癒しの心『自分に嘘をつく』

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自分のことなのに他のせいにする

自分に嘘をつくことはありますか

人は誰でも間違うことがあると思います

そのときに、間違いを認めることができないと、人は、自分に嘘をついてしまうことがあると思います

本当は、自分でも間違っていたとわかっているのに、そのことを間違っていると認められないことがあるように思います

どんなに、間違いを認めることで、今の自分に大きな負担や困難なことになったとしても、間違いは修正する必要があります

間違っていることを、間違ったままにしていて、良いことはありません

そのことは、誰もが頭ではわかっていながら、間違いを認めることができないことがあります

それだと、間違いを間違いではない、そう思い込もうとして、間違いを認めないどころか、自分は間違っていないことにしようとしていきます

自分は間違っていない、そう言い張ってしまい、自分は悪くない、自分のせいではないようにしていくことがあります

周りの人も、明らかにその人のせいであることはわかっていても、猛烈な言い訳に押し負けてしまい、渋々、その人の言い分を通してしまうこともあるように思います

そのことが、自分が認めなければ間違いはなかったことにできる、という歪んだ思考を生んでいくように思います

間違いは、どんなに自分が認めなくても、間違ったことが正しいことになることはありません

ルールなどで決められた間違いは、ルールが変わってしまうと、今まで間違っていたことが正しく、今まで正しかったことが間違いになることがありますが、それは、間違いを判断するルールが変わったからであり、決して、間違いを認めないことで、間違ったこと自体が変わったからではありません

自分が間違ったと思う行動は、ルールや他がどう思おうが、間違ったままです

自分が間違ったと思った行動を認めないことで、他に自分は間違っていないことにしたからといって、その行動自体が何か変わることもありません

行動自体が変わることがなければ、その後も自分は、その間違った行動を続けていくことになります

そのたびに、間違いを認めないことで、他に自分は間違っていないと思わせていくことは、そのうちできなくなるように思います

自分が間違ったと思うことであれば、そのことを修正する必要があります

他がどう思うかは関係なく、自分が間違ったと思うのであれば、間違っていることを正しいことに変える必要があります

そのときに大事なのは、今よりも良くなるかだと思います

正しいか、正しくないかよりも、そのことをすることで、何かが良くなるかどうかだと思います

それは、自分だけではなく、周りのすべての人が良くなるかどうかです

自分が良ければいい、そう思うこともあるかもしれませんが、自分が良ければいいと思っていては、本当に自分が良くなることはできません

自分が本当に良くなることは、自分だけではなく、周りの人すべてが良くなることの中にあるからです

それは、両方の行動をしていけばわかることですが、人はどうしても、自分が良くなるだけの行動をしてしまうことがあるように思います

それだと、自分が間違っても、自分が良ければいいと思って、間違いを認めようとしないことがあります

それだと、自分は悪くないと思って、自分が自分に嘘をつくようになっていきます

初めは、自分が間違っている、そう思っていても、自分は悪くない、自分のせいではないと思って、自分は間違っていないと、自分に嘘ついていくようになります

自分が自分に嘘をついていくことほど、自分の人生を不幸にしていくことはありません

他の人に嘘をついて良いとは言いませんが、嘘も方便ということがあるように、他の人に嘘をつくことが必要なこともあるように思います

しかし、自分に嘘をつく方便はないと思います

間違いは修正する必要があり、間違いを修正するには、自分が間違いを認めることが必要です

自分が間違いを認めないで、間違いを修正することはできません

仮に、他の人に対しては間違いを認めないことがあっても、自分の中で間違いを認めていけば、その間違いを修正することができます

もちろん、他の人に対しても間違いは認めた方が良いですが、時と場合によっては、できないこともあるようには思います

しかし、だからといって、自分の中まで間違いを認めようとしないのは良くなく、それでは、間違いは間違いのままになり、その後にもっと大きな間違いになっていくことが多々あります

間違いがあるなら修正することが必要です

他の人にそれを知らせるかどうかは置いといて、間違いを修正することはどんなことにおいても必要だと言えます

それなのに、自分に嘘をついてまで、間違いを認めないようにしてしまうことがあるのは、自分に責任を持つことができていないからだと思います

社会生活における人の責任は、社会への責任と、自分への責任があると思います

社会への責任は、社会における他の人たちに対する責任のことであり、自分への責任は、自分に対する責任のことです

社会への責任は、自分がした行動であっても、自分に責任があるとは限りませんが、自分への責任は、自分がした行動であれば、責任はすべて自分にあります

人が、自分に嘘をついているときは、社会への責任と自分への責任が混同しているときだと思います

それは、社会への責任の場合は、他のせいにして回避することができてしまうことがあるからです

もちろんそれは、自分にとっても、他の人にとっても良くないことであり、良くないどころか、最終的には自分の首を絞めることになりますが、社会の仕組み上できてしまうことがあります

なので、すべてを他のせいにできれば自分への責任も回避できる、そう思うのかもしれませんが、社会への責任は他のせいにできることがあっても、自分への責任は他のせいにすることはできません

自分への責任は、他の人が関係していても、どんなことであっても、すべて自分にあるからです

どんな行動であっても、自分がした行動の責任は自分にあり、自分にしか責任を取ることはできません

どんなに他のせいにしても、実際に他のせいであっても、自分への責任が関係するのは自分だけなので、責任がとれるのは自分にしかできないという事実がそこにあります

自分への責任は、どんなに他のせいにして周りを納得させても、自分からなくなることはありません

そのことがわかっていれば、仮に、他の人に嘘をつくことがあっても、自分に嘘をつこうとはしません

それは、自分に嘘ついても、何か変わることはなく、自分の責任もなくならないことを理解しているからです

自分に嘘をつくことほど、自分の人生を不幸にしていくことはありません

今の自分は、自分に嘘をついているかも、そう思うことがある人は、今日から、嘘をつくのをやめていきましょう

そうすれば、自分への責任を持つことができ、どんな問題も自分で解決していくことができるようになります

自分に嘘をついているかも
そう思うことはありますか

何か自分の行動を指摘されたとき
「でも、だって」と思うことがあるときは
自分に嘘をついているときかもしれません

自分に責任がないことを指摘されているならば
誰もが、それは自分のせいではないと言えると思いますが
「でも、だって」と思っていることは
自分にも責任があるそう思っていることだと思います

自分のことであるならば
すべては自分に責任があります

自分ことに「でも、だって」という言葉あるときは
自分への責任から逃げたいという思いがあるときです

自分への責任から逃げることはできませんし
逃げる必要もありません

自分への責任は、自分にある
そう自分が思っていけばいいだけです

他の人にあーだこーだいう必要はなく
自分の中だけで、自分に責任がある
そう思っていけば良いだけです

それができれば、自分に嘘をつくことはなくなり
自分の間違いを認めることができるようになります

そうすれば
自分から間違いを修正することができるようになり
自分を成長させていくこともできるようになります

筆者の本
本3

癒しの心『どうするか』

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それで自分はどうするか

結果ばかりを気にすることがありますか

もちろん、結果は大事なことですが、結果ばかりを気にするのは良くないと思います

結果を気にするのは、自分で自分を評価しているのではなく、他の人の評価で自分を評価しているからだと思います

自分の評価は自分でするものです

他の人の評価を無視するのは良くありませんが、他の人の評価だけで自分を評価するのはもっと良くありません

他の人の評価は、他の人から見た自分の評価であって、それは自分の評価ではないと思います

すべての人の評価が同じであれば、自分の評価のように思えるかもしれまえんが、それでも、他の人の評価は、他の人に見えている自分の評価であって、それが自分のすべてはないと思います

自分のすべてが見えていない評価で、自分の評価を見ていては、自分を評価することはできないと思います

それなのに人は、他の人の評価で自分の評価を見てしまうことがあるように思います

自分の評価を自分ではなく、他の人の評価で見ていると、他の人からどう見られているかを気にするようになります

それだと、自分がどうするかということよりも、自分がどうなるかを考えてしまい、なりたい自分でなく、見られたい自分になろうとしていきます

見られたい自分になろうとしていては、なりたい自分になることはできません

どんなに自分が、なりたい自分になりたいと思っていても、他の人からどう見られているかを気にしていては、見られたい自分になっていくように思います

今の自分の人生は良くない、そう思うことがあるのは、自分が良くないようにしているからです

もちろん、他の影響によって、良い、悪いと思うことはあるとは思います

しかし、自分の人生をどう思うかは、他の影響がどうであっても、自分がどう思うかで決まります

他の影響がまったく関係がないとは言いませんが、最終的にどう思うかは、自分がどう捉えるかで決まると言えます

自分で自分を評価していると、どんな状況においても、「自分はどうするか」と思っていきますか、他の人の評価で評価していると、「自分はどうなるか」と思っていくように思います

自分がどうなるかは、自分がどうするかによって決まるものですが、どうするかではなく、どうなるかを考えてしまうと、結果ばかりを気にするようになります

自分がどうすると思ってした行動であれば、どんな結果であっても、自分の人生にとっては良かったと思うことができます

しかし、どうなるかと思って行動していると、自分が望む結果ではないときは、自分の人生にとって良くなかったと思ってしまいます

もちろん、自分が望む結果が出た方が良いですが、結果は結果であって、すべてにおいて自分が望む結果が出るとは限りません

そのことは誰もがわかっているのに、自分が望む結果がでないことは、自分にとって良くないことだと思うのは違ようにと思います

結果で自分の良し悪しを見ていくのは、他の人評価で自分の評価をしているからです

自分の評価は自分でするもの、そのことを忘れないためには、自分はどうなるかではなく、自分はどうするか、そう思っていくことが大事です

どんな状況であっても、自分はどうするか、そのことを考えるようにしていけば、自分で自分を評価することができるようになります

人はどうしても、どうするかよりも、どうなるかを考えてしまうことがあるように思います

そこには、こうしたいという願望を、こうするという志望にできていない自分がいます

自分がしたいと思うことが、できるようになるには、こうしたいという願望を、こうするという志望にする必要があります

したいという願望のままでは、したいと思うことが、できることはないと思います

それだけではなく、したいという願望ままだと、したいという思いばかり強くなっていき、して欲しいという欲望になってしまうことがあります

願望が欲望になってしまうと、したいことをして欲しいと思ってしまい、自分ではなく、誰かに与えてもらおうとしていくこともあります

自分がしたいと思っていることが、本当に自分がしたいことかどうかは、自分がすると思って行動していかなければわからないと思います

したいという願望が、必ずしも、自分が本当にしたいことだとは限らず、したいことではないことの方が多いこともあります

願望はあくまでも願いであり、自分の願いを、自分がすると思う、志である志望にすることができて初めて、本当に自分がしたいことが見えてくると思います

したいと思っているだけでは、本当になりたい自分になることはできません

それなのに、自分のしたいこという願望を、するという志望にできないことは、以外と多くあるように思います

就職活動をしたことがある人は経験したことがあると思いますが、就職の面接で聞かれるのは志望動機です

決して、願望動機を聞かれることはありません

それは、仕事をするときに必要なのは、したいをするにした志望だからです

そのことは、就職の面接を経験したことがある人であれば、当たり前と思うかもしれません

仕事を、したいという願望のまましてもらったら困る、そう思う人もいるかもしれませんし、実際に、仕事をするときに必要なのは、するという志望になります

それは、したいという願望では、したいと思うことをすることができないからです

そのことは、仕事をしている人であれば誰もがわかっていることだと思います

そうであるならば、自分の人生においても、願望を志望にする必要があると言えます

仕事で必要なものは、自分の人生でも必要だと思いますし、どちらかというと、自分の人生の方が重要度は高いように思います

それなのに、今の自分にある願望を、志望にしようとしている人はあまりいないように思います

たまたまなっていることはあっても、どうなるかという思考が強くなっているときは、願望のまま行動していることの方が多いように思います

自分はどうなるか、そのことを気にしているときは、どうなるかではなく、どうするかを考えるようにしていきましょう

どうなるかを考えてしまうと、したいことができていない、そんな自分を受け入れられず、前に進めないこともありますが、どうするかを考えていれば、そんな自分を受け入れて、前に進むことができます

どんな自分でも、どんな結果であっても、それで自分はどうする、そう考えていければ、どんな自分も受け入れることができ、今より良い自分になるために何をしたらいいのかを見ていくことができます

それができれば、本当に自分がなりたいと思う、自分になることができると思います

結果を気にする自分がいたりしませんか

結果は大事ですが、気にするのは良くありません

結果をいくら気にしても、結果が変わることはありません

結果は、結果として受け入れ
自分はどうするか、そのことを考えることが必要です

どうなるかを考えていると
自分が望む結果のときは良いですが
そうではないときは、先に進むことができません

あれが、あったら、或いは、なければと、たら、ればを言ってしまい
いつまでも、今の自分を受け入れることができず
その場に立ち止ってしまいます

それでは、なりたい自分になることはできません

どんな自分であっても、どんな結果になっても
そこから自分はどうするか、そのことを考えるようにしていけば
次に進むべき道は自ずと見えてくると思います

しかし、どうなるかと考えて、結果ばかり気にしていては
次に進むべき道は見えなくなります

自分がどんなに、なりたいと思っても、なれないものはあります

しかしそれは、自分がダメだからなれないのではなく
自分がなりたいことが他にあるだけだと思います

ただそのことに、自分がまだ気づいていないだけです

自分が、本当になりたい自分に気づくために
どうなるかではなく、どうするかと考えていきましょう

筆者の本
本3

癒しの心『やりきる』

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やると決めてをやりきる

これはやりきった、そう思うことはありますか

結果はどうであれ、最後までやりきった、そう思うことがあるかどうかです

結果は、自分がどんなに頑張ったとしても、自分が望む結果に必ずなるとは限りません

結果は結果として大事ではありますが、それより大事なのは、そのことをやりきったと思えるかどうかだと思います

自分がやりきることができたことは、次の行動ににつながっていくと思うからです

結果が良くても、良くなくても、やりきると結果をそのまま受け入れることができ、次に自分が何をするべきかが見えてくるように思います

もっとできたのに、もっとこうしておけば良かったのに、そう思っているときは、そのことをやりきったとはいえず、まだやり残したことがあると言えます

後悔するのは良くない、そう思われることがありますが、後悔することは良くないことではないと思います

後悔は、そのことをやりきれなかったときにするものだからです

やりきれなかったことがあったから、そのことをした後に悔しいと思うのであって、やりきれなかったことを悔しいと思わなければ、やりきることはできないと思います

悔しいと思うのは、もっとやれることがある、そう思っているからで、やりきっていれば、後悔はないと思います

だからといって、どんなことでも、後悔しなければやりきったことになるかといえば、そんなことはありません

やりきるから後悔することがないのであって、悔しいと思わないことがやりきることではありません

後悔が良くない、後悔を引きずることは、実は悔しいと後悔をしているのではなく、恥ずかしいと後恥しているだけのように思います

できなかったことを悔しいと思うのではなく、恥ずかしいと思っているときだと思います

できないことを恥ずかしいと思っていては、できないことができるようにはなりません

恥ずかしいと思う後恥のことを、悔しと思う後悔だと思っていると、後悔はしてはいけないと思ってしまいます

悔しいと思うことがなければ、そのことにチャレンジしようはと思いませんが、できなかったことのすべてに、再チャレンジする必要があるかといえば、そんなこともないと思います

そこにある違いは、そのことをやりきったかどうかだと思います

例え、できなかったという結果があっても、そのことを自分がやりきった、そう思えることは再チャレンジしなくても良いことだと思います

逆に、やりきったと思えないことであれば、再チャレンジした方が良いことだと思います

そのことができるかどうかは関係なく、そのことをやりきれたかどうかの方が重要だと思います

できなかった、その結果が今の自分に悪影響を与えることがあるのは、そのことを自分がやりきっていないからだと思います

どんなことでも、自分がやってみたいことをやりきっていれば、結果的にできないことがあっても、そのことは自分にプラスになっていくだからです

自分がやってみたいことをすべてやりきっていけば、例え、できないことがあっても、それとは別の自分がやりたいことが見えてきます

すべてのことができる人はいない、そうであれば、自分にできないことあっても何も問題はなく、自分にできることがすべて見えている人もいないように思います

自分が本当にやりたいことは、物事をやりきることで見えてくるものだと思います

「やればできる」そう思って、やりきっていない人には、永遠に見えてこないものだと思います

自分は何をしたいのか、そう思うことがあったら、まずは、自分がやってみたいことをやりきる、そのことで、自分が本当にしたいことが見えてきます

今の自分がやってみたいことを全力でやりきってみる

全力でやりきることができれば、結果に関係なく、今より良い自分になっていき、これから自分が進むべき道も見えてきます

今のまま進んだ方が良いのか、別のことをした方が良いのか、もっと色んなことを試した方が良いのか、一つのことに集中した方が良いのか

結果にとらわれることなく、自分にとって一番良い選択肢が見えてきます

結果は結果であり、良いこともあれば良くないこともあります

結果がすべてである、そう思ってしまうことあるかもしれませんが、自分を良くすることに関しては、結果はすべてではないと思います

自分を良くするために必要なことは、、自分で決めたことはやりきることだと思います

やりきったことで、自分が違うと思うことがるならば、そのことをやめても、変えても良いと思います

そこに、結果はあまり関係なく、本当に自分がやってみたいことを、やりきっていれば結果は自ずとついてきますし、そうでないことはついてこないと思います

結果はどうでもいいということではなく、結果だけを見ていては、本当に自分がやりたいことは見つからないように思います

自分が本当にやりたいことを見つけるには、自分がやってみたいと思うことをやりきることだと思います

何をしたらいいのかわからないときは、自分がした方が良いと思うことがあれば、そのことをやりきる、それがない場合は、誰もができる誰かがやる必要があることをやりきる

そうすることで、自分は本当は何をやりたいのか、そのことが見えてくるようになります

結果が出ればいいと、そのことをやりきることがないと、結果に振り回される人生になり、良い結果が出ない自分を受け入れることができなくなります

結果は、出すものではなく、出るものだと思います

どんなに自分が良い結果を出したいと思っても、自分が出したい結果が出るとは限りらないと思います

結果を出す一番の方法は、自分の力を最大限発揮することだと思いますし、それができるのは、全力でやりきれたときだけだと思います

結果は出るものですが、仮に、出すものだと思っていても、結果を出すために一番可能性があるのは、全力でやりきることだと思います

それなのに、結果を出すと思ってしまうと人は、全力でやりきることがないように思います

そのことが、自分の進む道を誤ってしまうことにもつながっているように思います

理由はどうであれ、今の自分がやっていることであるならば、そのことを全力でやりきるようにしていきましょう

そうすれば、結果に関係なく、次に自分が何をしたらいいのか、そのことが見えてきます

自分がした方が良い、そう思うことがあれば、そのことをやりきる、そう思うことがなければ、自分ができる、誰かがやる必要があることをやりきる

そうすると、他の人に幸せにように見せる人生ではなく、自分が幸せだと思える人生を歩むことができるようになると思います

今の自分はやりきっている、そう思えますか

自分がやりたいと思えることを
やれているとは限らないかもしれませんが

例えそうであっても
今の自分がやる必要があることであれば
やりきる必要があると言えます

もし、やる必要がないことをやっているのであれば
すぐにそのことはやめた方が良いです

しかし、自分がやりたいことではないけど
やる必要があることであれば
言われたからと思ってなんとなくやるよりも
全力でそのことをやりきる方が
そのことにも、自分にとっても良いと思います

どうせやるのであるならば
嫌々やるよりも
全力でやりきる方が良いに決まっています

自分が全力でやりきるのに
やりきることがなんであるかは関係なく
自分がやるきると思ってやっていけば
どんなこともやりきることはできます

自分がやりたいことをしたいのであれば
どんなことも全力でやりきる
そう思ってやっていけばできると思います

筆者の本
本3

癒しの心『自分らしくいる』

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自分と向き合うカウンセリング

あなたは、自分らしくいられていますか

自分らしくという言葉をよく耳にしますが、自分らしくとはどんな自分なのでしょうか

自分らしくにある、らしくを辞書で調べてみると、~と呼ぶにふさわしい、~としての資質を十分に備えていると載っています

辞書の意味をそのまま当てはめてみると、自分らしくとは、自分と呼ぶにふさわしい、自分としての資質を十分に備えているということになります

それは、今の自分より良い、理想の自分のことのように思います

今の自分より良い自分になるには、自分を受け入れることが必要です

ここで言う、自分を受け入れるとは、自分が受け入れたい自分を受け入れることではなく、受け入れたくない自分も受け入れることを言います

それは、自分の良いところだけではなく、良くないところも受け入れることです

しかし人は、自分の良くないところを受け入れられないことがあります

それだと、自分を受け入れているとは言えないので、自分らしくいることはできないと言えます

自分を受け入れるには、良くない自分を受け入れていけばいいのですが、良くない自分を受け入れられないことは以外とあるように思います

今の自分より本当に良くなりたいのであれば、良くない自分を受け入れることが必要です

しかし人は、良くない自分を見ないようにしていけば、良くない自分を受け入れなくてもいい、そう思って、良くない自分から目をそらしてしまうことがあります

良くない自分を受け入れることがなければ、どうすれば良くなるのかがわからないので、今より良い自分になることができません

人は、自分がどうすれば今より良くなるかがわからないときは、他の人と比べたり、他の人に良く思われることで、自分が良くなっていると思おうとしいきます

他の人と比べたり、他の人に良く思われたとしても、良くない自分を自分が受け入れることがなければ、本当の意味で今より良い自分になることはありません

それなのに人は、他の人と比べたり、他の人に良く思われることで、良くない自分を受け入れられないようにしていくことがあります

他の人より良い、他の人に良く思われれば、良い自分になっている、そう思い込んで、良くない自分を受け入れていかないように思います

他の人と比べたり、他の人に良く思われれば、良くない自分を受け入れなくてもいいと思っていては、今より良い自分にはなれず、自分らしくいることもできないと思います

他の人と比べることや、他の人に良く思われことが良くないということではなく、そのことで、良くない自分を受け入れないようにすることが良くありません

良くない自分を受け入れないままでは、他の人より良くても、他の人に良いと思われても、今より良い自分になるとは限りません

自分より良くないと思える人と比べる、実際には良くなくても、他の人より自分の方が良い、そう思うことで、自分が良いと思い込むこともできます

また、表面上だけ自分が良く見えるようにしていけば、実際には良くない自分を、他の人には良いように見せることもできます

他の人と比べる、他の人に良く思われることで、自分が良くなっているかどうかを見ることはできません

自分が良くなっているかどうかを見ることができないことで、自分が良くなっていると思っていては、自分らしくいることはできません

自分らしくいるには、良くない自分から目をそらすことなく、良くない自分と向き合うことが必要です

どんなに自分が、他の人と比べて良いと思えても、他の人から良いと思われていても、そのことだけでは、今より良い自分になっているどうかはわからず、自分らしくいるかどうかもわかりません

良くない自分を含めた、すべてを自分を受け入れることがなければ、どんなに他の人が良いと言ってくれても、今より良い自分になることはありません

今より良い自分になることがない自分が、自分らしくいるとは思えません

良くない自分は見たくないと思っている、或いは、他の人比べたり、他の人に良く思われようとしているときは、自分らしくいることはできないと思います

自分らしくいるために、自分を受け入れていくには、自分と向き合うことが必要です

自分と向き合うとは、向き合いたい自分とだけ向き合っていては、向き合うことができません

人は、向き合いたい自分とは向き合っても、向き合いたくない自分とは向き合わないようにしていくように思います

自分では向き合っているつもりでも、自分が向き合いたくないことを見ないようにして、そのことから目をそらしていくことがあります

自分と向き合うことがなければ、自分を受けいれることはできず、自分らしくいることもできません

自分が向き合いたい自分とだけ向き合い、受け入れたい自分だけ受け入れていては、自分と呼ぶにふさわしい、自分としての資質を十分に備えていることはないと思います。

そのままでは、自分らしくではなく、他人から良く見られる、他人らしくいる自分になってしまい、良くない自分を良くするのではなく、良くない自分を、無理やり良く見せるようになっていきます

実際に良くなるかどうかは関係なく、他の人に良く見られれば良くなる、そう思って、他の人に良く見えるようなことをしていくように思います

もちろん、他の人に良く見らるようなことをしても、良くない自分が良くなることはなく、自分らしくいることもできません

それなので、他の人から良く見られたいことをしている人は、もっと他の人に良く見られたいと思って、その行動がエスカレートしていくことがあるように思います

行動がエスカレートすればするほど、自分らしくいることからは遠ざかっていきます

それでは、自分と向き合えることはなく、自分らしくいることもできません

自分らしくいたい、そう思うのであるならば、自分と向き合っていきましょう

良くない自分から目をそらすことなく、良い自分と同じように、良くない自分とも向き合っていきましょう

良くない自分と向き合うことは、自分が向き合うと思っていけば、誰もが向き合うことができます

それなのに、良くない自分と向き合えないことがあるのは、心のどこかに、他の人に良く見られれば、良くない自分が良くなる、そういう思いがあるからだと思います

他の人に、良くない自分を良く見せることができても、良くない自分が良くなっているかどうかは、自分が一番わかっているはずです

他の人から良く見られても、良くない自分から目そらし、向き合っていなければ、良くない自分が良くなることはありません

大事なことは、良くない自分と向き合い、良くない自分を自分で良くしていくことです

良くない自分と向き合うことは、他の人に良くない自分を見せる必要はありません

ただ、良くない自分と、自分が向き合い、良くないことが良くなるまで続けていく、そう思って行動していけばいいだけです。

そう思うことができれば、今まで向き合えていなかった自分とも、向き合うことができるようになります

自分と向き合うことができていますか

向き合いたい自分とだけ向き合っているのではなく
向き合いたくない自分とも向き合っているかどうかです

人は、自分でも気がつかないうちに
受け入れたくない自分と向き合わないようにしています

良くない自分から目をそらして
良くない自分を見ないようにしていけば
良くない自分を受け入れなくてもいい

良くない自分を受け入れなければ
良くない自分がなくなり、良い自分だけになっていく
そう思おうとしていきます

しかし、どんなに良くない自分を受け入れなくても
良くない自分が良い自分になることはなく
良くない自分は良くない自分のままです

そんな自分が、今より良くなることはありません

今より良くならない人が
自分らしくいられるようになるとは思えません

自分と向き合うことは
自分が向き合うと思えば誰もができます

良くない自分は良くない、そう向き合えば良いだけです

良くなるかどうかは置いといて
良くない自分がいる、そう向き合えばいいだけです

そのままの自分と向き合うことができれば
良くない自分をどうすれば良くなるか

自分でその方法を見つけることができ
今より良い自分なっていくことができます

筆者の本
本3

癒しの心そんなものだ

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思い込みを捨てる

どうしてそのことをするのか、その理由を聞いたときに、そんなものだからと言われることがあります

そんなものと言われることは、これまでの経験が根拠になっていることが多いとは思いますが、ただの思い込みだけで、そんなもの、そう言っていることもあるように思います

そんなものと言われていることが、何かしらの根拠があるならば問題はないですが、今までそうだったからなど、根拠が曖昧なときは問題があると言えます

どうしてそうなのか、そのことに明確に答えられない、そんなものは、本当にそんなものなのか、検証する必要があると思います

しかし人は、そんなものということを、どうしてそんなものなのかと思うことなく、そんなものと思い続けていくことがあるように思います

特に、長く続いていることほど、そのことを行う理由を、そんなもので片づけてしまい、実際には、変えた方が良いことを変えずに続けてしまうことがあるように思います

そこには、これまで続けてきた、或いは、皆がそう言っている、という思い込みがあるように思います

これまで良かったことが、これからも良いとは限りませんし、皆が良いということが、本当に良いことであるとも限りません

何でも否定的に見るのはどうかとは思いますが、何でも肯定していくのも違うように思います

肯定するには肯定するだけの、否定するには否定するだけの、根拠が必要だと思います

そんなものだという理由だけで、物事を肯定したり、そんなものではないという理由だけで、物事を否定していくのは違うように思います

根拠のないそんなものだ、或いは、わからないことをそんなものだ、で片づけず、どうしてそんなものと言えるのか、そのことを検証した方が良いと思います

そんなものだと言える根拠が曖昧なことは、自分の思込みでそんなものだと思っていることのように思います

自分の思い込みによるそんなものだは、そんなものではないことが多いように思います

そんなものではないことを、自分の思い込みでそんなものだと思っていては、自分の人生が良くなっていくことはないように思います

人は、主観で物事を見ていきます

主観で見ていることには、少なからず自分の思い込みが入っていきます

物事を客観的に見るということは、今の見ていることには自分の思い込みがある、そう思って、物事の事実を見ていくことだと思います

それでも人は、主観にある思い込みを優先してしまうことがあるように思います

何の根拠もない、或いは、根拠がわからないことを、そんなものだとしているときは、自分の主観による思い込みが強いときのように思います

よくわからないけど、今までそうだったということ、他の人がそうだと言っていることを、そんなものだで片づけていることは意外とあるように思います

そこにあるのは、客観的に物事を見ることを放棄して、主観だけで物事を見ている自分がいるように思います

人には主観があるので、主観なしに客観だけで物事を見ることは難しように思いますが、だからと言って、客観なしに主観だけで物事を見るのも違うように思います

主観なしに客観だけで物事を見る、或いは客観なしに主観だけ物事を見るのではなく、主観と客観の両方で物事を見ようとすることが、物事を見ていくには必要なことだと思います

そんなものだが、そんなものであることもありますが、そんなものではないことを、そんなものだにするのは良くありません

そんなものだという言葉が通用するのは、何でそんなものなのか、その理由がわかっているときだけだと思います

その理由がわかっていないそんなものを、そんなものだと思っていて、何かが良くなっていくための判断がされていくことがないように思います

そんなものだ、そう言われることは、どうしてそんなものと言われるのか、その根拠を理解することがとても重要だと言えます

どうしてそのことをするのか、その理由が「そんなものだ」のときは、自分の思い込みが強いかも、そう思ったほうが良いように思います

「そんなものだ」といっていることの多くは、他の人との共通の認識のない、自分の思い込みだけの「そんなものだ」であるように思います

私も、そんなものだから、そう言ってしまうことがありますが、もし、そんなものだからの「そんなものだ」に違和感があるときは、そんなものだで済ましていてはいけないように思います

そんなものだから、そのことに違和感を感じることがあるならば、そのことは、そんなものだとしていてはいけないことのように思います

違和感があるということは、そのことに変えた方が良いことがあることを意味していると思え、その違和感をスルーするのは良くないと言えます

これまで良かったことでも、時間が経過していけば、悪いとまでは言わなくても、良くないことになっていることもあると思います

悪いことになっていれば、そんなものではいけないと思うかもしれませんが、そうではないことは、そんなものだで済ましていくように思います

そこには、自分の思い込みによる影響が強くあると言えます

思い込みがない人はいないと言え、思い込みをなくすことはできないと思いますし、なくす必要もないように思います

人は、主観による思い込みで物事を見ている、そう思って物事を見ていけば、思い込みによる「そんなものだ」はなくすことができるように思います

逆に、思い込みで見ていくのはいけない、そう思って、思い込みをなくそうとしていくと、思い込みで見ていることを、思い込みで見ていないことにしてしまい、もっと思い込みで見ていくようなると思います

今の自分が見ていることには、自分の思い込みが入っている、そう思いながら、自分が見ていることを解釈していくことが大事だと思います

特に、今まで続けてきたこと、自分が絶対にこうだと思う「そんなものだ」ということに関しては、自分の思い込みが強くなっていないか、そのことを確認したほうが良いと思います

そんなものだという言葉は、便利な言葉だとは思いますが、便利なものほど使い方には気をつけたほうが良いように思います

便利なものは、使い方が良ければとても有意義なものになりますが、使い方が悪いと有意義などころか、逆に悪影響を及ぼすものになっていくように思います

便利だからと思って使っていることが、実は、自分の生き方を不便にしていることもあるように思います

多くの人が便利だと勧めてくれることの中には、何が便利なのかよくわからないことも多くあるように思います

特にSNSに関しては、上手く使えば便利なものだと思いますが、上手く使えず、逆に不便になっていることが多くあるように思います

そのことが便利だと思うかどうかは、人によって違うと思え、自分が便利だと思うことを、他の人が便利だと思わないこともあると思います

しかし、自分の思い込みだけで物事を見ている人は、自分が良いことは他の人も良いと思う、そう思い込んでいるように思います

自分が便利だと思うことを、他の人が便利だと思わないと、「なんで、どうして」と聞いてしまい、他の人が便利だと思わないことを、受け入れようとしないことがあるように思います

思い込みをなくして物事を見ようとするよりも、自分が見ていることには思い込みがある、そう思っていけば、思い込みに惑わされていくことはなくなります

どんなことでも、自分の思い込みがある、そう思って物事を見ていけば、思い込みにとらわれてしまい、そんなものではないことを、そんなものだとしていくこともなくなると思います

そんなものだ、そう思っていることは本当にそんなものなのか、そのことを定期的に確認していけると、思い込みだけで物事を見ていくことがなくなっていきます

そんなものだから、そう思って済ましていることはありますか

そんなものだと思うことが
本当に、そんなものであれば何も問題はありません

しかし、そうでないときは問題があります

そんなものだと思うことが、そんなものではないときは
自分にとって良いことがないからです

今までそうだった、周りがそうだからという根拠で
そんなものだと思うことは、そんなものではないと思います

そんなものだから、そう他の人から言われると
そんなものかも、そう思ってしまうかもしれません

しかし、そんなものであることが、なぜそんあものであるのか

そのことがわからない、そんなものに関しては
そんなものだからで済ましてはいけないと思います

そんなものだと思っていることに
そんなものではないことがあるならば
そのことを、そんなものだと思うのは良くありません

人は、一度そんなものだと思ってしまうと
そんなものではないことがあっても
そんなものだと思い続けていくように思います

そのことが、良くないことを
良くないまま続ける要因になっていると思います

そんなものだからと言われることは
本当にそんなものなのか
そのことを、自分で検証するようにしていきましょう

それができると、自分の思い込みだけで
物事を見ていくことを防ぐことができます

筆者の本
本3

癒しの心『自分で答えを出す』

癒しの心 カウンセリング

答えは自分にしか出せない

「どうしたらいいですか」そう誰かに聞いてしまうことはありますか。

人は自分のことでも、自分で答えを出すのではなく、誰かに答えを求めてしまうことがあるように思います

しかし、自分のことであるならば、答えは自分にしか出せません

どんなに困難なことであっても、他の人が自分の問題の答えを出すことはできません

問題に対処する方法を教えることはできますが、他の人が自分の問題の答えを出すことはできません

それでも人は、自分の問題の答えを他の人に求めてしまうことがあります

そこには、自分に自信を持てない自分がいるように思います

自分に自信がない自分ではなく、自信が持てない自分です

自信がある、ないと、自信が持てる、持てないは、同じことのように見えても、自分に対する自信に関しては、まったく別の意味になります

自信とは、自分を信じることですが、自信がある、ないのときは、信用によって自分を信じているときで、自信が持てる、持てないのときは、信頼で自分を信じているときの違いがあります

信用で自分を信じるには、信じるための保証が必要ですが、信頼で信じるときは、信じるための保証は必要ありません

保証のいる信用か、保証のいらない信頼か、どちらで自分を信じているかで、自分に対する自信が、あるなのか、持てるなのかになっていきます

自分に自信をつために必要なのは、信頼で自分を信じることで、信頼は、自分が自分のことを信頼する、そう思えれば信頼することができます

何かができる、何かが優れている、何か地位があるなどは必要がなく、どんな自分でも、自分が信頼すると思えば、信頼することができます

しかし、信頼ではなく信用で自分を信じようとしてしまうと、信用のための保証がないときは、自分を信じることができなくなります

それでも、信用で自分を信じようとしていると、信用で信じるための保証を、他の人に求めていくようになります

他の人に、自分を信用するための保証をしてもらおうと、自分を必要以上に大きく見せたり、逆に、必要以上にできないように見せて、他の人からの保証をもらおうとしていきます

しかし、どんなに他の人に保証してもらえたとしても、それで得られる自信は、ある、ないの自信であり、自信を持つになることはありません

あれがあったら、あれがなければ、そう「たら、れば」を言って、自分がうまくいかないことのすべてを他のせいにしていくようになります

それでは、自分に自信を持つことはできず、他の人より自分の方が良いアピールをすることで、自信が持てない自分を隠そうとしていくようになります

「自分に自信がない」と思っているときは、信用で自分を信じようとしているときです

しかし、自分に自信がないと言いながら、何かにチャレンジができている時は、信頼で自分を信じることができているときです

信用で信じることが自信だと思い込んでいるだけで、心の中ではちゃんと、信頼で自分を信じることができているときだと言えます

自信がないと思って、誰かに自分の問題をどうにかしてもらいたい、そう思っているのは良くありませんが、自信がないけど、そのことができるようになりたい、そう思っているのであれば、そこには、自分を信頼している自分がいます

ただ、周りを気にしすぎて、そのことに気づいていないだけだと言えます

今の自分ができるとは思えないけど、できるようになりたい、そう思うのであれば、自分の問題の答えは自分が出すもので、他の人に答えを求めるのは違うと思っていけば、今の自分が自分を信頼してることに気づくことができます

自分にある問題を難しくしているのは、自分だと言えます

問題における難易度の違いはあるとは思いますが、その難易度が、自分の問題の難しさになっているかと言えば、そうではないように思います

問題にある難易度が低ければ、誰もが簡単だと思うわけではありませんし、難易度が高ければ、誰もが難しいと思うわけではないと思います

問題の難易度の違いはあるとは思いますが、自分の問題の答えを出せるのが自分しかいないのであれば、問題にある難易度は、自分がその問題をどう思うかで決まるように思います

自分が難しいと思えば、その問題の難易度は高くなり、逆に、自分が難しくないと思えば、問題の難易度は低くなるように思います

大事なことは、自分の問題の答えは自分にしか出せない、その事実を自分が忘れないことだと思います

自分の問題に自分で答えを出すには、自分のことは自分が決めている、その事実から目を逸らさないことが必要です

どんなに自分が決めていない、そう思うことがあっても、自分のことであればすべては自分が決めている、そう思い直すことが必要です

他の人が決めていると思うことも、他の人が決めたことをすると自分が決めていることですし、過去のことが決めていると思うことも、過去が決めたことをすると自分が決めているにすぎません

自分が決めていることを、自分以外が決めていると思ってしまうと、どんな問題に対しても、自分で答えを出そうと思えなくなります

自分のことは自分が決めている、そのことは自分がどう思おうがただの事実でしかないので、その事実を受け入れることが必要です

他の人が出す答えは、他の人から見た自分の人生の答えでしかなく、他の人から見た自分の人生の答えで自分の人生を歩む、そう自分が決めているのであるなら、それもありかもしれません

しかし、それでは、自分に起こる問題のすべてを他のせいにして、常に「自分は悪くない」と思って、自分の本当の思いから目を逸らしていくように思います

他の人と自分を比べて、自分の方が良いように見せれば自分の人生も良くなる、そんな妄想にとらわれてしまい、自分が良いアピールを周りにしていくように思います

他の人に良く見られたい、そう思うことがいけないとは思いませんが、他の人に良く見られれば自分が良くなると思うのは間違いです

他の人から良く見られても、今までの自分より良くなっていなければ、自分が良くなっているとは言えません

それなのに、他の人から良く見られれば、自分が良くなると思ってしまうと、周りから自分がどう見られているかが気になり、気にしなくてもいいことまで気にするようになっていきます

周りのことを気にすれば気にするほど、自分の問題の答えを周りが知っているように思ってしまい、自分で問題の答えを出そうとはせず、周りに出してもらおうとしていきます

そうなってしまうと、上辺の自分だけを見ている人の意見に左右されてしまい、本当の自分を見てくれる人の意見に耳を貸すことができなくなります

SNSのような自分の上辺しか見ていない人の指摘は気にするのに、自分のことを良く知る人の指摘は気にしないようになっていきます

今の自分を良くする、自分にとって本当に必要な意見ではなく、今の自分の上辺だけを良くする、自分にとって必要ではない意見を聞いていては、自分が本当に良くなることはなく、自分の問題の答えを自分で出そうと思うこともないように思います

自分の問題の答えを自分で出すには、自分に負けないことだと思います

他の人には負けてもいいけど、自分には負けないようにすることが必要だと言えます

自分に負けないとは、自分のすべてを自分が受け入れ、今の自分より少しでも良い自分になる、そう思っていくことだと思います

仮にそう思って、今の自分より悪くなることがあっても、そんな悪くなった自分より良い自分になる、そう思っていけると、自分に負けることはないように思います

自分のことを他のせいにしたり、自分で自分を否定したりしているときは、自分に負けているときだと思います

負けず嫌いは、他の人に対してするものではなく、自分に対してするものだと思います

自分に負けることがなければ、自分の問題の答えは自分で出すことができます

自分の問題の答えがわからない、そう思うときは、他の人に同じ問題が起こっていたら、自分はどうアドバイスするか、そのことを考えてみる

自分のことだとわからない問題も、他の人のことだとアドバイスができることがあり、そのアドバイスから、自分の問題の答えがわかることがあります

カウンセリングも、自分で答えを出すと思って受けるのと、答えを出してもらおうとして受けるとでは、効果が大きく変わってきます

自分の人生の問題に、「どうしたらいいですか」と聞いてしまうときは、自分の問題の答えを自分で出すのではなく、他の人に出してもらおうとしているときです

そんなときに、カウンセリングはとても有効な一つの手段だと言えます

自分で問題の答えは自分で出す、そう思って受けるカウンセリングは、心の病気や悩みごとに対するカウンセリングとは、また内容が別のカウンセリングだと言えます

自分の問題の答えを自分で出すためのカウンセリングは、自分の問題に自分で答えだすために、自分と向き合うためのカウンセリングだと言えます

「どうしたらいいですか」と人に聞いてしまうことはありますか

自分のことでなければ、そう聞くこともありますが

自分のことに関してそう聞いていたら
いつまでたっても、その答えは見つからないと言えます

自分の問題の答えを出せるのは自分だけです

そのことは何となくわかっていても
自分ではなく、他の人が出せるかも
そう人は思ってしまうことがあります

占いなどで「どうしたらいいですか」と聞いてしまうことがあるのは
自分の問題の答えを他の人に求めているからだと思います

そこには、自分に責任を持ちたくない自分がいるように思います

自分の問題の答えを自分で出してしまうと
そのことに対して自分が責任を持つ必要があるので
自分に責任が持てない、持ちたくない人は
自分で答えを出す必要がわかっていても
他の人に答えを出してもらおうとしていくように思います

自分の問題の答えは自分にしか出せません
自分にしか出せない答えを他の人に出してもらっても
それが自分の問題の答えになることはありません

自分の問題の答えでないことを
自分の問題の答えだと思って行動していて
自分が良くなることも、幸せになることもないと思います

どんなに、どうしたらいいかわからい問題でも
自分で答えを出すようにしていきましょう

他の人に相談して、アドバイスをもらうのは良いですが
他の人が言っていたからと
他の人のアドバイスをそのまま答えにするのは良くありませせん

今の自分では無理かも、そう思うときは
自分と向き合うための癒しのカウンセリングで
カウンセラーのアドバイスを受けながら
自分で答えを出していきましょう

筆者の本
本3

癒しの心『自分が決めている』

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自分にしか決められない

自分のことは自分が決めています、どんなに自分が決めていないと思うことがあっても、自分のことであれば、自分にしか決めることができません

それは、自分が決めていれば、すべてが自分の思い通りになるということではなく、どんな結果になったとしても、自分がした行動を決めているのは、自分だということです

自分以外の他が決めていると思えることがあっても、それは、他が決めたことを自分がする、そう決めている自分がいるにすぎません

他の影響があったとしても、自分がそのことをすると決めることがなければ、どんなに他の影響が強くても、人はその行動をすることはありません

それなのに、自分がしている行動を、他が決めていると思うのは良くありません

それは、他の人が決めていることをするのが良くないのではなく、自分が決めていることを他が決めていると思うことが良くありません

どんなに自分が決めていないと思っても、自分が行動しているのであれば、その行動は自分が決めているという事実しかなく、あることをないことにするのが良くありません

自分のことは自分が決めているのであれば、自分の人生にある問題の答えは、自分が出すものです

社会にある問題は自分だけで答えを出すことはできないかもしれませんが、自分の人生にある問題の答えは、自分にしか出すことができないように思います

人はそれぞれ違いがあり、すべたが同じである人はいないと言え、そうであるならば、同じ問題であっても、人によって答えが違ってもいいように思います

同じ人生を歩んでいくのであれば、同じ答えでなければいけないように思いますが、歩む人生に違いがあるならば、答えは人によって違ってくるように思います

そういった意味では、パートナー間にある人生の問題は、二人の問題なので、二人で答えを出す必要があるように思います

二人の問題を、どちらか一方の答えで解決しようとしてしまうと、上手く解決できないように思います

人は、自分一人や、複数の人にある問題の解決の仕方は、学校や会社などで学ぶことはあっても、二人の問題の解決の仕方を学ぶことはなく、自分が意識しなければ、自分一人で解決しようとして、うまくいかないことが多くあるように思います

どちらにしても、自分の人生の問題の答えは、自分が出すものであり、また、答えも自分の中にしかないと思います

自分のことは自分が決めている、今の自分は良くても悪くても、他の影響がどんなに強くても、今の自分がしていることのすべては自分が決めている

そう思うことができれば、人生の問題の答えを自分で出すことはできます

自分で答えを出すとは、自分一人だけで出すということではなく、他の力を借りながら、自分で出すということです

他の人と自分を比べて、自分の良し悪しを見ていると、自分のことを自分が決めていると思えなくなります

他の人と比べて、自分の方が良く見られれば、自分が良くなっていると思うのは間違いです

比べた人よりは良いかもしれませんが、それだけでは、今までの自分より良くなっているとは言えません

それは、自分は何も変わらない、或いは、悪くなっていたとしても、そんな自分の方が良いと思える他の人と比べれば、自分の方が良いと思うことができるからです

他の人と比べて自分の良し悪しを見ていれば、自分の都合の悪いことはすべて、他のせいにすることもできます

本当は自分はしたくはないけど、他のせいでやらされている、そう思えば、ダメな自分がいても、それは自分のせいではなく、他のせいだと思うことができるからです

そう思っている人は、自分の問題がうまく解決できないときも、他のせいにして、他に自分の問題の答えを出してもらおうとしていきます

「私はどうしたらいいのか」そう思っているときは、自分の問題の答えを他に出してもらおうとしているときだと思います

他に自分の問題の解き方ではなく、答えを求めてしまうと、他に依存するようになっていきます

自分とすべてが同じである人はいないのであれば、人にはそれぞれ違いがあり、人生の問題の答えも人それぞれ違うと言えます

それなのに人は、自分の人生の問題の答えを、他の人に求めてしまうことがあります

そこにあるのは、人生の答えを自分で出すことを怖がって、自分が良くなる自分ではなく、他の人から良く見られる自分になりたい、そう思っている自分がいるように思います

自分が良くなることよりも、他の人から良く見られると思うのは、そう思っていれば、自分のことでも自分が決めていないことがある、そう思えるのかもしれません

自分が良くないのは、自分ではなく、他の人が決めていることがあるから、そう思って、自分が決めていないことを正当化しているように思います

失敗したくない、そう思っているときは、他の人から良く見られるという思いが、心のどこかにあるときだと思います

新しいことができるようになるためには、失敗はつきもので、失敗せずに新しいことができるようになることはありません

失敗したくないということは、新しいことができるようになることはしないということで、それは、今の自分ができることしかしないということだと言えます

今の自分ができることしかしない人が、今の自分より良くなることはありませんし、そんな自分が、他の人から本当に良く見られることはないと思います

他の人から良く見られれば、自分が良くなると思うのは間違いで、自分のことは自分で決めていると思えれば、今の自分より良くなると思うことができます

自分がなりたい自分ではなく、他の人に良く見られる自分になりたいと思ってしまうのは、自分のことを自分で決めるよりも、他の人が決めていると思った方が楽だからかもしれません

しかし、楽をしていては、本当に意味で楽しくなることはなく、なりたい自分になることもできないと思います

他の人が決めていると思えれば、何かしらうまくいかないことがあっても、自分ではなく他のせいにできる、そう思っているのかもしれませんが、そう思っていて、人生が幸せになることはないように思います

他の人から良く見られると思うことが、いけないとは言いませんが、だからといって、自分が決めていないと思うのは良くありません

良い自分は自分が決めているけど、良くない自分は自分が決めていないということはありません

良くない自分は自分が決めていない、そう思いたい気持ちもわからなくないですが、自分が決めていないと思ってることが、良くなることはありません

良くないことが、良くなっていかない人生が、自分にとって良い人生になることはないように思います

そのまま、自分が良くないことは、自分ではなく他が決めていると思っていては、自分の人生は大きく狂っていくように思います

うまくいかないことは、すべて自分ではなく、他のせいにしてしまい、自分が努力するよりも、他から与えてもらおうとしていきます

他の人から良く見られたくても、他の人のことが良く見えてもいいですが、他の人に、自分の人生の答えを求めていくのはやめましょう

自分の人生の答えは、自分にしか出すことできず、自分のことは自分が決めているという事実を、自分が無視しなければ、自分で答えを出すことは誰もができます

簡単ではないかもしれませんが、自分が決めていると思っていけば出すことができます

自分一人で答えを出す必要はなく、他の人に答えを求めるのは良くないですが、自分で答えを出すために他に相談をすることは良いと言えます

自分ができることを他に頼るのは依存になりますが、自分ができないことを他に頼るのは依存ではなく、自立だと言えます

自分のことは自分が決めている、そう思っていける人は、自立している人だと言えます

自分のことは自分が決めている
そう思うことができますか

自分にとって良いことだけではなく
悪いことにも、そう思うことができるかどうかです

自分が決めていない、そう思いたいことがあっても
自分が決めているという事実から目を逸らさなければ

自分のことは自分が決めている
そう思うことはできます

自分のことは自分が決めているは
ただの事実でしかありません

事実であることを、そうではないと思うことほど
自分の人生を狂わすことはないと言えます

逆に、事実をそのまま受け入れることができれば
人生の問題の答えは、自分で出すことができます

自分のことは自分が決めている
その事実は受け入れていきましょう

それは、自分が決めていることを
すべて良いことにするということではなく

良くても悪くても
自分が決めていると受け入れることです

それができると
自分のことは自分が決めている
そう思うことは自然とできるようになります

筆者の本
本3

癒しの心『心のキャパ』

癒しの心 カウンセリング

心の思いを整理する

心の余裕がない、そう思うことはありますか

心の余裕がないと思うのは、心の許容量であるキャパが少ないからではないように思います

心のキャパは、人によってそんなに違いはないように思え、心の余裕がないのは、心のキャパが少ないというよりも、心のメモリーを無駄に使っているからだと思います

自分の心の思いのすべてと向き合っている人は、自分が見たくない思いとも向き合い、心の思いを定期的に整理しているので、心のメモリをいっぱいにすることなく、心の余裕があるように思います

しかし、自分が見たくない思いと向き合わない人は、心の思いを整理することができず、心のメモリーの容量限界まで思いを保存してしまうので、心の余裕がなくなっていくように思います

どんなに心のキャパを広げようと、心のメモリーを増やしたいと思っても、人の心のメモリーは、スマホやパソコンのように簡単に増やすことはできませし、増やせる量もそんなに多くはないと思います

それなのに、日々の生活にある出来事のすべてを、無条件で心の中に保存していては、自分の心のメモリーの空きがなくなり、キャパオーバーになるのも無理はないと思います

心がキャパオーバーになってしまうと、すべてのことに対して、何らかの結論を出さなければいけないと思ってしまい、しなくてもいいことまで、しなくてはいけないと思ってしまうこともあります

「しなければいけない」と思うことがあるときは、心がキャパオーバーで余裕がないときであり、自分がしなくてもいいことをしているときだと思います

心のメモリーの空きがない状態でキャパオーバーになると、新しい思いに対して一時保存ができなくなり、すぐに決断をしなくてはいけない状況になっていくように思います

それでは、本当に自分にとって必要な決断をすることはできないように思います

心の余裕がないときに、周りに振り回されてしまうことがあるのは、心の中が自分にとって必要ではない思いで埋め尽くされているときのように思います

そんな時は、心のメモリー量を増やすことよりも、心にある思いを整理することで、心のメモリーの空きを増やすことの方が必要だと言えます

そのためには、自分が自分の思いのすべてと向き合い、自分にとって必要な思い、必要ではない思いに分けて、必要がない思いをメモリーから消去することが必要です

自分にとって必要がない思いを、自分と向き合うことで定期的に消去していくことで、心のメモリーの空きを確保することができます

しかし、必要かどうかわからい思いの場合は、消去することはできないので、そのまま心のメモリーに残っていきます

心の余裕がない人の多くは、自分にとって必要かどうかわからない思いが、心のメモリーの大半を使っていることが要因だと言えます

周りのことばかりを気にして、自分の気持ちを抑えて、周りに合わせてばかりいては、心の中は自分にとって必要かどうかわからない思いでいっぱいになっていきます

自分にとって必要かどうかわからない思いはすべて、外付されている心の保管庫に保存するようにしていけば、心の中は自分にとって必要かどうかわからない思いでいっぱいになることはなくなり、心のメモリーの空きを確保することもでき、心の余裕がなくなることもありません

どうすることもできないということと、どうしたらいいかわからないということは違うと思います

他の人のことは、自分ではどうすることもできませんが、自分のことであればどうすることもできないということはないように思います

自分のことで、どうすることもできないと思っているときは、どうすることもできないのではなく、自分でどうしたらいいかわからないときだと言えます

心のメモリーの空きがなく、キャパオーバーになってしまうと、自分でどうしたらいいかわからいことを、どうすることでもできないとことだと思ってしまうことがあるように思います

自分がどうしたらいいのかわからないのは、自分の思いのすべてと、自分が向き合えていないからだと思います

自分が向き合いたい思いとだけ向き合って、自分が向き合いたくない思いと向き合わないようにしていても、向き合いたくない思いがなくなるわけでありません

心のメモリーがなくなる大きな要因は、自分の思いのすべてと向き合おうとしない自分がいるからだと言えます

 

自分が向き合いたくないことは、自分ではどうすることもできない、そう思っていることが多いように思います

自分の思いであれば、自分が向き合えないということはなく、どうすることもできないということもありません

そうかもしれけど、それができれば誰も苦労しない、そんな声が聞こえてきそうです

確かに、自分ではどうにもならない、そう思ってしまう気持ちもわからないわけでありませんが、自分のことを、自分がどうすることもできないと思っていても、そのことがどうにかなることはありません

自分がどうすることもできない、そう思っていることは、どうすることもできないことというよりも、どうすれば良いかわからないことだと言えます

どうすることもできないことと、どうすれば良いのかわからないことは、同じように見えてまったく違うことだと言えます

自分以外のことであれば、自分ではどうすることもできないということはあるとは思いますが、自分のことであれば、どうすることもできないということはないと思います

自分が向き合うことはすべて自分のことなので、自分がどうすることもできないということはないように思います

そうであるならば、自分がどうすることもできないという理由で、向き合うことができないということもないと言えます

自分ではどうすることもできないことだから向き合えない、そう思っているときは、自分ではどうすることもできないことではなく、自分ではどうしたら良いかわからないことのときだと言えます

どうしたら良いのかわからないことは、どうしたら良いのかわかるようにすれば、そのことに対応することができます

しかし、どうしたら良いのかわからないことを、どうすることもできないことにしていては、そのことと向き合うことができず、わからないことをわかろうと思うこともありません

どうしたら良いのかわからないことを、どうすることもできないことにしてしまうのは、どうしたら良いのかはわかるけど、それはしたくない、そんな思いがあるときのように思います

自分でもどうすれば良いかはわかっているけど、それはできない、というよりは、したくないと思っている、でもそうとは言えないので、どうすることもできない、そう主張しているときのように思います

どうすれば良いのかわからないことを、どうすることもできないことにしてしまうと、心のキャパはなくなっていきます

心が狭いかも、そう感じるときは、自分の心のキャパが少ないのではなく、自分の心のキャパを無駄遣いしている、自分にとって何の役にも立たない思いがあるだけのように思います

どうしたら良いのかわからないことを、どうすることもできないにしてしまうことがあるのは、そう思っていけば、あることがなかったことになると思っているからだと思います

どんなに、自分ではどうしようもないことだと思っても、あったことがなかったことになることはありません

自分のことでなければ、自分ではどうしようもないこともありますが、自分のことで、自分ではどうしようもないということはありません

自分でどうにかできることを、どうしようもないことにしていても、そのことがなくなることはなく、そのままでは、心の中は、自分ではどうしようないと思っていることだらけになっていきます

そうならないように、心の思いを定期的に整理するようにしていきましょう

自分の心にどんな思いがあるのか、そんな自分の心にある思いのすべてと向き合っていきましょう

良くも悪くも関係なく、どちらともいえない思いも、自分の思いだと思って向き合っていきましょう

そして、自分にとって必要な思いは残し、必要ではない思いは消去する、どちらかわからない思いは、心に外付できる保管庫にしまって保留にする

そうやって、定期的に心の思いを整理するようにしていけば、心のメモリーの空きがなくなることはなく、いつでも、どんな時も心に余裕が持てるようになっていきます

大事なことは、良くない思いや、どうしたらいいかわからない思いがあってもいいと思うことです

それがあってはいけないと思うと、無理に良い思いしようとしたり、自分ではどうしようもない思いにして、なかったことにしようとしてしまいます

自分にどんな思いがあっても、すべて自分の思いだと思って、自分が向き合うようにしていけば、良い思いはそのままに、良くない思いは良い思いに、よくわからない思いはわかる思いにしていくことができます

 

心のキャパが少ない
そう思うことはありますか

心のキャパの大きさは、多少の違いがあっても
人によって大きな違いがあるとは思いません

もし、自分は人より心のキャパがないと思うのであれば
それは、自分が心のメモリーを無駄に使っているだけだと思います

自分のことであれば、自分で解決することができます

それは、自分のことは自分が決めているからです

自分のことなのに、自分ではどうしようもないと思うのは
どうしようもないのではなく、どうしたらいいかわからないことです

どうしたらいいのかわからないと思うのは
自分の心のすべての思いと
自分が向き合うことができていないからです

どうしたらいいかわからないことは、わからない
向き合いたくないことは向き合いたくない
そう思うことがあってもいいですが
だからといって、向き合わないようにするのは良くありせん

向き合いたくないという思いのまま
そのことと向き合うようにしていきましょう

そうすれば、どうすればいいかわからないことも
どうすればいいのか
そのことが、少しずつ見えてくるようになります

 

筆者の本
本3

癒しの心『自分を認める』

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今の自分を肯定する

今の自分を認めることができますか

自分が認めたいと思う自分だけではなく、認めたくないと思う自分を認めることができるかどうかです

認めるという言葉を辞書で調べてみると、第一に、目にとめる、存在を知覚する、気づく、第二に、見て、また考えて確かにそうだと判断する、第三に、 正しいとして、また、かまわないとして受け入れる、第四に、能力があると判断する、第五には、気をつけて見る、じっと見るとあります

認めるという言葉の意味にある、第一、第二、第五の意味と、第三、第四の意味とでは、認めるということの捉える方が変わるように思います

どちらの意味で認めるかを使っているかによって、自分を認めるの意味が変わるように思います

自分を認めるという時に使う「認める」の意味は、第一、第二、第五の方だと思います

第三、第四の意味の方で使ってしまうと、正しくない、かまわないと受け入れられない、能力がないと思う自分を認めることができなくなります

確かに、認めるという言葉には、第三、第四の意味で使われることもあるとは思いますが、この意味の認めるを自分を認める時に使うのは違うように思います

辞書を見ても、5つの認めるの意味があるならば、自分を認めるという時に使う「認める」が、どの意味なのかを知ることは大事だと言えます

認めるとは、決して、そのことが正しい、良い、或いは、能力があるかどうかを認めることだけを意味しているものではありません

それなのに、認めるということは、正しいや良い、能力があることだと思ってしまうと、今の自分にはそれがないかも、そう思うことは認められないことになってしまいます

そのうちに、自分が認めなければ、そのことがなかったことになると思ってしまい、自分が認めたくないことは認めないようにしてしまうことがあります

それは、自分が自分に嘘をついていくのと同じことであり、自分に嘘をついている人生が、本当に自分が幸せだと思う人生になることはないと思います

自分を認めるということは、良い自分は良いと、ダメな自分はダメと、どちらでもない自分はどちらでもないと、そのままの自分を認めていくことです

良い自分でなければ認められないと思うのは、自分を認める時の認めるとは意味で捉えているからで、罰の意味での認めるで自分を認めようとしていくのは良くありません

どうしても、認めるという言葉を聞くと、良い自分を認めると思ってしまうのであれば、認めるという言葉を使うのではなく、認識するという言葉を使うのも良いと思います

認識するを辞書で調べてみると、ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること、また、そういう心の働きと載っています

自分を認識すると思えば、良いやダメということは関係なくなり、自分の本質を理解することだけを意識することができるように思います

ダメな自分を認めたくないと思うのは間違いであり、そこには認めるという言葉にある、一部の意味だけにとらわれている自分がいると思います

自分を認めるとは、自分を認識することであり、それは、良くも悪くも、或いは、どちらでもない自分をそのまま理解しようとすることだと言えます

どんなに自分が「嫌だ、ダメだ」と思うことがあっても、そのことが自分にあるということだけを認めていきましょう

自分が自分を認めることができなければ、自分を受け入れることができず、自分を受け入れることができなければ、自分が本当にやりたいことを見つけることはできないように思います

自分にはやりたいことがないと思う人は、今の自分に、自分が認めたくないことがある人かもしれません

自分を認める為の認めるの意味を、認識と同じようにするには、物事を肯定していくことが必要だと言えます

肯定とは、そのとおりであると認めることであり、自分を肯定するとは、自分が良い所はそのとおりと認めて、自分のダメな所を、ただそのとおりと認めることです。

決して、自分は良い、或いは、できると思うことではないと思います

良いことは良い、ダメなことはダメ、できることはできる、できないことはできないことを、そのとおりだと認めることだと思います

それなのに人は、良いことを良いと認める、できることはできると認めることだけが、肯定することだと勘違いしてしまうことがあるように思います

そう思ってしまうと、ダメな自分をダメ、できない自分をできない、と認めることができないので、自分を肯定することは永遠にできないように思います

自分を肯定できない人の多くは、肯定することを良い自分、できる自分と思うことである、そう思っているように思います

そこには、良い自分になりたい、できる自分になりたいという思いがあるように思います

誰もが、良い自分、できる自分になりたいと思っているとは思いますが、良い自分、できる自分でなければ、自分を肯定することができないと思うのは違うと思います

そう思ってしまうと、なりたいという願望が、なるという志望ではなく、欲しいという欲望に変わってしまうように思います

本当に自分がそうなりたいのであれば、願望が「こうなって欲しい」という欲望になっていてはなれず、「こうなる」という志望にする必要があります

願望が欲望になってしまうと、願望を求めてしまい、求めてしまうと、願望を手にしていない自分を自分が認めることができません

しかし、願望を志望にしていけば、願望を目指していくので、目指している内は願望を手にしていないのが当たり前であり、願望を手にしてない自分を認めることができます

何かを求めるのと、目指すのでは、そのことを手にする過程が大きく変わってくると思います

人は、求めてしまうと、そのことを手にすることだけを考えてしまい、自分がすぐに手に入れられないことがある時は、誰かに与え貰うとしていきます

それだけではなく、他の人のものを奪ってでも手にしようと思ってしまうこともあります

しかし、それらのことで手に入れたものは、自分の願望にあったものとは違うものだと思います

自分で得るものではなく、他から与えてもらう、或いは、他から奪って得られたものは、例え見た目が同じであっても、自分の願望を手に入れていることになっていきません

仕事の面接などで、志望動機が聞かれるのに、願望動機や欲望動機が聞かれることがないのは、良い仕事は、「こうしたい」という願望や「こうなって欲しい」という思いではできず、「こうする」という思いが必要だからだと思います

「こうする」と思うから、人はそのことを実現する為の行動ができると思います

だからこそ、仕事においては志望動機が聞かれるのだと思います

願望を欲望ではななく、志望にしていくには、今の自分を肯定をして、そのままの自分を認めることが必要だと思います

それができれば、「したい」という願望は、自然と「する」という志望になり、自分は何をしていけば良いのかがわかってきます

自分が何をしていけば良いのかがわかってくれば、どんなに困難なことがあっても乗り越えることができ、なりたい自分になっていけると思います

肯定は、そのとおりだと認めることなので、自分を肯定することできれば、今の自分の良い所ダメな所も、そのとおりだと認めることは、誰もができます

自分を肯定することができますか

自分が何かできるから、良いと思えるからではなく
できてもできなくても、良くてもダメでも
今の自分を、そのとおりりだと認めることができますか

もし、できないと思うことがあるならば
自分の人生の志望動機を自分に問いかけていきましょう

「こうしたい」という願望から
「こうする」という志望にするものは何か
それを自分に問いかけていきましょう

初めは、答えが出なくても構いません

答えが出ない時は
これだけは絶対にやりたくないことを決めて下さい

それが決まれば、そのこと以外はやれることになります

絶対にやりたくないことを決めれば
「こうしたい」という願望を
「こうする」という志望にすることができます

就職の面接経験がある人は
その時に書いた志望動機を思い出して
自分の人生の志望動機を考えて見てください

眼房が志望になっていけば
自分は何ができて、なにができないのか

そのことがわかってきて
本当に自分がしたいことも見えてくると思います

筆者の本
本3

癒しの心『心のケア』

癒しの心 カウンセリング

心を良い状態にする

心は健康ですか?

そう聞かれて、「はい」と即答できる人はどれだけいるでしょうか

健康だとは言えなくても、病気でなければいい、或いは、心の問題がなければいい、実際にそう思っているいる人の方が多いように思います

本当の意味で、心が健康な人はいないかもしれませんが、だからといって、心に病気や問題がなければ、健康ではなくてもいいと思うのは違うように思います

同じ心が健康ではない状態であっても、心を健康にしようと思うのと、そうではないのでは、心の状態は大きく違ってくるように思います

社会にある心の問題は、心に病気や問題を抱えることよりも、健康ではない心を健康にしようと思わないことに要因があることの方が多くあるように思います

思わずため息が出ている時や、イライラして誰かにあたっている時は、心の病気や問題までとは言わなくても、心の病気や問題がある時と同じような心の状態が、自分にあるように思います

そこにあるのは、病気や問題でなければいいと思う状態があると思います

体が健康になる為には、バランス良い食生活が必要ですが、心が健康になる為には、バランス良い考え方が必要だと思います

人は、何も食べないで体を創ることができないように、何も考えないで心を創ることはできないと思います

だからといって、何でもいいから食べていては、体は健康にはならないと思いますし、何でもいいから考えていても、心は健康にはならないと思います

心も体も健康であることが一番望ましい、そのことに異議を唱える人はいないとは思いますが、だからといって、健康になると思って、心のケアをしている人はそんなにいないよう思います

特に何もしていなくても、心や体が健康であるならばそれでも良いとは思いますが、人が社会で生活している限りは、何もしないで心が健康でいられることはあまりないように思います

心が健康でいる為には、心を健康にしていく為の、心のケアが必要だと思います

体の場合は、健康になる為に体のケアをする人はいると思いますが、心の場合は、健康になる為に心のケアをする人はあまりいないように思います

体のケアの為に、エステや美容室、ジムやマッサージなどでを利用する人は多くいると思いますが、心のケアの為に、カウンセリングを利用する人はあまりいないように思います

そこには、体と心における、健康に関する認識の違いがあるように思います

体の場合は健康ではない状態があると、自分だけでなく、周りに気づいてもらえますが、心の場合は、自分では気づいても、周りに気づいてもらえないことがあるように思います

周りに気づいてもらえないと、自分がいけない、ただ甘えているだけかもしれない、そう思ってしまい、自分で心のケアをしようとまで思うことがないように思います

そこには、体が健康ではなくなる要因よりも、心が健康ではなくなる要因の方が、個人差があることが影響しているように思います

体が健康ではなくなる要因は個人差はあっても、目に見える症状が多くあるので、他の人にも何となくそうかなと思えるものがあるように思いますが、心の場合はそうではないように思います

心が健康ではなくなっていく場合は、目に見えてわかる症状があまりないことがあり、他の人からは何で健康ではなくなっているのかが、わからないことがあるように思います

心が健康でなければ、体と同じように健康にする必要がありますし、仮に心が健康であるならば、健康であり続けられるようにする必要があると思います

心も体も健康でいる為には、自分で健康になる為のケアが必要であり、健康でいる為の心のケアとしてあるのがカウンセリングになります

カウンセリングは、心に病気や問題がある人に必要なものだけではなく、心の病気や問題が起きないように、心が健康でいる為にケアする為にも重要な役割を担っています

心が健康になることは、してもらうことはできないので、することが必要です

してもらうは、自分以外の他にしてもらうことであり、するは、自分ですると言うことを意味しています

心の病気や問題をなくす時は、他にしてもらうことが必要なこともありますが、病気や問題がなくなり、健康な心になるには、他にしてもらうことはなく、自分ですることしかないと言えます

そのことは頭ではわかっていても、自分でするのではなく、他にしてもらう、そう思ってしまうこは多々あるように思います

心理カウンセラーになる前に、体の健康に関する仕事をしていた時にも、体を健康にするのは自分である、ということに誰もが「そうですね」と言うのに、実際には、他に健康にしてもらおうとする人が多くいたものでした

頭ではわかっていても、行動することがないのは、わかっているのではなく、わかったように思っているだけのようにも思います

そこに大きく関係しているのが思考だと思え、自分が考えたいことだけ考えて、自分が考えたくないことは考えない思考が、そこにはあるように思います

自分がこうしたい、こうして欲しいという、願望や欲望だけで物事を考えてしまい、願望や欲望が叶いそうなこと以外は受け入れないような思考があるように思います

それだと、自分で何かをしようとするよりも、他に何かしてもらいたいと思ってしまうので、健康も他がしてくれないかと思ってしまいます

どんなに、願っても、欲しても、健康に関しては他の人がしてくれることはありません

他の人がサポートすることはできても、最終的に健康にすることができるのは自分しかいません

それでも、体の健康の仕事をしている時に一番多い質問は、「これを飲めば健康になりますか」という質問でした

その質問にあるのは、自分で健康にするという思考ではなく、私が扱っている商品が健康にしてくれないかという思考だと思います

大事なことは、何をするかよりも、何のためにするかであって、そこには、健康になりたい、健康にしてほしいという思考と、健康にするという思考の違いがあるように思います

ちょっとした思考の違いが、健康に関しては大きな違いになっていることを、体の健康の仕事をしていた時に実感したものでした

その時に、物事の考え方は大事だと思って、自分が健康にするという思考になる為のカウンセリングを行っていきたいと思い、心理カウンセラーになって今に至っています

何をするかではなく、何のためにするのかという思考が持てるようになると、健康だけではなく、自分の人生は自分が創っている、そう思うことができ、なりたい自分になっていくことができると思います

自分で心を健康にする為には何をするのがいいのか、そう考えた時に必要なことは、健康とはどういう状態かを知ることだと思います

健康とは、WHO憲章では「肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱 の存在しないことではない」と定義されています

健康とは良好な状態のことであり、決して、病気や問題がない状態のことではないと思います

病気や問題がなければいいと思うことは、心が健康ではなくてもいいと思うのと同じことだと思います

健康ではなくていいと思っている人の心が健康になることはなく、健康になることのない心では、病気や問題が起きることがあっても何の不思議もないと思います

健康は、健康になると自分が思うから健康でいられるのであって、健康になれたらいいなと思っているだけでは、健康になることはありません

病気や問題をなくしても、また病気や問題が起きてしまうのは、健康になっていないからであり、それは、病気や問題がなければいいと思って、自分で健康になると思っていないからだと思います

病気や問題がなければいいは、病気ではないけど健康でもない、まだ健康ではない未健康な心であることに気づいて、心を健康にすると思うことが必要です

心を健康にするとは、心を良い状態にするということであり、今の自分の心が悪くはなくても、良いとは言えないのであれば、良い状態にする必要があると言えます

今の自分の心は良い状態ですか

心の状態が悪ければ、良くする為の心のケアが必要であり
心の状態が良ければ、それを維持する為の心のケアが必要です

心のケアをしないで
心が良い状態でいることはできないと思います

心のケアをする為に必要なことは
そのままの自分と向き合っていくことです

向き合いたい自分とだけ向き合うのではなく

向き合いたくない自分とも向き合うことが必要です

向き合いたい自分とは向き合うけど
向き合いたくない自分とは向き合わないでいると

心が良い状態になっていくことはなく
心に病気や問題が生じてしまうこともあります

向き合いたくない自分と向き合えないのは
他の人の評価で自分の評価が決まると思って
他の人にどう思われているかを気にしているからです

どんなに向き合いたくない自分であっても
自分であるならば向き合う必要があります

例え、他の人から評価されないと思う自分であっても
自分であるなら向き合うことが必要だと言えます

そのままの自分と向き合うことはできていますか

向き合える自分だけではなく
向き合えない自分と向き合えているかどうかです

癒しのカウンセリングで、向き合えない自分と向き合うことができます

もし今の自分に、向き合うことができない自分がいるならば
向き合えない自分と向き合う、癒しのカウンセリングをお試しください

筆者の本
本3