないようにする為に、ダメな自分を否定する事でなかった事にしようとしていきます

そんな事をしてもダメな自分が無くなるわけでもなく、そのままダメな自分を否定する事でなかった事にしていると未健康な心のダークサイドに自分から陥っていきます

 

心が健康であれば未健康な心のダークサイド自体が生まれる事はありません

心が病気や未病の人も未健康な心のダークサイドに陥る事はありません

心が病気や未病の人は未健康な心のダークサイドを生むだけの心の力がそもそもありません

もちろん、未健康な人であればすべての人が未健康な心のダークサイドに陥るという事ではありません

自分で健康になると思っている未健康な心の人は、未健康な心のダークサイドに陥る事はありません

心が未健康な人でも自分で健康になると思っている人であれば、未健康な心のダークサイドが生まれたとしても自分でその扉を開けようとはしないからです

しかし、未健康のままでいい、或いは、自分では何もせずに誰かに健康にしてもらいたいと思っていると、未健康な心のダークサイドの扉を自分から開けてしまう事があります

自分で健康になると思っていない人は、未健康な心を自分を否定する、或いは妄想や幻想を見る事で、向き合いたくない自分と向き合おうとする事がないので、未健康な心のダークサイドに自分で陥っていきます

心のダークサイドには自分が扉を開けなければ陥る事はありませんが、一度でも陥ってしまうと他の人がそこから引き上げる事は中々できません

病気や未病の心の時は他の力を届ける事で助ける事ができますが、未健康な心のダークサイドには他の力が届かないので助けたくても助ける事ができません

そういった意味では、未健康な心のダークサイドに陥ってしまった心は、病気よりも怖い未健康な心だといえます

未健康な心のダークサイドから脱出する為には、未健康のままではいけない、未健康な心は自分で健康な心になると思う必要がある事に気づいて、自分で這い上がってくる事が必要になります

今の自分の心の顔がどこを向いているかで、未健康な心のダークサイドに陥る危険度は変わってきます

自分が向き合いたくないと思う事と向き合わないように、事実から目をそらそうとしている事があるならば心の顔は下を向いているかもしれません

どんなに心の顔を下に向けて目の前にある事実から目をそらそうとしても、そこにある事実が何か変わる事はありません

それだけはなく、自分が向き合いたくない事と向き合えない事を他のせいにしている事がある時は、心の顔は下ではなく横を向いている時だと思います

心の顔が横を向いてしまうと自分のせいであっても他のせいだと思おうとしてしまい、未健康な心のダークサイドから這い上がる所かもっと底の方に自分から落ちていきます

他のせいにしている自分を肯定してくれる、或いは、正当化してくれる人の言葉が心地よく思う時は、心の顔が横を向いている時だといえます

心の顔が横を向いてしまうと、嫉妬や憎悪の気持ち思い中利が大きくなり、他の人を攻撃する事で自分のダメな所を自分が見ないでいいようにしていきます

他の人を攻撃しても自分が何か変わる事はなく、良くなる事もありません

自分が何も変わらず、良くもならない事に満足感を得ていくほど虚しく、侘しく、哀しい事はないように思います

もし、心の顔が横を向いているのであれば、今の自分が心地いいと思える言葉や、今の自分を何でも肯定してくれる人の声に耳を傾けるのではなく、ちょっと口うるさくて自分にとっては耳が痛くて聞きたくない事でも言ってくれる、そんな自分と正面から向き合ってくれる人の声に耳を傾けていく事が必要です

そんな人たちの言葉が、未健康な心のダークサイドから自分で這い上がる為に一番必要なアドバイスになっていると思うからです

未健康な心のダークサイドは、心が病気でも健康でもない未健康な心の人であれば誰にでもあるとは思いすが、そこに陥るかどうかは未健康な心から健康な心になると思うかどうかで変わってきます

健康な心になると思って、向き合いたくない自分とも向き合う事ができるようになれば、自分は悪くないと良くない自分を正当化したり、自分のせいなのに他のせいにしたりして、未健康な心のダークサイドに自分から陥っていく事はなくなると思います

 

あなたの心の顔はどこを向いていますか

心の顔が真直ぐ正面を向いている人は

自分の良い所もダメな所もすべて受け入れ

向き合いたくない自分とも向き合う事ができていると思います

自分の良い所だけ受け入れているだけでは

自分と向き合う事ができているとはいえません

心の顔を下に向けて自分のダメな所を見ないようにすれば

ダメな自分を亡かった事にできると思うのは間違いです

自分が心の目をそらして見なかったとしても

ダメな自分はダメな自分のままです

ダメな自分から自分が目をそらしている限りは

ダメな自分が良くなっていく事はなく

なりたい自分になっていく事もなく

自分の人生が本当に幸せだと思う事もないように思います

今の自分に自分が見たくないと思う部分がある時は

なぜ見たくないと思うのかを自分に問いかけましょう

なぜ見たくないかの理由の中に

ダメな自分を良くする課題があると思います

 

筆者の本
本3

癒しの心『妥協する』

癒しの心 カウンセリング

折り合いをつける妥協をする

妥協する事はありますか
妥協の本来の意味は諦める事ではありません

妥協という言葉を辞書で調べてみると「対立した事柄について、双方が譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること」と掲載されています

妥協する事とは折り合いをつける事だといえますが、その妥協が諦めるという意味で使われる事が多々あるように思います

妥協と似たような言葉に譲歩という言葉があります

譲歩を辞書で調べてみると「自分の意見や主張を押さえて相手の意向に従ったり妥協したりすること」と掲載されています

譲歩の意味の中に妥協するとあるので、妥協する事も譲歩と同じような解釈をされている事があるのかもしれせん

しかし、譲歩は自分の意見や主張を押さえて相手の意向にしだがう妥協なので、折り合いをつける妥協とは意味がまったく違ってくると思います

自分の意見や主張を押さえて妥協している時は、それは妥協ではなく譲歩だといえます

譲歩する事を妥協する事だと思ってしまうと、妥協する事はを諦める事だと思ってしまう事あるように思います

譲歩する事を妥協する事だと思い、妥協するには何かを諦めなくてはいけないと思ってしまうから、妥協の本来の意味である、双方が譲り合って穏やかに解決する為に折り合いをつける事ができない事があるように思います

お互いの主張に違いがある時は、双方が譲り合って一致点を見いだして穏やかに解決する為に折り合いをつける事が必要だと思います

それは、自分の思いに対しても同じであり、自分の思いにある理想と現実に対しては、譲り合って一致点を見いだして穏やかに解決する為に折り合いをつけていく事が必要だと思います

そうではない自分に対して妥協したくないと思う事がある時は、それは妥協ではなく譲歩しようとしているか、或いは諦めようとしている時だと思います

現実を見ないで理想だけを追い求めているだけでは折り合いをつける妥協をする事はできないと思いますし、逆に現実ばかり見て理想を追い求める事がなくてもできないと思います

妥協する事は、自分の理想と現実の両方に自分が折り合いをつけていく事ができて初めて、妥協する事ができるようになると思います

理想と現実のどちらかしか見ていない人が妥協という言葉を使っていても、それは妥協ではなく譲歩でしかないように思います

その事が、妥協という言葉が本来の意味で使われる事がない事につながっているように思います

人生の選択で妥協したくないという言葉を聞く事がありますが、それは妥協が譲歩になっているからだと思います

人生の選択で折り合いをつける妥協をしないという事は、自分の心の思いの何かを押さえて譲歩していくしかなくなります

自分の心の思いと折り合いをつけるのではなく、心の思いの何かを押さえる譲歩をしていては、自分がなりたい自分になれる事はないように思います

自分の思いと折り合いをつける妥協をしていれば、自分の選択に対して自分に責任があると思う事ができますが、譲歩している場合はそうではないと思います

譲歩している場合は、自分の思いを押さえている事があるので、自分の選択に対して自分に責任があると思えない事があると思います

自分に自分の選択の責任がないと思う譲歩を妥協だと思っていれば、自分に妥協したくないと思うのもわからないでもありません

しかし、譲歩する事を妥協する事だと思っていると、自分の選択の責任を他のせいにして本当の妥協をする事ができずに、自分にとって必要な選択肢を見逃してしまう事があると思います

妥協する事と諦める事は違います

それなのに、妥協するには何かを諦めなくてはいけないと思ってしまうと、妥協の本来の意味である対立した事柄について、双方が譲り合って一致点を見いだしておだやかに解決する事はできないと思います

妥協するには諦める事が必要だと思っていると、自分の意見を通したい時は、お互いの一致点を見いだすのではなく相手のマウントを取る事をしようとする事があるように思います

お互いが妥協するのではなく、相手のマウントを取る事で譲歩させようとしてしまう事があると思います

本当は、折り合いをつける方が良いという事は誰もがわかっているのに、妥協する事をどちらかが譲歩する事だと思っていと、対立する事があるとマウントの取り合いになってしまう事があるように思います

他の人と意見が違う事がある時は折り合いをつける妥協をしなければ、どちらかが譲歩する、或いは諦める事をしなければいけない事になってしまいます

自分の意見の方が他の人にとっても良いものであれば、他の人に譲歩させたり諦めさせる必要はないように思います

他の人が譲歩したり諦める事があるという事は、それはどんなに自分が良いと思っていても、それは自分とって良いだけであって他の人にとっては良い事ではない事だと思います

妥協とはお互いが折り合いをつけていく事であり、どちらか一方しか妥協しない事は、妥協ではなく譲歩だといえます

自分の心にある様々な思いに折り合いをつける為に自分に妥協する事は必要だと思います

自分の心の思いに妥協する事ができないと、自分の心に対立する思いがあった時は、どちらかの思いを押さえてしまう譲歩をするか、或いはどちらかを諦める断念をしていくしかなくなるように思います

譲歩や断念をしていては、自分の思いの一部しか選択する事ができませんが、折り合いをつける妥協するようにしていけば、自分の思いのすべてを加味した新たな選択をする事ができるようになると思います

自分にとって大事な選択は、自分の心にある思いのどれを選択するという事ではなく、自分の心にあるすべての思いを総合した選択をする事だと思います

妥協する為に諦める必要はなく、必要な事は自分の心にあるすべての思いと向き合って、それらの思いと自分が折り合いをつけていく事だと思います

それなのに、妥協する事は諦める事だと思っていると、自分の思いとも向き合おうとはせずに、本当の意味での妥協をする事がないように思います

自分の思いと自分が向き合う事がないと、他の人の言動ばかりが気になってしまい自分の思いが見えなくなってしまう事があります

誰かが良いと言っていればそれが良いと思ったり、誰かがダメだと言っている事をダメだと否定したりしてしまう事があります

そこにあるのは、妥協する事を諦める事だと思ってしまい、自分の思いに妥協する事ができない自分がいるように思います

自分に妥協する事できないと自分の言動に責任を持つ事ができなくなり、他の人に自分の責任を委ねてしまう事があるように思います

妥協する事は決して諦める事ではなく折り合いをつけていく事だと思って、自分の思いに自分が妥協できるようになると、自分の言動のすべてに自分が責任が持事ができるようになると思います

自分に妥協する事ができるようになると、自分以外の事でも妥協する事ができるようになり、対立している事だけではなく、すべての事でお互いの良い所を融合させてお互いにとって良い事を見つける事ができるようになると思います

妥協する事は対立がある時には必要な事だとは思いますが、対立がなくても複数の事を融合させてもっと良いものを見つける為にも必要な事だと思います

日々の生活の中で妥協する事がありますか

妥協する事を諦める事だと思ってしまうと
妥協してはいけないと思ってしまうのかもしれません

しかし、妥協する事は決して諦める事ではなく
すべての事に折り合いをつけていく事だと思います

何かに折り合いをつけていくという事は
お互いを半分ずつを取り入れるという事ではなく
お互いを融合させてお互いにとって良い事を探す事だと思います

お互いとって良い事を探して見つける事ができると
どちらか一方を選択する時よりも良い選択ができると思います

妥協する事はお互いの良い所を融合させる事である
そう思う事ができれば
譲歩するのではなく、折り合いをつける妥協をする事ができると思います

そうすれば、折り合いをつける妥協をするとお互いが良くなる事がわかります

妥協するには何かを諦める必要があると思うのは
妥協する事が譲歩する事になっているからだと思います

人生の選択で譲歩ばかりしていて
なりたい自分になる選択ができているとは思えませんし
そんな選択をしている自分が思うなりたい自分が
本当になりたい自分てあるとも思えません

自分が自分の思いに折り合いをつける妥協をしていけると
なりたい自分を諦めたと思うのではなく
新しいなりたい自分が見つかったと思うようになり
もっとなりたい自分になっていこうと思う事ができると思います

筆者の本
本3

癒しの心『前向きな心』

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ポジティブではなく前向き

やる気が出ない、そう思う事はありますか
やる気が出ない事があるのは、心を前向きにする事ができていないからだと思います
それなのに、モチベーションを上げる事をしていけばやる気が出ると思ってしまうと、心は疲弊していきます
モチベーションは上げるものではなく上がるものだと思います
やる気が出ない時に無理にモチベーションを上げようとする事は、準備運動をしないまま全力疾走するのと同じ事だといえます
確かに、全力疾走をしていけば速く走る事はできるかもしれませんが、準備運動をしないまま全力疾走をしてしまうと怪我をする確率はかなり高いといえます
それは心でも同じ事がいえ、やる気が出ない時に心の準備がないままに無理にモチベーションを上げようとしてしまうと、心は大怪我をしてしまう事があります
それだけではなく、ポジティブに考えるようとする事も同じ事がいえると思います
心を前向きにする事ができていない時は、やる気が出ないだけではなく、物事をネガティブに捉える事が多いように思います
ネガティブな捉え方をしている時に、心を前向きにする事がなく、ただポジティブな事だけをしてしまうと、心はただ疲れていくだけになります
心を前向きにする事とポジティブな事をする事はまったく別の事です
前向きとは、物事に対する姿勢が積極的、建設的である事で、心を前向きにするという事は、積極的だけではなく、建設的である事が大事になります
そこに、積極的を意味するポジティブとは明確な違いがあると思います
建設的とは、現状をより良くしていこうと積極的な態度でのぞむさまの事で、どんな状況であっても、今より良くしていこうと自分が思う事が心を前向きにするには必要な事だと思います
実際に良くなるかどうかは関係なく、仮に良くなっていないくても、現状より良くしていこうと思い続ける事が心を前向きにする為には必要な事だといえます
心が前向きにする事ができないのは、自分が前向きにしようとしていないからだと思います
自分の心が前向きにする事ができない事を自分ではなく、他のせいにしている事があるからだと思います
確かに、他の影響がある事で心が前向きになれないと思う事もあるかもしれませんが、前向きが現状をより良くしていこうとのぞむ事であるならば、他の影響は心を前向きにする事には直接関係がないと思います
心を前向きにする事はどんな状況であって、良くしていこうと自分が思えればできると思え、心が前向きになっていない事があるという事は、そう思う事をしていない自分がいるという事だと思います
心を前向きにする事ができている人は、モチベーションを上げようとする事やポジティブに物事を捉える事を意識しなくても、自然とできている人だと思います
やる気が出ない、或いはネガティブになっている時に、心を前向きにする事をしないで、モチベーションを上げたり、ポジティブに捉えようとする事は逆効果だといえます
それなのに、やる気が出ない時にモチベーションを上げようとする、ネガティブな時にポジティブに捉えようとする人は多いように思います
やる気が出ない時にモチベーションが上がる事はなく、ネガティブな時にポジティブな捉え方ができる事もないと思います
どちらの時も必要な事は心を前向きにする事だと思います
今の自分を良くしようと思う事は誰にでもでき、良くなれるかどうかは関係なく、なれる見込みが見えなくても良くしようと自分が思う事で心を前向きにする事はできると思います
良いという結果を求めてしまうと、良くなっていく事も良くなっていかないように感じる事があるように思います
結果を求めてしまうから、やる気が出ない、或いはネガティブに捉える事があるように思え、結果を求めずに、今より自分を良くしようと思い続けていければ、結果は自ずと付いてくるように思います

心を前向きにする為には、自分と向き合う事が必要だと思います
自分と向き合うとは、自分の心にどんな思いがあり、自分はどうしていきたいのか、その事を自分に問いていく事だと思います
人は、自分と向き合う事ができていあに時は、心を前向きにする事ができないものです
自分が向き合いたい自分とだけ向きう事は、自分と向き合っているとはいえません
向き合いたい自分だけではなく、向き合いたくない自分とも向き合っていく事が、自分と向き合う事だといえます
しかし人は、向き合いたくない自分と向き合えない時があるように思います
自分が認めたくない事が自分にある時は、自分と向き合いたくても向き合えない事があるように思います
自分が認めたくない自分がいる時は、周りの人と比べる事で自分の価値を見ている時のように思います
周りの人よりできる、或いは良い自分は認められるけど、そうではない自分は認める事ができない、そう思っている自分がいるように思います
自分の事を認めるかどうかは、周りの人は関係なく、自分が認めると思えば認める事ができます
周りの人よりできてもできなくても、良くても良くなくても、そんな自分も自分だと自分が認めると思えば認めていく事ができます
それなのに、周りの人よりできない、或いは良くない自分は認めたくないと自分が思ってしまうと、向きき合いたくない自分とは向き合えなくなり、自分と向き合う事ができなくなっていきます
周りの人と比べて自分の価値を見てしまうのは、自分に自信が持てないからだと思います
自信がないというよりも、自信を持つ事ができていないからだと思います
自分に自信を持つ事ができないのは、自信をある、ないで見ているからだと思います
何かができるかどうかの自信は、自信がある、ないで見るとは思いますが、自分に対する自信を同じように、自信がある、ないで見てしまうと、自信を持つ事はできないと思います
自信は自分を信じる事ですが、どうやって自分を信じるかによって、自信があるになるのか、自信を持つになるのかが違ってきます
自信があると思う時は信用で自分を信じている時で、自信が持てると思う時は信頼で自分を信じている時です
信用で自分を信じる時は信じるだけの保証が必要ですが、信頼で信じる時は保証は必要ありません
信用で自分を信じている時は、自分を信じる事を担保している保証がなくなると自分を信じる事ができなくなります
しかし、信頼で自分を信じている時は、自分を信じる事を担保する保証は必要がないので、どんな自分でも信じている事ができます
自分に自信がないと思っている時は、保証のいる信用で自分を信じている時だと思います
自分に対する自信をある、ないで見てしまうと、周りの人と比べる事で自分の価値を見てしまい、自分に自信が持つ事できなくなります
自分の価値は自分が決めるもので、他の人と比べても自分の価値は何も決まりません
物事ができるかどうかの自信には、その事ができるという保証が必要だと思うので、何かを行う事に対して自信がある、ないと思うのは何も問題はないと思います
しかし、自分に対する自信の時は、何かができるから、何かが良いからという保証を必要とする事自体に問題があると思います
その事が、周りの人と比べて自分の価値を見てしまう要因だと思え、自分の事なのに自分が認めたくないと思う事に繋がっているように思います
信頼で自分を信じる事に、何かができるかどうかは関係ありません
物事ができるかどうかの自信は、その事ができるかどうかが関係しているので、できる保証がいる信用で自分を信じる必要があり、自信があるになるとは思います
しかし、自分に対する自信は、自分が何かできるかどうかは関係なく、保証を必要としない信頼で自分を信じる事が必要なので、自信があるではなく持つという事になっていきます
信頼で自分を信じる自信は、周りがどう思うかは関係なく、自分が自分を信頼すると思えれば誰もが自分に自信を持つ事ができると思います
自分に自信が持てるようになれば、どんな自分とも向き合う事ができるようになり、心を前向きにする事ができるようになります

あなたは信頼で自分を信じる事ができますか
誰かより何かができるから、誰かより何かが良いから
それによって自分を信じる事ができているのであれば
それは、信頼によって自分を信じているのではなく
信用によって自分を信じているといえます
信用で自分を信じていると信用がなくなる事があると
自分を信じる事ができなくなり、自信はなくなります
自分を信じる事に保証は必要ありません
どんな自分でも信じる自分
そう信頼で自分を信じる事で、自信を持つ事ができます
自分の心が前向きになっていない時は
保証を必要とする信用で自分を信じてしまい
自分に自信を持つ事ができていないからだと思います
何かできるかどうか、何かが良いかどうかは関係なく
何もできなくても、何も良くなくても
そんな自分も自分であると無条件で自分を信じていけると
自分を信頼する事ができ、自分に自信が持てるようになります
自分に自信が持てるようになると
自分が認めたくない自分とも向き合う事ができます
向き合いたくない自分と向き合う事ができると
心が前向きにする事ができるようになり
その事ができるようになると
自分にある問題を自分で解決する方法が見えてきて
少しずつ前に進んでいく事ができるようになっていきます

筆者の本
本3

癒しの心『やれる事をやる』

癒しの心 カウンセリング

できないとやらないの混同

「できない」という言葉を聞く事があります
本当にできない事であれば「できない」と言っても何も問題はないと思います
しかし「できない」という言葉は、本当にできない事以外にも使われている時があるように思います
できない事ではなく、やらない事に対しても「できない」という言葉が使われている事があるように思います
「できない」と言っている事が本当にできない事なのか、ただやらない事なのかは外から見ているだけではわからない事もあります
どんなに多くの人ができると思う事であっても、人によっては本当にできない事もあると思います
そこにいるすべての人ができるからといって、その事が誰もができる事であるとも限らないと思います
できないという言葉には、やろうとしてもできない事とやろうとしないできない事があると思います
やろうとしてもできない事はどんな状況であってもその人にとってはできない事なので、他の人がどうのこうの言っても本当にできない事だとは思います
しかし、やろうとしないできない事はやろうと思えばできる事なので、その事ができないと言うのは少し違うように思います
それなのに「できない」という言葉を使う時は、やろうとしてもできないという事よりも、やろうとしないできないの事に使われている方が多いように思います
そこにできない事とやらない事の区別がつきづらい問題があるように思います
誰もが「できない」という言葉をやろうとしてもできない事だけに使っているならば、その人が「できない」という事は本当にできない事だと思う事ができます
しかし、自分がやろうとしないだけでやればできる事にも「できない」という言葉が使われる事があると、できないという言葉をどちらの意味で使っているのか見分けなければいけなくなります
その人が本当にやろうとしてもできない事なのか、それとも、やろうとしないできない事なのかは他の人には見分けづらいと思います
本来ならば、やろうとしないできないは「できない」と言うのではななく、「やらない」というのが正しい言い方だと思います
それなのに人は、やらない事をできない事としていることが多々あるように思います
そこには「できない」と言えば周りが「しょがない」と思って、自分がやろとしていない事をやらなくて済んでしまう事があるからだと思います
できるかできないかはやってみなければわかりません
その事ができない事とやらない事を区別していく事をややこしくしているように思います
できるかどうかやってみなければわからない事は、やればできる事だけに適用できる事だと思います
物事にはやってみなければできるかどうかわからない事もあれば、そうではない事もあると思います
何でもやってみればできる訳ではなく、物事にはやってみてもできない事はあると思います
「できない」という言葉は本来、やろうとしてもできない事に対して使うのであって、やろうとしていないできない事に使う事があるからややこしくなっているように思います
やってみてもできない事がわかっている事に対して使うのが「できない」であって、やってみなければできるかどうかわからない事に対して使うのは「やらない」だと思います
やってみなければわからない事までに「できない」という言葉を使うと、やってみなくてもできない事までやってみればできる事だと勘違いされてしまう事があります
実際に、やってみなくてもできないとわかっている事を、やってみなければわからないと勘違いして大惨事を起こりしている人をよく見かけます
できるかどうかわからない事に関しては「できない」ではなく「やらない」と言う事が必要だと思います
「できない」という言葉を自分の都合が良いように使っていると、本当に自分ができた方が良い事ができない事もあるように思います

できない事とやらない事を見分けるには、物事にある事実を見ていく必要があると思います
その事がやろうとしてもできない事なのか、やろうとしないできない事になっているのかは、そこにある事実だけを見ていけばわかると思います
しかし、やろとしでもきない事はいけないという思いが入ってしまうと、事実を私実にしてしまう事があるように思います
私実は、自分がこうなって欲しいという自分の思いが事実に入ってしまったものだといえます
事実に自分の個人的な思いが入ってしまうと、当たり前ですが事実とはまったく違うものになっていきます
私実が事実ではない事は冷静に見ていけば誰もがわかるのに、やろうとしてもできない事はいけないと思って、できるようになる答えを求めてしまうと事実を私実にしてしまう事があります
私実が厄介なのは事実がもとになっている事で、私実の多くは事実と同じであるという事です
私実が問題なのは、できないという結論になる所だけ私が脚色しているという事で、それ以外は事実と何も変わらないという事です
どんなに事実と同じであっても肝心なできないという結果になるところが脚色されていては、後が事実と同じであってもまったく違う事柄になっているといえます
まったく違う事柄を事実と似ているからと事実にしていては、やろうとしてもできない事をできないと判断する事ができないと思います
そこにある事実は私実になっていないか、そう思って事実だけを確認する事が必要です
それを確認する事なく、そこにあるのが事実なのか私実なのかを見分ける事ができていないと、やろうとしていないできない事を「できない」と言う事がまかり通ってしまいます
やろうとしていない事ができない事になっている時は、私実に惑わされてしまいそこにある事実が見えていない時だと思います
私実に惑わされる事なく事実だけを見るようにしていければ、その事が本当にやろうとしてもできない事なのか、やろうとしていないできない事なのかは一目瞭然だと思います
しかし、できないという結果は受け入れられないと思ってしまうと、やろうとしてもできない事とやろうしていないできない事を見分ける事ができなくなります
事実を私実にしてしまうと、自分が望む答えばかり求めてしまい、やろとしてもできない事をやろうとしないできない事だと思ったり、やろうとしていないできない事をやろうとしてもできない事だと思ってしまいます
やろう思えばできる事はどんなに自分ができないと言っても、それはできない事ではなくやろうとしていない事です
やろうとしていない事であれば「できない」と言うのではなく「やらない」、或いは「やりたくない」と言うのが正しい言い方だと思います
やる必要がない事の時は誰もがやらないといえるのに、やる必要がある事の時はできないというのは少し違うように思います
やる必要がある事をやらないというのは気が引けるからかもしれませんが、その事がやろうとしてもできない事がやらない事のように思われる要因になっているうように思います
やろうとしないできない事をできないと言っている事が、できないという言葉の信憑性をなくしていると思います
やろうしないできない事を「できない」と言っている事が多いのは、その事をやらなくても済んでしまう事があるからだと思います
それを防ぐ為には、できないという事にある事実を見るようにしていきましょう
できる自分でいたいという思いは一度捨てて、どうしてできないのかを見ていけば、できない事にある事実は見えてくると思います
その時に一番気をつける必要があるのは、その理由がわからない時です
やればできる事ではあるが、どうやればいいのかわからないという事があった時です
人はわからない事があるとその事を見ないようにしてしまう事があります
わからない事はわからないという事実があり、どうやればできるかわからない事は現段階では本当にできない事だといえます
わからない事をわからないままにできないと、勝手に私の妄想を入れて事実を私実にしてしまうと、本当にできない事をやればできる事だと思ってしまうようになります
それでは、やろうとしてもできない事とやろうとしていないできない事が混同して、やらない事をできないと言うようになっていきます

あなたは、やろうとしていない事を「できない」と言っている事はありませんか
やろうとしてもできない事なのか、やろうとしないできない事なのかは
自分が一番よくわかっていると思います
それなのに、やらない事を「できない」と言ってしまうのは
失敗する事を怖がっているからだと思います
やってみて失敗したらできない自分になると思っているからだと思います
失敗を怖がって失敗をしたくないと思っている人にとっては
自分からできないと言うのと、やってできない事では
できないの意味が違ってきます
自分から言っても、やってみても、できない事には変わりはないのですが
それでも、自分からできないと言うのは心のダメージが違います
それは、やらずにできないという方が、やってできない事よりも
周りの人の評価が違う事があるからです
本当は、やらずにできない人よりも、やってできない人の方が評価されるべきなのに
やってできない人の方が、評価されない事が多くあるからだと思います
そこには、目の前にある事しか見ようとはせずに
物事の本質にある事実を見ようとしていない事があるからだと思います
それでは、できないと言ったものがちになってしまい
できないと言っっている人も、そう言われている人も
どちらにとっても良い事はないと思います
やろうとしてもできない事は「できない」と言ってもいいですが
やろうとしていない事は「できない」ではなく「やらない」と言えるようにしましょう
角が多少立つ事があっても、やらない事を「できない」と言っていくよりも
やらない事は「やらない」といった方が、本当の自分と向き合う事ができます
本当の自分と向き合う事ができるようになれば
本当にできない事だけ「できない」と言うようになり
自分がやる必要がない事は「やらない」と言う事ができるようになります

筆者の本
本3

癒しの心『恋愛にある誤解』

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恋を愛にするのが恋愛

恋に愛と書いて恋愛であるならば、恋愛をするには恋する事と愛する事が必要だと思います
恋する事はあったけど愛する事にならなかった関係は恋愛関係だとはいえず、それは恋する事だけしかできなかった恋関係だと思います
恋愛関係というからには、恋と愛の両方をする事がなければ恋愛関係とはいえないように思います
それなのに、恋する事しかしていない事を恋愛だとしている事が意外とあるように思います
恋をしている時の関係は、恋関係であっても恋愛関係ではないと思います
恋愛に恋という文字が入っていても、そこに愛する事がなければ恋愛とするのは違うように思います
恋と愛があるから恋愛という字を使う意味があると思いますが、実際に、恋だけする事と恋愛する事は違う事のように思います
恋は自分が受け入れたい相手の事だけを受け入れていても成立しますが、愛はそれでは成立する事がなく、自分が受け入れたくない事も含めた相手の事をすべて受け入れる事がなければ成立していきません
愛するという事は、愛する人のすべてを受け入れる事であり、好きな所も嫌いな所もどちらも受け入れていく事だと思います
相手の事を好き嫌いで判断している時は、それは恋であって愛ではないと思います
愛になっていない関係を恋愛関係としてしまうと、恋と愛が混同してしまい相手のすべてを受け入れなくても愛になっていると思ってしまう事があるように思います
恋と愛は明確な違いがあると思いますが、恋愛という言葉になってしまうと、何が恋で、何が愛なのかがわからなくなってしまう事があるように思います
恋経験を恋愛経験だと思ってしまうと、好き嫌いという嗜好でパートナーを選んでしまう事があるように思います
どんなにお互いが恋をしていても、相手のすべてを受け入れる事ができていない恋関係が恋愛関係になっていく事はないように思います
恋愛経験が豊富な人がいいパートナーと巡り合えていない事があるのは、その人が経験している関係が、恋愛関係ではなく恋関係になっているように思います
恋から相手のすべてを受け入れる愛にする事がない恋経験を、恋愛経験だと誤解しているだけのように思います
恋をしているだけの事を恋愛していると誤解してしまうのは、その方が相手の嫌な所を見なくて済むからかもしれません
多くの恋をしても良いとは思いますが、恋から愛にする事がなければ、恋が恋愛になる事はないと思います
恋を愛にする事がなく恋に恋している人は、自分のすべても受け入れる事ができていない為に、恋する相手のすべてを受け入れられる事ができなくなっている人だと思います
自分で自分の事を愛する事ができていない人が、他の人の事を愛する事ができるようになるとは思いません
恋をしている事を恋愛している事だと思ってしまうのは、自分で自分を愛する事ができていないからかもしれません
自分で自分を愛している人は、今の自分がどんな自分であっても自分のすべて受け入れていきます
自分のすべてを受け入れる事ができて初めて、他の人のすべてを受け入れる事ができると思います
自分のすべてを受け入れる事ができていない人ができるのは恋までで、どんなに自分は相手の事を愛していると思っていても、自分のすべてを受け入れる事ができていないのであれば、それは恋であって愛ではないように思います
自分のすべてを受け入れて自分を愛する事ができれば、相手の事を愛する事ができるので、恋だけする恋経験は特に必要がないと思います
恋愛経験の数をやたら聞きたがる人は、恋する事が恋愛だと勘違いしている人のように思います
相手のすべてを受けれる事がない関係は恋関係であって、恋愛関係ではないと思います
どんなに恋の経験していても、それが恋愛の経験になるの事はないと思います
恋を愛にするには、愛する相手のすべてを受け入れていく事が必要です
自分が自分のすべてを受け入れる事ができると、相手のすべてを受け入れる事ができるようになります

あなたは、恋した相手のすべてを受け入れようとしていますか
自分が受け入れたい事だけ受け入れるのではなく、自分が受け入れられない相手の事は自分が変えていけば良いと思うのでもなく、相手のすべてをそのまま受け入れていく事ができますか
正しい事は正しいと受け入れて、間違っている事は間違っていると受け入れる
好きな事は好きだと受け入れて、嫌いな事は嫌いだと受け入れる
良い事は良いと受け入れて、悪い事は悪いと受け入れる
それが、すべてを受け入れていく事だと思います
正しい事は受け入れらるけど、間違っている事は受け入れられない、或いは、間違っている事なのに受け入れる為に正しいと思う、それは、すべてを受け入れる事ではありません
恋愛でも同じ事がいえ、相手の好きは所は受け入れるけど嫌いな所は受け入れない、或いは、相手を好きだと思いたいので嫌いな所も好きだと思う、それで恋はできても恋を愛にする事はできないと思います
恋愛に関する問題の多くは、恋から愛にする関係ではなく、恋を愛だと勘違いして恋しかない関係を恋愛だと思っている事にあるように思います
相手の好きな所だけではなく嫌いな所を嫌いだと受け入れていくと思う、恋を愛にしていくにはその思いが必要だと思います
それがないまま、相手の好きな所だけ見てパートナーを選んでしまうから、その後に様々な事で悩む事になっていくように思います
結婚したパートナーとの関係が悪くなってしまう人は、相手のすべてを受け入れる恋愛ではなく、自分が受け入れられる相手の事だけ受けれる恋だけで結婚した人なのかもしれません
自分が受け入れらる相手の事だけ受け入れるのは恋であって愛ではなく、愛になっていない恋を愛だと思って結婚してしまうと、その後の結婚生活は愛のない生活になってしまう事があるように思います
恋を愛だと思っていては、結婚における健全なパートシップが組んでいけるとは思えません
自分が受け入れられる相手の事だけしか受け入れる事ができなければ、一緒に生活している時間が長くなれば長くなるほど、自分が受け入れたくない事が気になってしょうがなくなります
生活を共にしていない恋の時は見えなかった、いえ、見ようとしなかったものが、一緒に生活していくようになると見えるようになっていくのは当然のように思います
恋が愛にする恋愛をしていた人は、相手のすべてを受け入れようと思っているので、自分が受け入れたくない相手の事に対しても対応しようと思う事ができます
しかし、相手のすべてを受けれる事がない恋しかしていない人は、自分が受け入れたくない相手の事を受け入れようとする事がないので、何か対応しようと思う事がなくただ不満だけが募っていきます
初めは我慢していた事が我慢できなくなり、その内に不満が爆発していきます
大事な事は、相手のすべてを受け入れようと思う事で、それは相手の言う事を何でも聞く事ではありません
結婚は二人で同じ人生の道を歩んで行く事です
二入で同じ道を歩んでいくには、どちらか一方に合わせるのではなく、お互いが合わせようとする事が大事だと思います
二人三脚の経験がある人であればわかるとは思いますが、どちらか一方に合わせようとしても上手く歩く事ができないもので、お互いが合わせようとする事で上手く走る事ができるものです
それは人生でも同じ事がいえ、どちらか一方に合わせようとしていては、人生の道を上手く歩んでいく事はできないように思います
お互いが合わせていく為には、お互いの事を良く理解する為に、お互いがお互いのすべてを受け入れる事が必要だと思います
良いも悪いも、正しいも間違いも、好きも嫌いも、お互いのすべてを受け入れる事ができるから、同じ道を歩んでいく為にお互いが何をするのが一番いいのかを考える事ができると思います
相手の事を受け入れる事ができる時は、お互いの事を考える事ができるのに、受け入れる事ができない時は、自分の事ばかり考えてしまう事があるのは、相手のすべてを受け入れていないからだと思います
恋する時間がどんなに長くても、それだけで恋が愛になる事はなく、それを恋愛だと思ってしまうといつまでたっても恋に恋する関係しか築けないと思います
恋をいくらしても愛にする事ができなければ、恋愛関係になる事はないとはいえます
愛するとは、愛するもののすべてを受け入れる事で、その為には、自分のすべてを自分が受け入れ、自分が自分を愛する事が必要だと思います

「恋愛をしたい」そう思う事がある時は
今の自分のすべてを自分が受け入れる事ができずに
恋愛という言葉に逃避している時のように思います
自分のすべてを受け入れられない人が恋愛を求めてしまうと
恋に恋してしまい、目先の恋に惑わされていくように思います
恋は、自分のすべてを受け入れなくてもできますが
愛は、自分のすべてを受け入れなくてはできません
自分のすべてを受け入れていない人が
相手のすべてを受け入れる事ができるとは思えません
恋愛をしたいと思う事があるならば
まずは今の自分のすべてを受け入れていきましょう
恋愛がしたいと思うのにできていない事があるのは
恋愛に縁がないというよりは
自分のすべてを自分が受け入れる事ができていないからだと思います
どんな自分もすべて受け入れる
だからといって、無理やり受け入れる必要はないので
受け入れられる事から受け入れていきましょう
そして、少しずつでいいので自分のすべてを受け入れていきましょう
その為には、まずは受け入れたくない自分と向き合い
どうして受け入れたくないと思うのか、自分と対話していきましょう
あーでもこーでもないと自分と対話をしながら
そんな自分も自分かも、そう思って受け入れていきましょう
そうすると、受け入れたくない自分も少しずつ受け入れる事できます
自分のすべてを受け入れる事ができると
恋をしたいと思う必要がないくらい
自然に恋愛をする事ができるようになると思います

筆者の本
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